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お砂糖ひとかけ

 子供のころ、母さんと一緒にジャムを作った。裏庭の畑で採れたクランベリーをたっぷり仕込んで。
 母さんは料理がそんなに得意じゃあなかった。ご多分にもれなく、彼女に育てられた私もマメなほうではない。ことさら、うちの庭で採れたベリーはとても甘かったものだから、私たち二人して『ジャムはつぶして煮詰めればなんとかなる』とたかをくくって大失敗。お砂糖をみじんも投入してやらなかったジャムもどきは、口に放るなり思わず眉間に皺を寄せかねない出来だった。

 ぐつぐつ、ぐらぐら。

 いま、私が掴んだ鍋の中にはクランベリーのごった煮が。果実だったものたちは、おとぎ話の中で魔女ばあさんの作る薬みたいな、不気味な音をたてている。既視感どころの騒ぎでない。せめて誰かに助けを乞うて、レシピを伺っておけばよかった。
 肩を落としかけると、鍋の音に別の音が加わった。玄関の扉の、古い蝶番のきしむ音。いつもならマメに油をさしているものを、ここ数日は人の出入りがないものだから、すっかり忘れていた。
 こんなに遅れて誰だろう、と私は首を傾げながら、台所を背にする。
 短い廊下の先から、「よう」と、変わらない笑み。彼のたわわに実った金髪が歩調に合わせて揺れていた。ただ、一つだけ変化はあって、背の高い格子柄の帽子が金糸の上に乗っかっている。着回されて少しくすんだ服とは似合わず、トップハットは上等にみえたけれど、不思議と彼の身におさまるとなると、そこが一番似合いの席にさえ感じられた。

 物心ついたころから、それこそ毎日のように彼と顔を突き合わせていた私にとって、今日という日は再会と呼べるほどに永い時間が過ぎ去ったようだった。少なくとも、ここ数週間ほどはオウガーストリートでも滅多に噂すら出回っていない。
 彼は勝手知ったる我が家のように食卓の椅子を引き、どっかと腰を下ろす。私は内心慌てて鍋の火を調節し、もう出涸らしになりかけの紅茶の葉を準備する。これでもこの家ではかなり高貴な飲み物で、とびきりの客人用にとっておいたものだ。

「いい匂いがしてよ。思わず足を運んじまった」
「そんなに近所に香ってた?」
「ここには似合わない匂いだったからなぁ」
「たしかにね。珍しいかも」
「名前もおふくろさんも、お世辞にも料理上手とは言えねえから驚いたぜ」

 ポットのお湯が沸騰した。私はあくまで紅茶の準備に専念する振りをしつつ、彼に背を向けたまま、強張りかけた肩の緊張を解くのに必死だった。

「ねえ、ジャム好き?」
「うーん…物による…か? あんまり甘ったるいのは苦手だな」
「なら良かった。せっかくだからおやつでもどう? 今作ってるのジャムなんだけどね、クランベリーの。はす向かいのジャクリーンから美味しそうなパンを貰ってさ。きっと添えるのに丁度良いよ」
「そりゃあいいな。俺も小腹が空いてたところだ」
「どれくらい食べる? 正直、いまダイエット中だからわたしこんなに食べられないのよね」
「なあ、名前」
「んーん? 心配しなくても多目に盛ってあげるよ」
「やっぱり、おふくろさんが亡くなって沈んでるんじゃあねえのか」

 思わず、ぐるりと体ごと向き直る。瞼を落とした彼の姿を視界に捉えた瞬間、脇腹を鍋の柄がかすめた。火力を弱めていたとはいえ、煮えたジャムが盛大にひっくり返る。

「馬鹿野郎ッ! なにしてやがる!」

 けたたましく椅子を倒して駆け寄ってくる彼。私の着ていた、たった一枚の黒のワンピースから、どろりとジャムが滴る。驚いていた神経も思い出したかのように慌てて熱を感じ始めた。

「あ……ッ、あつい、熱い!」
「貸しやがれ!」

 彼は私の腰を引っ掴むと軽々と抱え上げ、迷いなくバスルームへと駆け出した。
 私たちがお互いに平静を取り戻したのは、水の張ったバスタブへ私が沈んで、「さむい」と端を発してからのことだ。

「もう出てもいい?」
「いや、もう少し念のため冷やしておいた方がいいと思うぜ」
「でも寒い。凍えそう。それに……この水、洗濯用に残したお湯の余りなのよ。だから……」
「どうってことねぇ。こうしとけば」

 は、と声を出す前に、首が捕まえられた。水中で背が抱かれる。喪服の裾が、彼の一張羅と重なった。

 ぐつぐつ、ぐらぐら。

 鍋の音かと思ったけれど、そんなはずない。わけがわかんない。
 頭が煮えている。体そのものが一個の心臓になった。首筋を伝う汗がこそばゆい。熱い。汗までもが垂々と――彼の上着に染みる。何が何だか分からないのに、取り敢えず「いけない」と感じるのに、胸の奥の高鳴りが大きすぎて、この人の胸を押しやる気力も湧かない。心臓を回すのにばかりエネルギーが持っていかれてしまう。いかれる・・・・

――いけない!

「だ、だめよ! ロバート!」
「!?」
「このバスタブの水は不衛生だから浸かっちゃだめ!」

 突き飛したロバートが、タイル張りの床の上で呆けていた――かと思うと、堪え切れずに噴き出した。

「洗濯に使う水が不衛生ってのがわからねえなぁ!」
「そ、それは…そういうものなのよ! 濯ぐ時は綺麗な水よ!」

 今、引き合いに出す論点はそこでないはずだ。ロバートはいかつい顔に似合わず、そこらの好青年のようにタガを外して清々しいくらい笑っている。
 私は彼の抱腹とは裏腹に、なんだか苛立ちを感じ始めてきた。原因は自分とはいえ、あんなにも人を驚かせ、心臓を破裂させかねないことをしておいて!

「弱ってる女性に勘違いをさせるようなこと、いくらロバートでも冗談が過ぎると思う!」
「俺は冗談をやったつもりはねぇんだが」
「これが私じゃあなかったら……え?」
「ま、何だっていい。それより早く着替えてもう一度ジャムを作ってくれた方が有り難いぜ。ますます小腹が空いた」
「え? え?」

 冗談をやったつもりは、ない?
 ということはつまり、冗談ではなかったということ? 何が? さっきの抱擁が?

 頭を抱えかけた私を置いてロバートはバスルームを出ていく。私もまた悶々とした気持ちを抱えたまま、クローゼットに走るほかなかった。

 部屋に戻るとぶち撒けたジャムたちはすっかり片付けられた後だった。元々客であった彼は彼で、ちゃっかり紅茶を用意して席に戻っていた。まるで何事も起こらなかったかのよう。

「鍋の底にまだ残ってたから置いておいた」
「ああ、ほんと」
「今度はヘマやらかすんじゃあねえぜ」
「う……うん…」

 気のせいか、さっきよりロバートの視線を感じるような。きっと私が意識しているからに他ならないのだろうけど。
 男の人の胸に抱きすくめられるのは初めてだった。オウガーストリートで幼いころから私を護ってくれた人。その人がついさっき私をかたい腕に閉じ込めた。

「できた」

 貰いもののパンに、ジャムを添えて。
 ロバートは黙々とちぎったパンとジャムとを口に運んでいる。食事の席には外された帽子にちらりと目をやり、紅茶に口をつけながら彼を盗み見た。
 どことなく覚えのある光景だった。お世辞にもちゃんとした出来とは言えないジャムをスコーンにつけ、かぶりついている男の子。甘さの物足りなさに「どうしてかなぁ」と首を傾げる私の前で、彼はとても満足そうに頬張っていた。
 鼻たれで庭先で遊んで欲しそうにこちらを覗いていた男の子。いつからか、うちに来るのが当然のようになっていた。
 はじまりはそう、甘くないジャム。

 子供のころ、母さんと一緒にジャムを作った。あの頃の思い出は、砂糖ひとかけらぶん甘さを増して、私の心にとけ始めたばかりだ。

リクエスト「SPWに手料理を振舞う甘々」


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