四部承太郎
存外、空条承太郎は驚きこそしなかった。
久しぶりに帰った家。車のエンジン音でも聞きつけてか、戸口で顔を合わせた妻が早々に、
「別れよう。そのほうがいい」
と言って彼を出迎えても。
まるで「おかえりなさい」を言うような自然な流れに困惑も動揺もしなかった。
「そうか」
最低限の返答だけして妻の横を通り過ぎる。
承太郎は長らく主人を迎え入れていなかった書斎に向かった。
彼のほかに誰も使わないはずの部屋。その窓際には生花が飾られている。書類を手にしようと机の上を覗きこむと、磨き抜かれたそこに彼の顔が映りこんだ。
承太郎はそれらを見なかったことにして、必要な荷物だけを簡単にまとめて書斎の戸を閉めた。
書斎から戻ると、妻は夫を迎えたときそのままの場所から一歩も動かず、わずかに俯いていた。陰を帯びた背中がとても小さく震え、両の手を前に堅く組んでいるのも、承太郎は見なかった。彼女が苦しみに気を張るときの癖だと、承太郎は知っている。それも最初から知らなかった振りを決め込んで、彼女の横を通り過ぎた。
「――幸せになってください」
投げかけられた声に、思わず振り返りそうになった。しかしそれも結局承太郎の足を一瞬ばかり止めただけだった。
後ろで女が崩れ落ちる気配がした。
叶うならきつく抱きしめてやりたかった。しかし、空条承太郎はそうはしなかった。できなかった。決断した彼女の気持ちを揺らがせることなど。
ハンドルを握りながら、空いた手が自然に煙草を探っていた。そういえば煙草はやめたんだったか、と思いだして自嘲する。煙草を吸わなくなって何年も経ったというのに。これでも少なからずショックを受けていたのかと、どこか呆れた。
脆い彼女だからいつかはその時が来るものとどこかで解っていた。しかし自分から別れを打ち明けなかったのは、その一方でこの関係が切られる事はないものと過信していたからなのかもしれない。辛い決断だっただろうに、全て押しつける結果になってしまった。つくづく不甲斐ない夫だったものだ。
「幸せに、か」
反芻してから、承太郎はその真意に想いを馳せた。
自分が彼女の立場だったなら、別れる相手にそんな言葉を投げかけられるだろうか。
願わくば。自分も彼女と娘には幸せに生きてほしい。その一方で一生幸せになどなるなと願をかけてやりたかった。自分のいない家で笑わないでくれと。ひどいものだ。ほんの僅かな、些末な、心の片隅にちらりと覗いただけの暗い陰だったが、ひどく惨めにさえ思えた。
承太郎は次にホテルを見つけたら今晩はそこに留まることにし、何年かぶりに煙草を吸おうと心に決めてハンドルを切った。
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