寒さと、温かさと | ナノ
寒さと、温かさと

 微睡から目が覚めた瞬間、背筋にゾクゾクとした未知の感触を感じてトレヴァーは思わずベッドの、即ち掛け布団と毛布の中に頭から潜る。いや、これは二重構造だけではまだ足りない。ベッドから手だけ伸ばしてヘッドボードの角に引っ掛けた厚手の上着を手に取ると、それを中に引き込む。
 こうして、もぞもぞと上着を着込んでようやく不快な感覚がマシになったところでゼニガメよろしく掛け布団から首を覗かせる。キルクスのホテルの一室が視界に入った。今自分が療養している部屋で、上品なジョージアン様式の内装が広がっている。ミルクティー色の壁が一面を取り囲む落ち着いた雰囲気で、改めてトレヴァーは壁が寒色でなかった事に安堵する。今は青や紫の色を視界に入れたくない。今日訪れる来客にも間違っても青いセーターなんか着てこないよう、と伝えた。
「わ、分かった。珍しい注文だな」
「寒いんだ、頗る」
 電話越しにそんな会話を繰り広げたのが午前中だ。本当だったらこの街の高級住宅街に住む友人とティータイムに興じる予定だったが全てが潰えた。ただ断りの電話を入れた時、彼は勇敢にもこの病人を見舞いに行くと言い出したのである。
「いや待てよ、これ氷タイプが行っても……」
「君の中にはウルガモスとマルヤクデの血が入っているんだろう?」
「以前そうは言ったけど」
「なら、来ても良い」
 そして午後に彼が来る事になったのである。それを思い出してヘッドボードに埋め込まれたデジタル数字の時計に目を移せば、まだ約束の時間からは若干の猶予がある。このタイミングで目覚めて良かった、眠り姫じゃあるまいし、他人と会う時は例え体調が悪くても目を開けていなくては。
「あら、お目覚め?」
「グロリア」開け放したドアから気配に気付いて従者が歩いてくるのをトレヴァーは確認する。「鏡と櫛を持ってきてくれ」
 待ってて、と即座に洗面所へ向かう彼女──ツーカーでも言葉が通じそうなくらい長く共にするグロリアの髪が紫に靡くのは許している。先日キルクスで行われたパフォーマンスの全公演が終わった後、トレヴァーの不調にいち早く気付いたのは何を隠そう彼女である。グロリアがいなければ自分はその後襲い掛かる未知の感触に驚き、パニックになっていただろうから。
 トレヴァーが窓に映る木々が赤く色づき始めているのを眺めている間に、グロリアはサイドテーブルに鏡と櫛を置いてくれた。彼女の服が薄手なのは、今のトレヴァーに合わせて部屋の温度をやや高めに設定しているからである。「他に手伝える事は?」
「エリックが来たら部屋に通してくれ」
「ええ、承知しました」
 それから後で紅茶を要求した時はエリックには冷たい方を、俺には沸騰寸前の方を持ってくるように、とリビングに引っ込みドアを閉じるグロリアの背中に投げてから、トレヴァーは唸り声をあげて半身をベッドから起こし、炎のように煌めく髪に櫛を入れる。綺麗な自慢の髪だが、心なしか今日は色がくすんでいるように見える。とりあえずグロリア以外の前に出てもおかしくない程度に整えると、トレヴァーは改めて自分だけが取り残された部屋をぐるっと見回した。しんと静まり返った上品で空気を読みすぎる部屋。アンティーク調の椅子や机も、現代調で部屋に不釣り合いなベッドも、真っ黒な液晶のテレビも何も言わない。
「……寒いなあ」
 ぽつり、とトレヴァーは口にして身震いする。この言葉の意味を今になって知るなんて。


 右手を彼の手のひらに押し当てると、目の前の相手の深緑の大きな目が一層見開いた。いつもは熱を帯びて温かい手が、氷のように冷たくなっているのだ。現状を伝えるにはこうするのが手っ取り早い。
「つまり、体内を温める発熱器官がいかれているから当分は養生しろって医者から言われたという話」
 見舞いに来たエリックはトレヴァーの言った通り寒色を避け、クリーム色のセーターと黒のズボンの出立ちで現れた。まるで身内が重病にかかったような有様で心配するエリックを落ち着かせるには、今の自分を伝えるしかない。ベッドから半身を起こしたまま、胸の前で指を組んでトレヴァーはこれまでの事を手短に語り、途中で手のひらを合わせたのだった。
「良くなるまで絶対原型の虫の姿になるなって言われたし、くしゃみも極力するなって言われた」
「何故に?」
「勢い余って火の粉が飛び出る可能性があるから。火を出すなって事さ要は」
「辛くないか?君はいつも炎をバーって出してるイメージなんだが」
「平気さ、泥棒が入ってきても虫タイプの技で何とかできるし」
「全く、非常事態こそ普段の行いが反映されやすいんだぞ」
 エリックの表情がいくらか和らいだところで、彼はセーターを脱いで椅子に引っ掛けた。モスグリーンの薄手のシャツ。上出来だ、寒色でも暖色でもない。と同時にトレヴァーは心の底で誤り倒す。いくらか冷気で体温調節ができるとは言え、氷タイプにこの部屋の温度は酷なはずだ。
「寒いなんて、氷タイプには分からないだろうけど。体中が嫌な風にゾクゾクして、縮こまりたくなるんだ。恥ずかしながら冬に周りが震えている理由がよく分かった」
 発熱器官の不調で体温調節が効かない今のトレヴァーの体は、夏から秋になり始めている時期にも関わらず一足早く冬が到来したような状態にあった。炎タイプ故今まで一切縁のなかった「寒い」の感触。タクシーで病院に着くまで「俺は大丈夫だ」と口にするも、驚きと不安と知らない感触に震えるトレヴァーの背中をグロリアがさすっていた事まではエリックには教えなかった。
「そうだね、寒さがどんなものかは知らないけど、病気で心細くなる気持ちは分かる」
 セーターを引っ掛けた椅子にどっかと座り、エリックはトートバッグから青々としたリンゴを取り出すと懐から取り出した小型ナイフで皮を剥き始めた。
「本当は生姜でも持ってこようと思ったけど、生憎家にこれしかなくて」
「いや、リンゴで良いよ。それに青リンゴは大好きだ、甘さがそこまでなくて」
 風味からしてブラムリーアップルだろう、とトレヴァーは直感する。酸っぱいものは今一番食べたいものでもある。そしてそのまま目線をエリックの手に向ける。黄緑色のリンゴの皮と色白の手のコントラストが炉のような瞳に映る。
「僕も子供の頃ひどい風邪をひいた時は無性に寂しくなって、ふらふら母親の元へ歩いたものさ。『エリック!あなた何てこと!』て言われてさ……」
「行動力のある子供だったんだな」
「君だってそんな経験くらいはあるだろう」
 いや、と考えるより前に反射的に口にしていた。トレヴァーの記憶にあるのは、ただひたすら嵐が収まるのを耐え忍んでいた事だけだ。
「俺も母さんとか、屋敷で働いてる人の元へ行こうとしたけど、彼らだって彼らの生活や仕事があるんだから俺が行ったところで迷惑になるよなって。それでずっと布団を被って過ごしていた」
 今だって、グロリアにはなるべく最低限の身の回りの世話だけさせている。彼女は今のトレヴァーが望むなら夜に子守唄を歌ったり、一晩中手を握っていてくれるだろうが、自分のことで他人の手を煩わせたくない気持ちがトレヴァーの中にはあった。
「確かに寒いってこんなに寂しいなとは思ったが、今まで通り耐えるだけさ」
 エリックの手が一瞬止まった。ナイフが芯に当たったようにも見える構図でトレヴァーはそこまで気にしなかったのだが、ふん、と彼が鼻を鳴らした瞬間にはナイフが最後の皮を落としていた。
「ほら、青リンゴ。僕は一切れだけで良いから後全部食べな」
 トートバッグの中から取り出された紙皿に、六等分に切られた青リンゴが並ぶ。器用だ、と寸部の狂いもなく切られたリンゴをしげしげと眺めながらも、次の瞬間にリンゴはトレヴァーの口の中に放り込まれていた。甘いものが苦手なトレヴァーにとって、酸っぱいリンゴは当たりとも言うべき代物である。美味しい、と顔を少し綻ばせながら再びリンゴを手に取る。エリックが一切れを貴重そうにちまちま食べているのはお構いなしだ、彼が少食で一口が小さいのは今に始まった事ではない。彼の前で食事の遠慮はしないと決めていた。
 やがて最後の一切れがトレヴァーの胃に収まったと同時に、ようやくエリックも一切れを食べ終えた。直後「可愛い顔もするんだな」とエリックがふっと笑った時にトレヴァーは思わず目を白黒させる。そんなに自分は無防備な顔をしていたのか?でも、弱った姿を晒しているんだから今更それで驚く程でもないか、という結論に至る。
「リンゴは遠慮なく食べるのに、他の人を頼るのは苦手なんだな」
「それとこれは別だ」
「そうかい」エリックがため息をつく。「君はいい子すぎるんだよ」
「どうも」頬杖をつきながらエリックを見ると、彼の深緑の目が若干険しくなっているのが目に入った。
「そうだ、いい子すぎる……!それだけしっかりしている姿を誰だって見ているはずだ、僕やグロリアさん、おそらく君のご両親や屋敷の使用人達だって。そんな奴を見て皆力になりたいって思う筈さ!だからトレヴァー、君はもっと我儘を言うべきだ」
 ぐい、と距離を縮められて思わず我儘、と小声で反芻する。今までにも何度かグロリアから言われてきた言葉。そう言われても何を要求すれば良いのか頭の中に思い浮かばない。目の前のエリックに至近距離で唐突に言われたのもあるのか、白紙のリストが脳内を駆け巡る。
「耐えていたって事は、今だって何かやってほしい事があるんだろう?寒いならこれを持ってきた」
 えっと、と言葉を紡ごうとする間にエリックが離れ、三度開かれた彼のトートバッグから辞書を数冊積み上げたくらいのの大きさの箱が取り出される。赤いパッケージにはでかでかと「貼るカイロ」と黒と黄色の目立つ文字で書かれていた。
「三十枚くらい入ってるから使ってくれ」
「あ、ありがとう……」
 思いがけない贈り物に心の中がかっと熱くなる。火気厳禁の体にこんな炎を灯して良いのだろうか?箱を開けると、なるほど確かに薄っぺらい湿布のようなものが所狭しと詰め込まれていた。使い捨てカイロはガラルには売っていない。となれば、おそらくカントー辺りから輸入されたものを買ってきてくれたに違いない。値段についても否が応でも考えてしまう。俺のためにわざわざ?
「誰だって君の我儘なら一つや二つ聞いてあげられるって事さ。」
「ここまでやるのはエリックぐらいだと思うけど……」
 苦笑しながら一つを袋から取り出し、シールを剥がしておもむろに背中に貼る。するとじわじわとカイロが熱を帯びているのが上着越しに伝わってきたと同時に、弱ってる間はカイロだけで乗り切れる自信がわいてくるのを感じる。
「他に何かやってほしい事はあるかい?」
「えっと」
 これ以上求めるものは無かった。ここまでされてしまって、更に我儘を言うなんてトレヴァーには到底できない。思わず頭を抱える。これは借りだ、後から返さなければならない事を考えねば、と思考を巡らせてみるがエリックが怪我か病気に倒れたら行って看病してやるくらいしか思いつかない。
「これだけで充分だ、これ以上されたら……」
「借りとかそういうのは考えるな、今の僕はその辺から拾ってきた奴隷くらいに考えな。つまり何でもやるって事だ」
 どこか嬉しそうに語るエリックが小型ナイフを軽く回してみせた。あれだけ高貴な出自にプライドを持っている彼からは想像できない言葉に思わずトレヴァーは笑みをこぼしてしまった。奴隷だろうが誰だろうが、粗末には扱えない。今から太陽をこの場に持ってこいと言うのは酷か。ここまで言われたらこちらも腹を括るしかない。
「今この場で逆立ち歩きしろっていうのは?」
「小さい頃にやった事はあるけど、今できるかな」エリックが腕を交差させて軽くストレッチする。
「待て待て、もっとマトモなものがある!」
「へえ、聞かせてほしいな」
 ランプの魔神に最後の願い事を聞かせるように、トレヴァーは少し勿体ぶってみせる。自制が効く範囲で、ささやかで、でもエリックにやってほしい事が一つだけ思いついた。彼の返答までは想像していない。これは我儘なんだから。
「時間の許す限り暇つぶしに付き合ってほしい」それでも、やっぱり口に出すのは気が引けて消え入るような声になる。
「何だって?」
「だから、その……えっと、まずテレビをつけてくれ」
 トレヴァーがテレビを指差すとエリックがテレビの脇に置かれたチャンネルを手に取り、電源を押す。オートミールの賑やかなCMが画面いっぱいに映し出される右上に紫色のデジタル数字で五チャンネルと記される。
「八チャンネルに合わせてくれ、そろそろ音楽番組が始まる時間なんだ。」
 エリックが言われた通りにすると、ワイルドエリアのキバ湖を小さなボートが優雅に進んでいく映像を背景に天気予報が淡々と流れ始めた。
「日本晴れや雨乞いは無理だけど、霰にするくらいならできるぞ」
「じゃなくて。テレビ見てて俺が寝そうになったら叩き起こしてくれって事。毎週楽しみにしている番組だから」
「疲れてるなら寝た方が良い気もするけど……」
「エリック、俺の我儘が聞けないのか?」
 悪戯っぽく歯を見せる。実際どんなに疲れてても、じきに始まる音楽番組は毎週の楽しみで生きがいでもあった。予定がない限り、見始めてから一度たりとも見逃した事はない。トレヴァーの言葉にエリックは暫くきょとんとすると、観念したようにふっと息を吐いた。
「分かった、僕が番組に夢中になったらごめんな」
「本気で起こしてくれよ。それから、番組が終わったらトランプの相手になってくれ。相手がグロリアしかいなくてつまらなかったからな」
「了解!」
 エリックは夕飯前には帰るだろう。それまでにできる事を簡単に伝える。自信満々に胸を叩く彼を見ながら本当は、とトレヴァーは言いかけた事を飲み込む。自分が寝るまで一緒に馬鹿騒ぎしてほしいんだ、寒さも、時間も忘れるくらいに。
 やがて音楽番組が始まると、軽快なオープニングテーマが部屋中に響き渡る。エリックが確認するようにトレヴァーを一瞥した時、彼と目が合った。白く揺れる髪に吸い込まれそうな深緑の瞳、長い黄緑色のまつ毛。彼は氷タイプのはずなのに、一緒にいると不思議と心と体が温かくなれる。きっと彼の中にウルガモスとマルヤクデの血が流れているからだろう。
 寒さは既に感じなくなっていた。エリックよりワンテンポ遅れてテレビに視線を移すと、見慣れた司会者が若手の音楽グループを紹介しているところだった。これがいつもの夕方だ、隣に友人がいて、脇に存在感を放つカイロの箱があるけれど、これが最高の過ごし方なんだ。
 若手の音楽グループの音楽が流れると、トレヴァーは自分でも気付かないままに頬を緩めていた。
「……温かいな」
 それが番組の面白さから来るものなのか、横にエリックがいるからなのかは、よく分からない。

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二人が両思いになるまで、エリックはトレヴァーに対して奥ゆかしさと遠慮を見せながら接することになるけれど、ここぞという時には土足で踏み行ってくるところもある。
そしてトレヴァーはトレヴァーで、エリックの優しさに対しては満更でもないと思っている。CP未満の関係性もまた良きかな。
とそれっぽい後書きを書いてるけど病に臥せるトレヴァーが書きたかったという話でした。
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