雨降りに歌を添えて | ナノ
雨降りに歌を添えて

 言葉すら出ないとはこういう事か。窓一枚を隔てた暗闇で、周りの店々の光に照らされて降り頻る輝きを帯びた雨が視界に入った瞬間、トレヴァーはぽかんと口を開けたままその場で硬直してしまった。陽が沈む時間までパブのテレビでポケモンバトルの試合を観戦し、昂った高揚感が一瞬にして消え去るのを感じながら、目の前のやまない雨になんとか思考を巡らせる。まずは外れた天気予報に対して心の中でありったけの罵詈雑言を送ったあとで、今の状況を整理する。雨脚が弱まるのを待つまでパブに留まる選択肢は、乗る予定の電車に間に合わなくなるので無いに等しい。いつもなら鞄に忍ばせている折り畳み傘も、よりによってこのタイミングで壊れて修理に出している状態である。魔法でエーテルに念じて頭上に雨除けを作ることもできるが、斜めに線を描くように降る雨には効かないも同然だ。
 どうしたものか。足を組み、テーブルに頬杖をついたところで窓にエリックの姿が映る。トイレに行っていた同行者が戻ってきたのである。窓越しに彼と目があった時、エリックがおや、と眉を上げる。
「雨か」
「そうだな」吐き捨てるように呟く。
「良かったなトレヴァー、絶対こうなるだろうと傘を持ってきたんだ。僕の傘に入ると良い、駅まで送ってやる」
 えっと思わず振り向けば、ニコニコ微笑む彼が立っていた。そう言えば彼と出会った時、なぜ晴天の日に傘を持っているのかと疑問に思っていたんだった。まるで頭上に光が差し込んだような感触を覚えてトレヴァーは無意識に頭を下げる。雨が嫌いな身にとって、今のエリックは舞い降りた天使に見えた。傘という天啓を与えし大天使なんとやら。
「モスノウの触覚は大気を流れを読む事ができるのさ。持ってきた僕に感謝するんだな」
「ああ、ありがとう。いつも君には助けられている」
 感謝の勢い余ってエリックの両手を握った瞬間、彼を顔を紅潮させてひどく驚いたのはやりすぎだったかと心の中で反省する。


 トレヴァーは雨が嫌いだ。炎タイプという属性故に、雨というものや湿っぽい場所に弱い事情もあるが、雨が降ると自慢の髪が湿気でボサボサになるのが気に食わないのだ。ガラルによくある多少の小雨程度であれば、魔法や入念なヘアケアで抑える事ができるが、大雨ともなればその努力全てが無に帰する。なんて忌々しい事か。
「雨なんて降らなければ良いのに」
 エリックの持つ水色の大きな傘の中で、トレヴァーは険しい表情を浮かべる。雨が降らなかったら水不足に陥るのは頭で理解していても、それでも雨嫌いに変わりはない。天に向かって睨みをきかせるのは精一杯の雨への抵抗だ。
「トレヴァー、周りを見ろ。君だけに雨が降ってる訳じゃないんだから受け入れな」
「それはそうだけど……」
 いつもならエリックといる時間が楽しくて仕方ないのに、そんな気持ちすらかき消えてしまう。ざあざあという雨音が周りの音の一切を遮断するが如く。ただ心の中にあるのは、不快感と憂鬱さだけ。早く駅に辿り着きたくて、浅い水溜りを蹴る足も自然と速まる。
「やれやれ、トレヴァーがそんなに雨嫌いとはね。どうせ髪の事だろう、お得意の魔法で何とかならないのかい?」
「小雨ならまだしも、これくらいの雨はどうしようもできないんだよ。魔法にも限度がある」
 トレヴァーが礼儀を叩き込まれていない子供か、あるいは庶民の育ちだったら水溜りに唾を吐いていた事だろう。かわりに大きなため息をついて足元を見下ろす。銀の雨が暗闇に波紋を無数に作る中を、後どれだけ歩かなければならないのだろう。距離にすれば大したものではないのだが、今は何キロもある道に感じる。頭の中では既にホテルに帰宅し、シャワーを浴びて熱々のカモミールティーを啜っているところなのに、残念ながら重い足取りが現実を否応なく突きつけてくる。
 交差点を抜け、再びトレヴァーがため息をつこうとした時、雨音に混じってトレヴァーのものではないため息が耳に入った。周囲の雑音ではない、隣にいるエリックのものだ。それに気付くと視線は足元からエリックの顔に向いていた。
「雨って楽しいものだと思うんだけどな」
「どこが?」頭より先に口が言葉を発していた。一方のエリックはご機嫌斜めなトレヴァーの方を向き、くるんと傘を回転させる。
「周りは皆雨に手一杯で誰もこっちを見ないし、音だって雨で聞こえない。今だけ僕達だけの世界になったみたいじゃないか」
 ふむ、と首を傾げる。確かにエリックの言う事は一理ある。雨の日は自分だけしかいないみたいで、そんな時に勉強をすると不思議と捗ったものだ。そんな遠い日の思い出を呼び起こしてくれるなんて、エリックの感性は面白い。
「確かに、そうかもな」
 少しだけトレヴァーの表情が和らぐ。それが伝わったのか、エリックもふわっとした笑みを浮かべる。
「それに、雨の日の夜といったら歌いたくなるだろう?」
「歌だって?」
「映画だよ映画、有名なミュージカル作品!君だって雨の夜に踊りながら歌うシーンくらい見た事あると思うんだが?」
 その映画なら知っている。登場人物がショーウィンドウの前でタップダンスを踊るシーンに至ってはバラエティ番組で何度も見た事があるくらいだ。エリックの問いかけに頷きで返し、そのシーンを脳内で再生する。
「僕が小さい頃はあれを真似して雨の中で踊って風邪をひいたものさ。今は流石にやらないけど、歌の一つは歌いたくなる」
 その瞬間に、トレヴァーが思い浮かべている映像とエリックの歌声が重なり合う。やがてその映像で歌い踊る登場人物もエリックに置き換わり、そのコミカルな様子に思わずトレヴァーは吹き出しそうになる。流石に公道でミュージカルを始めないにしろ、再び傘を一回転させてエリックは軽やかに歌い続ける。
「ふふ、『幸せがこみ上げてくる』か」
 エリックの歌唱力自体はともかく、声質は歌うことに向いているものだった。柔らかなものながら芯の通った声で、少なくとも聞いてて不快に感じることはない。不思議なことに聴き入るうちに雨の音も伴奏に聴こえてきて、雨に対する憎悪が少しだけ軽くなるのをトレヴァーは胸の中に感じる。何てことない、素人の歌なのになぜエリックの歌は心に響く?
 ふと傘の中から顔を覗かせると、誰もが下を向いて足早に通り過ぎていくのが見えた。この雨の影響か道ゆく者の数はまばらで、耳に入るのも相変わらずエリックの歌と雨の音だけ。彼が口にした「僕達だけの世界」を思い出し、トレヴァーが頬を緩めながら口ずさんでみれば、エリックは一瞬目だけをこちらに向け、驚いた様子を見せたがすぐに前方に戻し、歌い続ける。
 特別な夜だ、トレヴァーは幸福に包まれながら歩を進める。今はエリックと自分しかいなくて、その上彼の歌を独り占めしている。こんな素晴らしい夜は早々ない。道ゆく車のライトや店の光が雨粒でぼやけた様相を見せているのも、自分達だけを優しく照らすスポットライトのようで、ますます上機嫌になる。もし自分が分別ある年頃でなければ、炎タイプなのも忘れて雨の中に飛び出していただろう。
 やがて駅が見え始めると、不意にエリックとトレヴァーの目が合った。互いに歌をやめる程でもないほんの一瞬の間だけだったが、その時だけ心が通じ合ったように感じて、トレヴァーはそっとエリックの腰に手を回し、パンと軽く叩いてやった。


「それじゃあまた」
 駅の構内で名残惜しそうにトレヴァーを見つめるエリックは、同じくらいの身長のはずなのにどこか小さく見えた。確かに明日からはショーの準備等で当分エリックとは会えなくなるが、まるでこれが今生の別れのような反応をされては、トレヴァーもリアクションに困る。
「また会えるって。それより、ここまでありがとう」
 だから努めていつも通りに返そうと、トレヴァーは穏やかな笑みを浮かべエリックの肩を叩く。眩しいまでに駅全体を照らす照明の下では、先ほどまで二人で幻想的なミュージカルを繰り広げていた事が夢のように思えてくるが、夢じゃないのをエリックの片方の肩が濡れている事が物語っている。そう言えば二人で一つの傘を使いながらここまで来たんだっけ、と駅までの道を思い返しながら苦笑しようとした時、それにしては不自然なまでにエリックが濡れ過ぎている事に気付く。大きな傘を使った割には彼の片側の髪も雨で萎んでおり、ぽたぽたと水滴が垂れている。そこまで濡れる大きさでは無かったはずと考えたところで、もしかしてと一つの答えがトレヴァーの脳裏を過ぎる。エリックの肩に触れた手で自分の片方の肩を触ってみれば、全く濡れた様子がないのである。髪も湿気でごわついているが、直接雨に当たった様子はない。
「エリック、もしかして俺が濡れない為に?」恐る恐る言葉にする。
「そりゃ、炎タイプを濡らす訳にはいかないからな」
 帰ってきた答えはさも当たり前な口振りだった。ガラルが紳士の国にしても、ここまで他人のために尽くす相手はいない。俺のためにここまでやってくれたんだ、そう考えただけでトレヴァーは胸の奥が締め付けられ、熱くなるのを感じた。エリックはいつだって俺に優しい。寧ろ優し過ぎて裏があるのではとすら思えてくるが、彼のまっすぐな緑の瞳を見つめれば、これが本心以外の何者でもないのが分かる。ここまで尽くしてくれたら俺だって何かを返したい。
「少しだけじっとしててくれないか?」
 トレヴァーの言葉にきょとんとするエリックに、早速トレヴァーは彼の肩と腰に両手を置く。そして目を閉じ、エーテルに語りかける。念じた部分の水分を飛ばせ。
 ややあってトレヴァーが両手を離すと、濡れていたのエリックのコートは一瞬にして乾ききっていた。髪もドライヤーで乾かしたようにふわっと靡くものに戻っており、ほんの十数秒の出来事にエリックは目を白黒とさせている。
「今のは……」
「熱魔法の一種。ここまでのお礼さ……歌も含めて」
「歌もか、気に入ってくれて何よりだ」
「また聴かせてくれ、今日は楽しかったよ」
 本当はまだ何か返したかったが、無情にも乗る予定の電車が到着した事を知らせるアナウンスが響き渡り、泣く泣くトレヴァーは改札の方を向く。背後から別れの言葉を送るエリックに片手で答え、ホームへと向かうトレヴァーの胸中は様々な感情でいっぱいだった。やっとホテルに戻れる安心感、雨の中二人で歌い上げた高揚感、そしてエリックから受け取った優しさで喜びとも感激ともつかぬ、言葉に表しづらいもどかしい感情。
 トレヴァーは振り返らなかった。今自分が浮かべている表情なんて、到底エリックには見せられない。喜びに満ち溢れすぎて最悪な顔をしていると言ったら、きっと笑われるに決まっているから。

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雨が降った日のエリトレ話でした。トレヴァーの視野を広げてくれるエリックの存在は、彼にとってかけがえのないものだったりします。

余談だけどプロットを書いててアポマイでも同じシチュになりそうでは?とも思った話(マイレも雨が苦手だし、アポロと相合傘をしてもおかしくないから!)。
でもマイレもアポロも小さいから相合傘で肩を濡らす事はないし、そもそも雨が降ってて傘が一つしかない場合、アポロが「これを使いたまえ」てマイレに渡して自分はダッシュで雨の中を走っていく展開になるので、やはり相合傘はエリトレでやってほしいという結論に至りました。
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