いろはにほへと
身と心を清めるためのうやうやしい神事を終え、審神者としての役目を授かるに至った今も、名前は緊張を解けないでいる。やり場のない視線。仕方なく祭壇を注視すれば、鏡面に頼りなさげな自分の姿が映る。
実際、名前はこれまで勅命を賜り別時代へと送られたどの審神者よりも非力だった。審神者たちは誰も彼も拝命される以前より、付喪神を降ろすのを教えられもせず知っていたというのに、彼女に至っては力の兆しすらなかった。政府より命が下ったのも、つい先日のことだ。名前の選ばれる決め手となったのはただ血のみである。とはいえ家が代々審神者を継いできたわけではなく、素質としての血が備わっていると判断されてのことだった。
名前の見つめる鏡の端には、いかにもといった風体の、徳の高そうな祭司が薄く細められた目で彼女を見下ろしているのが映っている。その視線に、新たな審神者として生まれ変わった自分へのかすかな不安、期待が見え隠れしたような気がして、名前は膝の上に握りこぶしを作る。たかだか一般人として生きてきた自分に、歴史を変えさせないように働きかけるなどと大層な仕事が務まるのだろうか。頭の中はひたすらそれでいっぱいだった。前評価からして重たすぎる。
正坐をし直した彼女の前に、供物のように刀剣が並べられていく。これらの刀たちの中からひと振りを選び、付喪神として目覚めさせるのまでが正式な審神者としての儀式だ。ここで手にする刀は、いうなれば最も長く連れ添う相棒ともいえる。慎重に吟味すべきだと思う反面、自分でも気付かぬうちに一本の刀から目が離せなくなっていた。
山姥切国広。
横から祭司が告げた。名前同様、今までの審神者たちも第六感めいた天啓を受けていたのかもしれない。別段気にした風もなく、手に取るようにと促された。自分にもたしかに審神者としての力は芽生えているのかもしれない。はやる心を鎮めようと息をつき、言われるがままにする。
山姥切国広を両の手で取るなり、まるで随分前からそうあったように馴染み、しっくりときた。覗き見るようにそうっと、鞘から刀身を引き抜き、思わず息を呑む。直感が確信に変わり、名前は思案する。
念じるだけで済むのだと政府のお偉方は言っていた。だが具体的に何と念じればいいのだろう、少し考えて目をつむる。
物に――刀に宿る想いを形に為すのが審神者の力。力はほのかな光となり、山姥切国広を包み込み――人の形を為した。
現れたのは青年だった。
先程、刀身を手に取った時とは別の意味でまた息を呑む。確かに自分は審神者だった、と安堵するよりも別の気持ちが心をあっという間に占めた。
――すごく綺麗なひと。
名前は無作法であるのも忘れて、彼に魅入る。一方でどこか違和感をおぼえながら。
立ち姿のままの彼は視線が注がれるのに耐え難かったのか、頭から羽織った真っ白な布を目深に引いてしまう。
「……俺は山姥切国広」
場に限らず、こういったことは第一印象が重要だ。仕えるに値する審神者であるのか。これから長くを共にする彼に、認めてもらえなければならない。
緊張に背筋が伸びる。
「わたしは名前と申します」
青年の目元に影が差す。けれど瞳には真っ直ぐ名前を映してもいる。
「俺は……偽物なんかじゃない」
困惑に「え」と、唇の形が定まる。傍らの祭司に目で助けを求めるも、彼は続ける。
「山姥切の写しとして打たれた。それが俺だ」
ややあって、ああ、と承知する。
刀剣には完全なる創作のものだけでなく、他の刀を写し取ったものも存在するのだと聞いていた。彼はその「写し」にあたるのだ。そして写しであることでつらい想いを抱いてきたのだろう。何しろ審神者のおろす付喪神とは、「心を目覚めさせられたもの」なのだから。開口一番にそれを告げるほどに、彼の負う想いは強い。
彼の心を形として留め置くため、名前は何か言わなければならないと強く思った。心の内を開く言葉を。そう思うのに、思えば思うほど思考が絡まって上手い言葉が見つからない。
とにかく何かを発さなければと、その一心だった。
「あなたがいいのです」
絞り出したのは、ついさっき念じた想いだった。
「あなたでなくちゃ駄目だと」
二言目のダメ押しを言い終えてから急に自分の言ったことを悟り、顔が熱くなった。膝の上で両こぶしを握り、恥ずかしさにうつむく。そうしている間にも名前がひしひしと頭上から重苦しい視線を感じるのは、きっと気のせいではない。
祭司も間に入ってくれれば助かったというのに、だんまりを決め込んでいる。おかげで沈黙が何十分にも感じられた。
「わかった」
はっと顔をあげる。布の下の表情はさっきとあまり変わっていない。けれど彼の周囲を取り巻く空気は、別の形に変化していた。
たった一言きりで全てを伝えたとでも言わんばかりに、山姥切国広は名前の手から刀を取ると、綺麗な所作で脚を運び、すたすたと部屋を後にした。残された名前は呆気に取られる。準備の整った時空間転移装置へと呼びに連れられるまで、与えられた「わかった」の意味に頭を捻っていた。
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