終わらない夕暮れ時 | ナノ
終わらない夕暮れ時

 問題文を読み返す。文章中に出てくるキーワードとなる単語や数字は下線を引くのはネリーに習ってからずっと身に染み付いている癖だ。第三型魔法、酸化鉄、トレハロース、ヒアルロン酸、抽出分離、エーテル変換……。
 ここでペンを持つ右手がピタッと止まる。貴族の嗜みとして字は綺麗な方だが、書かなければ意味などないのだ。頭のいいネリーなら見た瞬間バッと紙にペンを滑らせるだろう、化学の教師が物凄い速さで化学式をホワイトボードに紡ぎ出すように。
「はあ……」それができれば苦労などしない。オーレリアは深くため息をつく。
 魔法学の課題に向き合ってから何時間が経過しただろう。昼頃に帰宅し、妹達のお茶の席に呼ばれた以外はずっと自室で山のように出された大量の課題に追われていた。窓からは昼下がりを思わせる陽光が差し込んでいるが、時計の短針は4と5の間を指している。今の季節は日が長いのだ。
 姉妹の中では長女ティータの次に秀才と名高いネリー……コーネリアに隠れがちだが、オーレリアも偏差値が高い高校に通っている身だ。特に魔法学に関してはその科目だけ見れば学内でも上位クラスの成績である。そんなオーレリアですら今回の魔法学の課題は難問極まる内容だった。
「うう、こんな時にネリーがいればなぁ」
 首だけドアの方に向く。いつもなら彼女に泣きついて「しょうがないわねえ、手伝ってあげるわ」の言葉を引き出させる事ができるのだが、生憎課外活動で朝まで帰ってこない。
 それでは更に上のポピーと彼女の旦那(魔法使い)は?この二人も観劇に行っている。課題が無ければ同行も考えていたのに、と思わず唇を噛む。その上の長女ティータも仕事で居ない。なぜこの日に限って皆タイミングが悪いのだろう?
 ここまで頭を使っていると文章も頭に入ってこなくなる。一応声に出して読むことはできるが、内容は耳から入って耳から抜けていく状態だ。酸化鉄、トレハロース、ヒアルロン酸……まるで化粧品のようだ。化粧品と言えば、この前何某の邸宅でおこなわれる舞踏会の参加を渋るルーさんに目一杯おしゃれをしてあげたな……本来ならば小間使いの仕事なのだが、いつも地味目な出で立ちの彼女が気になってならなかったので、この機会にと小間使いと共にデコレーションを施してあげたのだ。浅黒い肌と黒髪に合う化粧品を探し、緑と白を貴重としたバッスルドレスと帽子を見繕い、それはそれは楽しい日だったのを思い出して思わずクスリと笑顔が溢れる。
「そうだ、ルーさんなら分かるかも」
 少し気が引けるが、最早彼女以外に助け舟を出せる相手が居ない。そうと決まればノートと参考書と筆記用具をまとめ、オーレリアは母屋から離れた小さな別館へと小走りで駆け出した。


 ルーさん……ルクレツィアはオーレリアの従姉妹だ。いつも国の行政機関で働いており、平日は忙しい日々を送っているので宿題を手伝わせることに躊躇いがあるのだが、私だって困っているのだ。今日中に終わらせなければ明日のドンのとデートの予定が崩れてしまう。ルクレツィアがたまたま家にいる現実に感謝する。
「いいよ、高校の宿題くらいなら手伝えるし」
 ルクレツィアもまた、国の行政機関で働けるだけあって地頭は良く、魔法学にも詳しい。控えめに別館の扉を叩き、そこに住む居候の彼女に控えめに申し出たところ、彼女は快くオーレリアの抱えたノートと参考書を抱えて自室に案内してくれた。なんて聖人!
 書類で散らかった机をきちんと傍に揃え、オーレリアのノートと参考書を広げた時にはますますオーレリアは目を丸くしたものだ。明らかに持ち込んだ仕事があるはずなのに、他人の宿題を引き受けるなんて!
「ルーさん、今度とびっきりのスイーツを紹介するね、ちゃんとコーヒーに合いそうなやつ!」
「ありがとう、それじゃ早速どこが分からないか教えてくれる?」
 かくしてルクレツィアの助力もあり、一時間足らずで殆どの課題は終わりに近づきつつあった。やはりオーレリアの判断は正しかったのだ。持つべきものは優しい相手。
「オーレリアだからだよ、誠実でチャーミングな相手にはこっちも手伝いたくなるし」
「そう?」
「ひえっ、天然でその反応……とんでもない娘!」
「ところでルーさん、この問題とこの問題は?」
「あっ……」ここでルクレツィアが渋い顔になった。「この問題出した先生、訴えたほうが良いと思うんだ」
「ルーさんでも分からないことってあるの!?」
「こんなの高校生どころか私ですら見たことないよ、でも全部終わらせなきゃいけないんだよね」
「いやいや、ここまで手伝ってくれたルーさんをこれ以上酷使する訳にはいかないし、後は私がやってみるよ!」
 そう言って問題文を読んでみたが、オーレリアも初めて見る物質が書かれてて何をもって解を導くかとんと見当つかない。何より驚いたのは、最後の砦であるルクレツィアも頭を悩ませている予想外さだった。
「そこだけ飛ばして提出したら?」
「以前分からない問題でそれやったら怒られたから……」
「理不尽な教師もいるんだね、でもこれはおかしいって。そう私が言ってたって伝えたら許してもらえるんじゃない?」
「ルーさんの名前ねえ」果たして出したところであの教師がなびくだろうか?彼もまた元国の行政機関の職員だったので、言いくるめられて終わりだろう。となれば何とか知恵を絞るしかない。
 いつでも助けを呼んでいいから、と積み上げた仕事の山に戻ったルクレツィアを尻目に、その近くの机でオーレリアは右腕をまくった。相変わらず日は傾く気配がなく、今が六時台である実感が湧かない。それが逆に終わらない時間を思わせてオーレリアは思わず身震いした。


「もしもしドン君?明日行けないかも……」
 オーレリアは真面目だからか、退屈や疲労で居眠りした経験がない。そのかわり周囲に嘆きを聞いてもらう事がお約束となっているのだが、今回その役が回ってきたのが明日デートに行く予定の相手だった。ドンは魔法使いではないので宿題を手伝ってもらうことはできない。だが今彼女が求めているのは、とにかく半泣きになる程の嘆きを一字一句受け止めてくれる事なのだ。
「泣くな泣くな、何があったん?」
 携帯電話の向こうから心配してくる声に思わず涙が溢れそうになったが、なんとかこれまでの経緯を手短に……と言いつつところどころ芝居がかっている……語ると、うんうんと相手が相槌を打つ声が聞こえた。ドンに求めるのはそれだけで良い。或いは今すぐ彼の元へ言って厚い胸板に抱きしめてもらうとか。一回り小さな自分が大きく黒いドンにすっぽり抱きとめられるビジョンが脳裏を過ぎった時に思わず心臓がキュンとしたが、すぐ現実に引き戻されて視線は手元のノートに移った。
「ここまで聞いてくれてありがとう、すっきりしたから後は自分で何とかするね」
「待て、俺に良い案がある。後で電話掛けっから待っとって」
 その瞬間唐突に電話の切られる音。不器用な彼の言動は慣れっこだ。次の電話を待つ間、軽くペンを回しながらオーレリアは思考を巡らせていた。ドン君は魔法学なんて分からないから、大学出のトレヴァーさんでも連れてくるのだろうか?いや、多忙な彼を連れてくるなんて友人でも至難の業だし、そもそも今彼はパルデアの芸術祭でパフォーマンスを披露している時だ。或いは魔法学の先生の元にカチコミに行く……?それも無いだろう、彼に学校の教師の話題は出した事がない。
 やっぱり手伝おうか?とルクレツィアが心配そうにこちらをみてきたことでこれ以上拗れた思考にはならずに済むも、いやいやと片手を振りながら再び思考は目の前の課題に移っていた。
「折角の休みが虚無で終わるなんて耐えられないよ、私はあとちょっと頑張れば終われそうだし、一緒に頑張ろう」
「でも……本当……大丈夫?」
 遠慮がちにルクレツィアのエメラルドの瞳を見上げた瞬間、携帯電話がブルルと振動したと同時にポップな着メロが部屋中に響き渡った。慌てて携帯を開くと見覚えのない電話番号からの着信だった。
「もしもし、君がオーレリアちゃん?あたしはブレンダ、えっと、ドンの兄貴の許嫁!」
 携帯から少しだけ耳を話す程明朗快活で大きな声の女性にたじろぎながらも、何となくオーレリアはこの後の言葉を察していた。期待していた。
「あたしこれでも大学の魔法学科で働いててさ。何の問題が分からないんだい?」
 思わずオーレリアはぱあっと輝かせた顔をルクレツィアに向けてサムズアップを送っていた。


「いやー、無事に終わって良かったねえ」
 ようやく傾き始めた夕日を背に、ルクレツィアの部屋ではオーレリアが全てをやりきった表情で机に突っ伏していた。ブレンダとの電話は既に切れ、後はオーレリアが正気を取り戻すのを待つばかりである。
「ルーさん、私、本当にダメだと思ってて。こんな奇跡もあるんだね」なんとか上半身を起こせるだけの気力が戻ってきた。
「奇跡じゃないよ、さっきも言ったけど、オーレリアは誠実でチャーミングだから助けてもらえる相手が多いんだって事」
「そうかなあ」
「良くしてくれる相手は大事にすること、皆オーレリアの為になりたいんだから」
 皆オーレリアの為になりたい__何だかむず痒い言葉だった。ただ自分は相手が困っていたら助けてあげたいと思うし、自分が困っていたら誰かが助けてくれるとごく当たり前に思っていたが、他人との繋がりの有り難みを改めて考えると、ルクレツィアの言葉が一層身にしみた。
「ルーさんにもだけどドン君やブレンダさんにも感謝しなきゃ、ドン君には明日どんなお礼をしようかな、とびっきり景色の良い展望台に案内しようかな、それとも……」
「おお熱いねぇ、青春だ」
 苦笑するルクレツィアの横で、オーレリアは机に頬杖をつきながら夕飯を知らせるベルが鳴るまで明日の楽しみに心を躍らせるのだった。

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ドンの家族周りの設定を出したかったなどと供述しており。
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