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越境でアカギ

 九月も半ばを過ぎていた。
 わたしの住む耐久年数のやたら低そうな安アパートも、例年通り見事に隙間風が侵攻していた。六畳一間、風呂なしトイレ共用、貧乏を絵に描いたようなその日暮らしを続ける中で、室内温度がだだ下がりになるのは、これだけでストレス指数がマッハになるくらいには深刻な事態だ。たとえ父親やその世代であろう大学教授のわけのわからない苦労話「おれの若い頃は畳一枚の上で生活していた」をさんざ聞かされてはいるけれども(彼らが額面通り「一畳間で暮らしていた」のか、押入れにこもっていたのか、あるいは掃除というものを知らずに自ら居住空間を狭くしたのかは話を耳から耳に流したので謎だ)、六畳一間だからとはいえ苦労が6分の1になっているわけじゃない。むしろ外に接する壁の面積が広いぶん、隙間風は比じゃないはずだ。
 くどくどと何が言いたいのかというと、わたしは隙間風を防ぐために昨日の晩にガムテープで窓を目張りしたのに、そこから忍びこんだらしい男の人が布団の中に潜りこんでいて、心臓が口から飛び出るほどびっくりしたってこと。
 朝、目を覚ましていちばんに飛び込んできたのはフワフワした白い毛だった。少なくとも目覚めたその瞬間は猫か何かの毛なんだと、ぼんやりした頭で思って体を起こし、猫って何食べるんだっけ、牛乳ってだめなんだっけ、と台所に立ちかけたところでぐるりと勢いよく二度見した。
 それこそ猫のように、ただごとじゃない気配を察したのか、薄っぺらい布団がのそりと動いて「おはよう」と言った。反射でわたしも「おはよう」と言う。以前からずっとしてきたみたいに、このやり取りがしっくり来て錯覚をおぼえる。
 布団から体をみせた彼は思ったより年をとっていた。べつに中年だったとかってわけじゃなく、それまで十五、六くらいの少年かと見間違えていたからだ。年のころは学生をやっているわたしとそう大差ないように見えた。
 彼のしわくちゃになったシャツに、さらにしわがよる。彼は家主のわたしを気にせず、不躾に部屋を見渡した。
「なるほどね」彼はしばらくして口にした。わたしは次に飛び出した彼の言葉に目を剥く。

「隣と間違えた」

 それからすたすたと躊躇なくわたしの横を抜けて、彼は玄関から外に出て行った。突っ立ったままのわたしの耳には、薄い壁向こうからオンボロドアベルの音が届いた。間をおかず、もう一回、もう一回とベルの音が響く。隣室の男がばたばたと慌ただしく玄関に向かい、「おま……っ、いま何時だと思って…っ」情けない声でさっきの彼を招き入れたのが聞こえる。しばらく問い詰めていたようだったけれど、そのまた向こうの部屋から壁ドンを受け、アパート中が静けさを取り戻した。
 時計を見るとまだ長針は4と5の間を指していた。生き残っていたガムテープも剥がして窓を開けると、外はまだ薄っすらと白みはじめたばかりだったので、わたしはもう一度目張りを完了させ、体温の残る布団を頭からかぶって二度寝した。

 この日一つだけ取っていた仏文学の講義を終えてアパートの階段をのぼっていたところだった。隣の部屋の住人とすれ違った。向こうがわたしに気付いて「あ」の口の形になったので「こんばんは」と定型文を返した。「今朝はその…」と、たしか伊藤とかいう名字だったその人が申し訳なさそうに口元をひきつらせながら申し出たので、胸の前で手を振って「気にしてないですよ」と伝えた。わたしはただ、出来る限りこの閉鎖空間でお互い棘を作りたくなかっただけなのだけど、伊藤さんはとても有り難そうにぺこぺこと礼をして出かけて行った。


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