07.woof!



「ハッピーバースデイ・トゥ・ユー」

 陽気な声が、鈍い音に混じった空間で弾けるように響いた。ニスが剥がれ、剥き出しになった木の素材感が布を挟んで肌に伝わってくる。
 いくつもの赤い染みと汗が飛び散る床の上、シンプルなウッドチェアに座った村尾は俯いたまま動かない。

「ハッ、ピーバア、スデイ・トゥッ・ユー」

 楽しそうに音を奏でる間に何度も息を吸う音が混じった。
 頬に打ち付けられ弾く拳は、破裂音を生みながら村尾の首を左右に振る。抵抗もなく傾く頭は床をぼんやりと見ている。
 後ろ手で縛られた手首の先は血の気を失い、背凭れが村尾の動きに合わせて軋みをあげていた。
 村尾たちが留学したニューイングランド地区の秋は、過ごしやすいとはいえ十月になると気温が下がるため、日本よりやや寒さを感じる。
 これから厳しい冬が始まる幕開けのような冷たい風が、村尾の体温を奪っていった。

「ハッピーバースディ・ディア・村尾クーン」

 先程と違う、腹に響くような音が走った。揺らぐ意識と骨の感触に、頭上で肘を下ろされたのだと知る。
 首が悲鳴をあげたが、村尾は喉の奥から漏れそうになる声を耐えて歯を食いしばった。

「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー」

 歌の終わりと共に前髪を掴まれ引っ張られる。
 流されるまま上を向けば、銅色の目が人形のようにぎょろりとこちらを見て笑った。
 何度見てもまだ慣れないその偽りの色の奥、薄い膜に阻まれた薄気味悪い濁りが、うぞうぞと動く。

「お誕生日おめでとう、ダーリン」

 細められた目が、あざの浮かんだ顔を捕らえて嬉しそうに歪められた。
 金海は怒っている。村尾は本能ですぐにそれを理解した。
 だが脳裏で今日の出来事を思い返すも、彼が機嫌を損ねるようなことはなかったはずだ。

 時間がかかると考えていた留学手続きは、金海がどのような手段を使ったかは分からないが、新学期に合わせて既に準備が整っていたらしい。
 家族への説得も、金海がセクレタリーと共に実家へ訪れそれなりの理由を添えて説明すれば、両親は疑うことなく村尾を送り出してくれた。
 初めて会ったセクレタリーは、村尾の想像より若く、生真面目そうな表情のない女だった。
 両親の前では笑顔が絶えず、優しい雰囲気を与えていたが、金海に対する目は恐ろしく冷たく、そこに一切の情はないことが覗えた。金海も村尾の両親の前では出会った時のような穏やかさを見せていたが、セクレタリーを相手にしている時は無感情のようにも見える。
 村尾はそれが踏み込んではいけない領域だと悟り、何も言わなかった。
 村尾たちが留学した名門ボーディングスクールは、プレップスクールとも呼ばれており、大学進学に重点を置いた教育力の高い学校だ。順応力の高い金海と違い、環境の変化や授業の内容にすぐ馴染むことが出来なかった村尾は、最初のうちこそ苦悩していたが、金海の手助けもあって、一か月ほど経てば何とか適応出来るようになってきた。
 スクールメイトともそれなりの交流を広げ、友人と呼べるほどではないが雑談を交わす相手もいる。
 金海はここでも周囲の注目を集め、人柄の良さからすぐに好意的な感情を向けられていた。
 既に二人の女性から交際の誘いも受けている。
 日本での失敗もあってか、留学してからの金海は大人しい。だが自粛する気はないのか、度々どこかから乾燥させた葉を手に入れては喫煙を楽しんでいた。
 ニューイングランドでは非犯罪化したとはいえ、合法になったわけではない。見つかれば罰金が課せられる。村尾はそれに何も言う気はおきず、最近では彼の悪癖のようなものだと黙認するようになっていた。
 金海はそれなりに機嫌の悪い日もあるが、村尾が宥めればすぐに鎮まる。
 そこに暴力が含まれているとしても、彼の存在を受け入れた村尾にとっては日常の中の些事だった。
 そんな彼がここまで怒りを見せているのは久しぶりに見る。村尾は唾を飲み込んで小さく唇を震わせた。

「すまなかった」
「何が悪いのか分かっているのかしら」
「さあ。だが、お前が怒っているのなら、何かしたのだろう」

 言い訳をしようとも考えたが、取り繕って悪化させるよりは素直に謝罪し、理由を聞く方が苦痛は少ないだろう。
 そう言えば、金海は頬を引きつらせて感情をその顔に乗せた。村尾の首を掴むと、指に力を加えて苛立った様子を隠しもせず歯ぎしりする。
 その表情にはどこか悔しさが滲んでいた。

「そうだな、ああ、その通りだよ。お前は、俺がずっと欲しかったものをあっさり他の奴に譲るんだからな。そういった無神経だとか、空気読めねえところだとか、なんで気付かねえかな。だからお前は童貞なんだよ」

 金海の言葉に、腫れあがった顔が眉を寄せた。理解できないと言いたげに、金海の銅色に染まった瞳を見る。

「お前とセックスしてるから童貞ではない」
「ケツの穴しか知らねえ男が一丁前にセックス分かった気でいるんじゃねえよクソが」

 吐きつけた唾が村尾の頬に飛んだ。だが、村尾の視線が逸らされることはない。
 しばらくすると、金海は大きくため息をついて肩を落とした。指の力を弱めると、鬱血した跡を優しく撫でる。

「ああ、いやだ。これだからダーリンはどうしようもなく根暗なんだよ。僕が、俺がせっかく準備して、真っ先に祝おうと思ってたのに。なのに、恋人の健気な気持ちを無視して他の女といちゃついてるんだからよォ」

 全く身の覚えのない話だ。嘆くように天井を向いて吐き出された言葉に、村尾は反論しようと口を開いたが、下腹部に鈍い痛みを覚えて視線を下ろした。
 股の間に置かれた膝頭が、村尾の股間に乗っている。
 徐々に落とされる重みは陰茎に圧力を与え、村尾は焦りながら体を揺すった。
 彼なら男としての機能を平気で壊しかねない。

「他の女といちゃついてなんかいない」
「喋ってた」
「授業に関する話をしていただけだ」
「何かもらってたじゃねえか」
「あれは」

 そこでようやく村尾は金海が機嫌を損ねている理由に思い当たる。
 今日の授業もいつもと変わりなかった。
 耳馴染みのない英語での説明もあって、集中しなければ理解が追い付けない村尾にとっては、あっという間の時間だったように思う。
 そして一日が終わり、ようやく一息つけたところで話しかけてきたのが、とあるスクールメイトだった。
 村尾は成績のいい彼女に世話になることが多く、申し訳なさから過去に好きだと聞いていたブランドのハンカチを送ったことがある。その礼なのか、突然プレゼントされた文房具に一度断りを入れると誕生日プレゼントだと言われ、そこで村尾は十月六日の今日が自分の誕生日であることを思い出した。
 全寮制の高校に入ってから男子のみの環境で、友人のいない村尾は誕生日の話題を口にすることもなかったため、すっかり忘れていたのだ。
 その時近くにいた金海は始終笑顔を絶やさず二人の会話を聞いていたが、今思えば苛立っていたような気もする。
 村尾とスクールメイトの関係を茶化す様子に気味悪さを感じて素っ気ない態度をとってしまったが、それも機嫌の悪さからの嫌味だと思えば納得がいく。

「もしかしてお前、俺が女から贈り物を受け取ったことに嫉妬してるのか」

 村尾は言い切ると同時に頭を勢いよく振った。金海の拳が頬に飛んだのだ。
 フローリングを転がる音に、歯が折れたか抜けて落ちたのだと分かる。痺れる痛みに耐えながら金海を見れば、子供のように口をへの字に曲げてふてくされていた。

「そうだよ、村尾くんの馬鹿」

 言葉と仕草だけ見れば可愛らしいものだが、何度も殴られ首を絞められた挙句、歯を折られている村尾には忌避感しか生まれない。
 だがここで冷たい態度を取ろうものなら、彼は躊躇なく股間に乗せた膝に体重を預けるだろう。村尾は一度深呼吸して落ち着きを取り戻すと口を開いた。

「すまなかった、確かに俺が悪い」
「でしょお。俺の傷ついた純情にもっと申し訳ないと思ってくれなきゃ」

 純情とは一体何なのか。
 村尾は意識を思考に飛ばして現状から逃亡した。
 吐き出したことで怒りが収まったのか、金海は膝を上げると村尾から一歩下がり床に膝をつく。
 そして上半身を村尾の下腹部に傾けると、ジーンズのファスナーを下げて鼻を押し付け始めた。
 布越しに感じる舌の感覚に、村尾は思わず足を閉じようとしたが、足首が椅子の脚に縛られていることを思い出して舌打ちする。

「おい」
「反省してるならそれなりの態度ってモンがあるよなあ」

 そう言って開いたファスナーの穴に指を通し、下着をずらす金海に、村尾は嫌悪感から眉間を寄せた。彼の言う反省の態度とは、性行為を意味しているのだろう。
 村尾は金海を受け入れたが、アブノーマルなセックスを受け入れたわけではない。
 だが金海は、どちらかと言えば刺激のある行為を求めているようだ。未だそれに慣れない村尾は、拘束された状態で進められようとしている行為にため息をついた。
 金海は、頭上に落ちてくるその音を楽しそうに聞いている。気の進まない村尾のペニスを思い通りに勃起させることが楽しいらしい。
 金海は布の隙間からこぼれる腸詰に鼻をすり寄せると、舌で優しく舐めあげ口に運んだ。
 温かな口内の温度に、村尾は背筋を粟立たせる。
 唾液で滑りを得た舌が亀頭を吸いながら愛撫すれば、膨張していくペニスはすぐに硬さを持った雄となった。

「チンコがすぐ立つところ、村尾くんの長所だよね」
「やめてくれ」

 馬鹿にされていると分かった村尾は、眉を寄せて不快感を示す。だが金海の指摘通り、準備が整ったペニスは天を向いて、その先にある快楽を待ち望んでいる。
 それをうっとりと見つめる金海の表情は、まるで宝石を見ている女のようだ。
 他の男にフェラチオをしている姿は何度か見ているが、このような反応を見せたことは一度もない。村尾は認めたくないが、それに一種の優越感を覚えていた。
 金海は自身のスラックスを下着ごと下ろすと、尻の間に指を這わせて何かを考えている。そして、思い出したようにスラックスのポケットからコンドームを取り出すと、村尾のペニスに取りつけ乗りあがってきた。
 村尾はその行動に不審を覚える。

「ローションはどうした」
「ああ、ううん、いや、ちょっと前にしたから柔らかいし、いいかなあって。取りに行くの面倒だし」

 村尾は手足が自由であれば、すぐに金海を突き飛ばして頭を抱えていただろう。
 女と会話しただけで嫉妬し暴力を振るっておきながら、自分は他の男とセックスしていたという金海の価値観が、村尾には理解できなかった。
 怒りを通り越して呆れを覚えていると、金海は膝に乗りペニスを双丘に沈ませていく。
 彼の言葉通り、引っ掛かりはあったものの比較的スムーズに挿入は終えた。内壁の圧迫感は普段より弱く、他の男と行為があった事実を突きつけられる。

「せめて俺の知ってる相手か教えてくれ」
「やだぁ、村尾くんったら嫉妬してるのかしら」
「いや、自衛のためだ」

 おそらく相手は、金海との関係を勘違いしている可能性がある。そうなれば、普段から行動を共にすることが多い村尾に余計な感情が向けられることは分かりきっていた。
 返事が気に入らなかったのか、金海は村尾の鼻をつまむ。
 中で塊となっていた血が皮膚を削ったのか、小さな痛みを生んだ。

「そこは嘘でもイエスって言うところだろうがよ」

 そう言って金海は下腹部に力を入れる。
 圧迫され、柔らかい肉壁に包まれたペニスは、悦びに小さく震えた。
 熱い舌が村尾の首筋を舐めあげ、耳たぶに歯が突き立てられる。漏れる呻き声に満足したのか、金海は腕を村尾の首に回すと腰をゆっくりと回し始めた。
 うねる内壁が村尾の神経を犯し、快楽へと導いていく。

「気持ちいいかい」

 低い声が耳元で囁かれ鼓膜を愛撫する。
 粟立つ背筋すらも悦びとなる村尾は、荒い息を繰り返しながら小さく頷いた。

「ン、いい子」

 髪を撫でられ、耳の裏をくすぐられる。それだけで村尾のペニスは限界を迎えていた。金海はそれに気付くと、腰を前後に動かして律動を速めていく。
 村尾は射精感を覚えて唇を結んだが、金海の指は薄い皮膚をなぞりながらそれを割り開いた。口腔に侵入する指は村尾の舌を絡め、粘膜を擦る。
 上顎を撫でられ、締まらない唇の端から涎が滴り落ちた。

「我慢できないワンちゃんみてぇ」

 睨む村尾を銅色が嬉しそうに微笑む。
 快楽を得ているのか、頬を染めて熱い息を吐く金海を見ていると、拘束された腕が悲鳴を上げた。
  今すぐ膝の上の尻たぶを掴み、揺すり、最奥へ欲を放ち、首筋に噛みついて目の前の男を支配したい。
 村尾の目が鋭く光るのを見て、金海はようやく許しを与える気になったようだ。村尾の唇を食みながら、膝に手を乗せ上下に揺れる。
 射精を促される動きに、村尾は呆気なく果てた。

「俺が女なら絶対ゴムに穴、開けてるな」

 口付けを繰り返しながら音を舌へ運ぶ金海に、村尾は怪訝な表情を見せる。

「子供が欲しいのか」
「いらねえよ」

 村尾の質問に金海は乾いた笑いをこぼすと、不愉快だと言わんばかりに唇を歪めた。

「だってさあ、村尾くんの性格的に、子供が出来たら俺のこと好きになってくれそうじゃん」

 村尾は嘆息した。
 金海の言葉のほとんどは、遊び半分のようなものだ。だからこそ、本音を掬い取ることが難しい。そのため、村尾は彼の言葉を全て信じるようにしている。
 例えそれに振り回され疲弊しても、真実を見逃してまたこの男が目の前から消えることの方が、村尾にとって最悪だからだ。

「勘弁してくれ、俺をどこまで人非人にするつもりだ」
「ふふ、俺のこと愛してくれるまでかなあ」

 笑う金海に村尾は愛の言葉を告げた。
 感情のこもらないそれに、金海はまた笑った。
 村尾は機嫌が直った金海に緊張を解くと、肩を揺すって口を開く。

「腕が痺れて感覚がなくなってきた」
「そのまま放置したらどうなるかな」
「少なくともお前を抱きしめることが出来なくなる」
「やだ、ダーリンってば情熱的な人だったのね」

 このまま言葉遊びを繰り返すには、本当に腕が限界だった。凝り固まって痛みを覚える肩甲骨に感覚のない指先は、果たして元に戻るのか不安を覚える。
 村尾は首を伸ばすと金海の肩に優しく噛みついた。

「マフィン、いい子だから遊びはおしまいにしてくれ」

 ゆっくりと、子供に言い聞かせるような口説き文句は、金海に効いたようだ。内壁が締まり、柔らかくなったペニスは押し出されて外気に晒される。
 赤くなった顔が口をもごもごと動かして、音にできない声を飲み込むと、代わりに大きな息を吐いて肩を落とした。

「ずるいなあ、ずるいぜ村尾くん。思わず女みたいにイっちまったじゃん」

 その言葉を聞いて、村尾は金海の下腹部を見下ろした。
 男性との行為において反応を示すことのない腸詰は、変わらず垂れ下がっている。

「はは、女みたいにって言っただろ」

 笑う金海は、そう言って立ち上がると椅子の脚に縛り付けていたビニール紐を外し、次いで背凭れに手をかけた。
 解放された体は軋みをあげるが、村尾はすぐに腸詰に被っているコンドームを外すと、床に投げ捨てて金海の体を引き寄せた。股間の周りは漏れ出た精子で汚れていたが、今更だろうとそのまま抱きしめる。

「やだ、恥ずかしいわ」

 銅色の目が照れ臭そうに弧を描く。
 村尾はそれも真実であればいいと思いながら、鈍い腕に力を込めて金海を抱えたまま立ち上がった。
 足を踏み出せば、金海が慌てて村尾にしがみつき困惑の色を見せる。そして進む先に寝室があることに気付くと、仰け反ってゲラゲラと笑いだした。

「村尾って本当、正直者になったよなぁ」
「取り繕っても無駄だと分かっただけだ」

 そう言って放り投げれば、安物のベッドがスプリングを軋ませて金海を受け止める。シーツに埋もれる金が流れる様子が綺麗だと思いながら、村尾は金海の足を掴んだ。

「ねえダーリン、セックスがしたいのならもっと優しく扱わなきゃだめよ」
「童貞だから仕方ないだろう」
「なるほど、なら仕方ない」

 先程の言葉を根に持っていた村尾に、金海は肩を竦めてため息をつく。
 こうして会話の応酬を楽しむのは、留学してから初めて味わったものだ。出会った頃は金海に対して冷たい態度を取っていたはずなのに、一体いつ彼は村尾に好意を持ったのか。脳裏に疑問が過ぎるも、金海の思考に意味を持たせることこそが無意味だと村尾は頭を振った。
 金海は必要ないというが、女のように濡れることはないため、やはりローションはあった方がより快楽が増す。
 村尾は手探りでサイドテーブルの引き出しを開け、目的のものに触れたところで、その感触が知らないものであることに首をかしげた。
 手に取って見れば、掌サイズの箱が視界に入る。

「ああ、それ、気に入ってくれたらいいなァって」

 箱を見て金海が思い出したように言った。口ぶりからどうやら彼の用意した誕生日プレゼントらしい。
 まるで普通の恋人同士がするようなイベントに村尾は疑心暗鬼に陥ったが、疑い続けても仕方ないだろうと覚悟を決めて箱の蓋を開く。
 村尾の緊張を裏切って現れたのは、シンプルな時計だった。

「みすぼらしいおっさんみたいな時計してるなあって、初めて会った時から気になってたんだよ。これなら少なくとも俺の犬として自慢できる程度には素敵な首輪だろ」

 金海はそう言って手に乗った箱から腕時計を取り出すと、村尾の腕に巻き付いていた無難なブランドの時計を外す。
 代わりに贈り物をつけると、腕に馴染むそれを見て満足そうに笑みを浮かべた。
 以前つけていたものより高級感のあるそれは、けれど決して主張せず実用性を感じさせる。まるでずっと使っていたかのような錯覚を抱くほど調和されたデザインに、やはりセンスのある男だと村尾は感心した。

「気に入ったかい」

 答えを分かりきった顔で金海が問う。
 村尾は素直にうなずいた。

「ああ、尻尾を振っていいか」
「激しいのは好きだけど、痛いのは嫌だな」

 茶化す金海に、村尾はきっと照れ臭いだけなのだろうと自分に都合のいい解釈をして、薄い唇に噛みついた。

「知ってる」

 言葉を喉に流し込めば、赤い耳が小さく震える。村尾は金海のシャツを脱がせながら、銅色の瞳を覗き込んだ。

「プレゼントついでに、もう一つ強請ってもいいか」
「あら、欲張りな子は川に肉を落としちゃうわよ」

 靴下を残して身に何も纏っていない白い肌がシーツに溶け込む。村尾は指先を首筋に這わせると、胸元を滑らせて金海の下腹部の更に下、膝を降りた先にある黒い布を指し示した。

「これを脱がせたい」

 村尾の言葉に、銅色の瞳が奥にあるどろどろとしたタールを滲ませて濁る。
 布の中、美しい彼の醜い部分をこの目で見たのはあの夜から一度もない。着替えや一人の時は外気に触れることもあるのだろうが、村尾の前では徹底して見せることのない足先は、むしろその欲求を膨らませるばかりだ。
 怒るだろうか。固唾を飲む村尾は、金海の一挙一動から目を逸らせずにいた。

「はは、そうきたか。悪いけどそれは無理だな。お前にそれを許す時は、俺が死んだ時だ」

 金海はそう言って村尾の指をとると口に運ぶ。唇の中に誘い、粘膜で包まれた皮膚はあっという間に情欲を持った。
 下腹部に熱が溜まる。赤い肉が尻尾をのぞかせる。
 村尾はそれに欲情しながら分かったと頷いた。

「その時まで、精々長生きしてくれよワンちゃん」

 指を引き抜いて顔を寄せる村尾の頭を抱えながら、金海は唇の端を持ち上げた。
 その言葉は、おそらくこれからも共にいて欲しいと願う金海の慎ましやかな本音だろう。在るかどうかも分からない真実はどうでもいい。
 村尾はそう解釈して、また頷いた。







「そういえばお前の誕生日っていつなんだ」

 行為後、目が痛いと洗面所に向かった金海を見送った村尾は、一人になると純粋な疑問が湧いてきて後を追った。
 話題にしたこともないし、教えたこともない誕生日を何故金海が知っているのかは今更考えても仕方ないが、代わりに彼の誕生日が気になったのだ。
 鏡に向かってレンズを外していた金海は、青灰色を片方だけ晒して怪訝そうにこちらを見る。
 金海は日中コンタクトレンズを欠かさずつけている。
 理由を聞けば、瞳孔の開きを教師に見られるからだと言っていた。知識の共有が遅れている日本では気付かれにくいが、こちらではそうもいかないらしい。
 実際、村尾も金海と共にいてまだその知識には疎かった。
 とはいえ、知れば彼の人となりに嫌悪感が増すだけだと理解しているので、知りたいとも思わないが。

「いつがいいかしら」
「二月二十九日」
「おっと、てめえ祝う気ゼロだろ」

 間髪入れず応えれば、金海が頬を引きつらせる。ため息をつきながらもう片方のレンズも外すと、見慣れた青灰色が現れて村尾は背筋を粟立たせた。
 この色にはトラウマを植え付けられているため、本能が自然と拒否反応を起こす。だから金海も村尾の前ではなるべくレンズをつけたままにしているのだろう。
 だが村尾の中では恐ろしさを覚えると同時に、やはりその色が一番似合っていると見惚れる自分もいた。
 金の間で揺れる青灰色は、稀にだが透き通ったような清純を見せる。清濁の中に舞う塵は心を捉え、泡のように弾ける。村尾は最近、それに依存しているような感覚を抱くようになっていた。
 視界が楽になったらしい金海は、村尾を通り過ぎてリビングに向かった。予想していたが、やはりまともに答える気はないらしい。村尾は諦めを覚えてリビングに足を向けると、彼の座るソファの横に腰を下ろした。
 言葉遊びの応酬が無ければ、二人の間に雑談が入ることはない。
 沈黙が続く空間は日も暮れ気温が下がっている。薄着の金海がくしゃみをしたところで、エアコンの電源を入れようかと村尾が動きを見せた時だった。

「一応、書類上は四月八日。でも本当は知らないし、実は村尾くんより年上かもしれない」

 聞き逃しそうになるほど突然の言葉に、村尾は背凭れに体を預けてそれを理解しようとした。
 噛みしめて、思考を動かし、ようやく受け入れて息を飲む。
 横では金海が足を折り曲げソファの上に乗せていた。
 布の上から足先を弄りながら、ぼんやりした様子を見せる姿に、疑惑が浮かぶ。だが、どうやら彼はまともな状態のようだ。同情を嫌う金海が嘘をついているようには見えないし、嘘をつく理由もない。

「トイレで産んだって話はあの女から聞いたことがあるなあ。だから最初はオマルって名前だったんだよ、面白いでしょ。裕也ってのは後から親父がくれたの」

 自身の話をする気になったのは気まぐれか、それとも村尾の誕生日に触れて何かを思い出し、感傷的になったのか。
 金海は足先を見つめたまま、こちらを見ようとはしない。
 反応を気にしているのかと考えたが、返事を求めていないだけだろう。彼にとっては独り言のようなものだ。
 それでも村尾は、嫌悪の情を払拭できなかった金海に対して、得体のしれないおぞましさが薄皮一枚剥がれたような感触を覚えた。それが少しずつ、幾重にも重なった膜が長い時間をかけてでも剥離されていくのなら、二人の関係も意味があると思えるのだろう。
 空間全ての酸素を取り込むように大きく息を吸った村尾は、吐き出す勢いに音を乗せた。

「十月六日」
「なにが」
「お前の誕生日。新しく覚えるのが面倒だから、一緒でいいだろう」

 青灰色が何度か瞼を往復させて、ゆっくりと村尾の方を向いた。黒く沈んだ醜い色が、戸惑うようにその姿を消す。
 紅の差す頬に、村尾は優しさから誇らしげな顔を返してみせた。
 それを見たブロンド男は声が枯れるまで高々と呵い、引きつりながら嗤い、こぼれるように哂い、可憐に咲い、そして宙に向かって笑う。楽しそうに笑って、見下すように嗤って、馬鹿にするように哂って、大口を開けて呵って、嬉しそうに咲う。

「ははっ、だっせぇ。だから童貞なんだって。ふふ、愛してるよ、ダーリン」
「俺もお前を見ていると反吐が出そうになるぐらい嫌になるよ、マフィン」

 声が枯れても笑い続ける金海に焦れた村尾は、その薄い唇を塞ぐように噛みついた。
 敏感な皮膚が触れあい、溶けあい、絡み合う。
 ようやく落ち着いた金海は、掠れた声を冷えた空気に乗せた。

「ねえ、誕生日ケーキ作ったから一緒に食べようよ」
「お前が作ったのか」
「うん」

 無邪気に笑う彼こそが、無害そうに見えて一番厄介であることを村尾は知っている。

「ちなみに中身は」
「生クリームたっぷりのスペースケーキ」
「一人で食べてくれ」

 村尾の知らない単語が金海の口から出る時は、大抵ろくでもないことしかない。
 不服気に頬を膨らませながらもどこか納得したような反応を見るに、予想は当たっているのだろう。

「ええ、たまには俺に合わせてくれてもいいんじゃねえの」
「今日は俺の誕生日だぞ」
「俺の誕生日でもあるじゃん」

 どうやら新しく決まった誕生日は気に入ったらしい。
 早速その特権を駆使しようと強請る姿に、村尾はため息をついた。エアコンの電源を入れると、温風の準備に入った機械音が部屋を賑やかにする。

「分かった、じゃあ生クリームは食べるから、スポンジはお前が片付けてくれ」
「おっけー、ダーリン」

 せめて生クリームには何も混入されていないことを祈るしかない。
 歯をむき出して年相応に笑う男の揺れる金と青灰色が眩しいと、村尾は目を細めた。



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(C)siwasu 2012.03.21


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