笑顔の価値 | ナノ
笑顔の価値

「まあ聞いてくれ、実は昨晩物凄く疲れてさ、家帰ってとりあえず紅茶でも飲もうと冷蔵庫のドアを開けたら思いっきりオデコにガン!てなってよ。そんでこの有様。しかもあると思ってた紅茶のペットボトルを切らしてた事も忘れてて……」
 リナルドの家に着き、テーブルを挟んで開口一番、昨晩の失態を口にしたのはリナルドから額の絆創膏を指摘されたからではない。第一髪型を変えようがカラコンしようが、絶対他人の容姿の変化を話題にしない男なので、自分から相手の反応を引き出すしか無いのだ。
「ふん、しょうもない」
 これにリナルドは小さく鼻を鳴らしてこちらに笑みを向ける。やりましたよ王子、彼の笑顔を引き出しました――とは、これでは言い難い。俺が見たかったのは「嘲笑」ではなく「笑顔」だ。できれば屈託のない、柔らかな微笑み。
「やっぱ違うな」
「何がだ」流石にリナルドも違和感に気付いたらしい。
「お前が笑った姿が見たいと、ヴィットリオ王子が直々に言ってきたんだ」
「ヴィットリオ様か……」
 途端にリナルドの表情がばつの悪そうなものに変わる。基本的にリナルドは長年の友にして主人であるヴィットリオ王子の言う事なら何でも聞くが、こればかりは聞いてくれないらしいのが今のやりとりで良く分かった。王子の懐の広さに感心しつつ、思い出すのは数日前に王宮で働いていた時の出来事だ。


『リナルドを笑わせる事はできないか?』
 突然訪ねてきて申し訳ない、と別な用事で魔術師の職場まで足を運んできた榛色の髪のルガルガンに驚きつつ、ついでに俺に何の用だと身構えていた彼から発せられたのは意外な一言だった。
『と仰いますと?』
『リナルドは昔から無愛想で、公の場に出ることが多い以上礼儀をわきまえてほしいと言うか、多少は愛想笑いでも見せてくれれば良いのだが、どうも改善の様子が見られなくてな……』
 なるほど、と岩の耳がしおれている彼の様子からも王子のこれまでの苦労が見て取れる。ヴィットリオ王子は確かに身分の高い相手だが穏やかで親しみやすい雰囲気を持ち、本人が堅苦しい態度を好まないこともあって幾らかフランクに話せる。そして俺は彼の従者の数少ない友人である事もあって時々リナルドの情報を共有する事もあるのである。
『王子ともあろうお方の言葉でも靡かないのですか?』
『やはり生まれ持った性質は変えられないのだろう。これでも私といる時は表情が柔らかくなる方だが……』
『ふむ……こちら側からとやかく言うより、向こう側から笑おうと思えるように仕掛けるのは如何でしょう』
 その時脳裏に浮かんだのは、学生時代に古典で学んだ寓話だ。そのパーモットの老人は怪我で両腕が動かなくなり、いくら医者が長年リハビリさせてもピクリとも動かなかった。そんなある日老人の孫娘であるパモが遊びに来て、ネズミの姿で老人の体を遊具に見立てて上り下りし始めたのである。そして孫娘が老人の背中に回った時だ、老人がこっちにおいで、と腕を後ろに回したのである。あれだけ医者が動かそうとした腕がこうも簡単に動くとは。つまり、今必要なのはリハビリではなく、孫娘のようなきっかけだ。
『それにリナルドには無理強いさせるより自発的にさせる方が良いでしょう。王子もそれを分かってて?』
『ああ、だが生憎きっかけが無い。だから君に話題を持ちかけた』
『俺に任せてください、王子が望むものを見せてやりますよ』


 そんな訳で休日に彼の家に上がり込んで今に至るのだ。王子の前では勇んで見せたものの、この無愛想で人見知りで他人嫌いな彼から笑顔を引き出そうなんて、パルデアのナッペ山の雪を一瞬で溶かすくらい無理難題に近い。あの時勢いで引き受けてしまった己を若干恨みつつ、俺自身もリナルドの屈託のない笑顔を見たいという好奇心はある。グラードンを呼び寄せてカンカン照りを引き起こさせられる確率だってゼロではない。額を触りながら思考を巡らす。
「ヴィットリオ様も諦めてほしいものだ、俺には無理な話だというのに」
「でも最低限やんねーと下手すりゃこうだぞ?」手をひらひらさせて首を飛ばすジェスチャーをする。
「だが今のままでも何とかやっていけている」
「その考えがいつまでも保つとは思わないけどな」
「はあ……」
 リナルドのいつものしかめ面が一層険しくなる。眉間の皺が深くなり、口はますます固く結ばれる。まるで地球を支える業を背負った巨人像のようだ。そうならざるを得ない事情があるのは分かっているが、それでも割り切る気持ちが彼には必要だと思う。
 とは言え、彼が自分から笑う姿が想像つかない。コメディ番組を嫌悪し、路上の大道芸に目もくれない奴が微笑みを見せるきっかけなんてそもそもあるのだろうか?そもそも、彼の笑顔らしい笑顔なんてこれまで見てきたか?
「えっと、ミルクコーヒーです」
 と、足元から幼い少女の声がして思わず顔を声の方に向ける。マヒナちゃんだ。リナルドにえらく懐き、彼と共に暮らすことになった真っ白な姿に紫の瞳のロコン。愛らしい表情と共に彼女が持ってきた盆からすかさずマグカップを二つ取り、一つをリナルドへ渡す。彼女の腕では重かったろうに、思わず抱きしめたくなる。
「ありがとうマヒナ、偉いぞ」
「えへへっ」
 一方のリナルドは俺の気持ちを汲んだようにマヒナちゃんを抱き寄せ、わしゃわしゃ頭を撫でてやっている。彼女が日常に入り込んだことで随分とリナルドの態度も軟化したものだ。これでも彼のしかめ面はまだ見られるものになっているし、昔よりは言動に棘が混ざらなくなった。まるでこのミルクコーヒーのようなマイルドな甘さのある──。
「待て」マグカップから口を離した瞬間自分でも思わず声が出ていた。
 リナルドが微笑んでいる。普段の仏頂面はどこへやら、頬は緩み、目を細めて愛おしくマヒナちゃんを見つめる姿はまるで美術館の壁画にある妖精と戯れる愛神のようだ。きっと彼をなんとなく避けてる女性でも今の姿を見れば一瞬見惚れるに違いない。元々顔立ちは良い奴なのだ。
「綺麗な顔」
 またも口から予想だにしてなかった言葉が出たのが自分でも信じられない。ハッとしてリナルドの方に目線を移したが、まだリナルドはマヒナちゃんと触れ合っている。
 そしてひとしきり褒めちぎって満足した彼の元からマヒナちゃんが離れ、再びリナルドがこちらに顔を上げた時には見慣れた無愛想な顔つきがそこにあった。この表情に安堵を感じる自分に少し悔しさを感じつつ。
「何だよ、良い顔するじゃん」
「……今のは忘れろ」
 リナルドがマグカップの取っ手が取れんばかりに握りしめて睨みつけてくる。悪かった、と謝りつつも脳裏ではあの表情が焼き付いて消えない。王子に今の表情を見せれば全てが解決する、これは自信を持って言える。言えるが問題はこれがマヒナちゃんの前でだけ見せた顔ということだった。
「今の顔を公の場でできるかって話だけどよ」
「断る」
「……だろうな、俺が膝ついてお願いししますって懇願してもか?」
「世界中の海が干上がっても無いな」
 表情一つ変えずにミルクコーヒーを飲み干した彼を見て悟る。彼女をフォーマルな場に呼ぶなんて無理な話だし、恐らく彼は職を引きずり下ろされても今のスタンスを崩さないままでいるだろう。俺に直接的な関係はない、見知った同僚がいなくなるのは寂しいが、それは今ではない。俺だって親に見せる顔とリナルドに見せる顔は違うし、このまま押し通しても無理強いするだけだ。
 ヴィットリオ王子には何と言おうか、あれだけ大口を叩いておきながらこの有様では合わせる顔もないが、きっと苦笑しながらも寛大な心で許してくれる。それとも王子の前にマヒナちゃんを連れてこようか?冗談を考えながら再びマグカップに口をつける。
 まだ冷たさの残るそれはコーヒーの風味とミルクのまろやかさが心地よく口の中で広がり、あれこれ考えていた思考をクールダウンさせるには十分だった。

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側にいてリナルドの態度が軟化するだけでも相当すごいことだったりする。
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