抗えぬトラウマ | ナノ
抗えぬトラウマ

「それじゃ、本当にやっていいんだね」深刻な表情でテーブルの向かい側に座るルドヴィコが手を組む。「用意はしてあるけど、いつでもやめて良いから」
「……頑張ります」
 ルドヴィコより更に苦悶の表情を浮かべ、リナルドは頷く。どうしても一人では無理だ、と頼み込んだ相手だ、折角自分のために時間を割いてくれた相手の気持ちを無下にしたくない。
 この国に来てから十四年の歳月が経っていた。その間に様々な経験をし、消えない記憶とは言え少しずつ故郷の思い出は過去のものになりつつある。かつて故郷から受けた仕打ちはこの国に来た当初よりは癒え、時折悪夢に見る事こそあれど少しずつ向き合えるようにはなっていた。だからこそ、調子の良い今なら乗り越えられるんじゃないか、そう思い過去を知る者の家に乗り込み協力を要請したのだった。
「……良いんだよね、やっても」
「何度も言わせないでください」
 繰り返される会話に念を押す。トラウマにより激しくのたうち回る姿を幼い頃より彼に見られているからこそ、彼が過剰なまでに心配しているのはリナルドにも伝わってきた。だが、それでもこのタイミングでやるしかないのだ。苦手に打ち勝てるチャンスを感じるこの瞬間に。
「それじゃ、置くよ」
 とん、とルドヴィコが懐から小さなフィギュアをテーブルに置く。ソフトビニール製のそれは片手ですっぽり包める程度の大きさながら、値段相応の質に作られており、細部こそ省略されているものの赤々とした目や大きな九本の尻尾は本物同様の精巧さだった。
 炎を操る方の、金色のキュウコンのフィギュア。あえてリナルドと目が合わないよう、横向きに置かれた途端にその存在感を放ち始めた。
「……っ」
 覚悟してはいたがそれでも息が止まりかけた。ルドヴィコの精一杯の配慮に感謝しつつ、小刻みに震える左手をフィギュアに伸ばす。
 リナルドの故郷の思い出がいかに辛く苦しいものかを証明するのが、原種に対する恐怖心だった。物心ついた時から異端として彼らに虐げられてきた心の傷は、薄いかさぶた一枚で閉じられているようなもので、少し擦れれば簡単に傷口が開く。これまでも数度傷から黒ずんだ感情の血が溢れ出し、時間をかけては癒していた。どんなに幼き日の記憶が薄れても、頭の中に鮮明に残り続ける出来事だってある。
 それらに真正面から挑んでやるのが、今回リナルドが自身に課した試練だった。
 手の震えはいくら頭で念じても全く止まらない。空いた右手で左の手首を掴んでもむしろ震えは増すばかりで、仕方なく震えの事は諦めて左手でフィギュアを触ろうと掴んだ右手を動かす。
 大丈夫、ただのポリ塩化ビニルを型抜きした物体だ。匂いだって他のソフトビニールの人形と変わりない。右手に力が入る。左手の骨の感触が伝わる程握りしめようが関係ない、これをやろうと言い出したのは俺自身だ、だからやってみせる。
 左手とフィギュアの距離が十センチまで縮まる。そこから九センチ、八センチ……少しずつ利き手と逆の手を近づけていく。怖い。ただの人形なのに、たかがキュウコンのフィギュアなのに。息が荒くなる。思わず視線を逸らす。見守るルドヴィコの顔も見たくないので、思いっきり左横にだ。
 絶対手出しするな、とちらと真向かいに座る相手を目で牽制して手を更にフィギュアに近付ける。指先がフィギュアに触れるまであと三センチ、フィギュアのはずなのにキュウコンから嫌な熱が発せられているようだった。その熱が両手に伝わるようで、押し込めた呼吸も苦しくて、やっぱり怖くて──。
 うめき声ともつかない声を振り絞って手を一気に引っ込めた。ぜえぜえ肩で息をしながら呼吸を整え、頭の中で過去の記憶が蘇りそうになるところで首を振る。息が苦しい、強く握り締めていたらしい左手首の痛みが今になってズキズキと主張する。
「リナルド、どうする?」
「いや……立体だから、駄目だったんだ。平面なら、平面なら……」
「平面か」納得いかない表情を浮かべ、フィギュアを懐にしまったルドヴィコは釈然としない態度で大きな尻尾から白く小さな正方形の台紙を取り出した。インクと樹脂を使った独特の素材のシールは、スーパーで売られる菓子パンのおまけとして子供達に人気のシリーズだ。
 小さいながら、白い台紙いっぱいに金色の体毛を持つキュウコンが座るシールが、フィギュアの置かれていたところにそっと差し出される。本当に大丈夫かとルドヴィコの赤紫の目が語っているのをリナルドは見た。
「いいや、シールくらいなら……」
 上ずった声に気付かないままリナルドは再び震える左手をシールに向かわせる。ただの紙な分さっきよりは心境がましになっているはずだった。それなのに、この息苦しさは先程と全く変わらない。ぴたっと、今度もまた三センチのところで手が止まった。これ以上動かそうにも手は石のように固まって言う事を聞かない。また無理矢理右手で掴もうとしても、右手の先まで神経が行き届いていないかのように、脳の信号が行き渡らなかった。
「これでどうだい」
 見かねたらしいルドヴィコがシールをひっくり返した。何も貼られていない側の台紙が露わになっても、何のシールかを見てしまっている以上、リナルドは子供騙しじみた行為に気を緩められなかった。
「動け、動けって言ってるのに……!」
 手どころか声も震えているなんて、と自分が情けなくなる。今日ならいけると思っていたのに、ここで諦めたく無い気持ちで歯を食いしばっても左手は動かない。それが更に自分の駄目さを強調しているような気がして、ますます自分が許せなくなってくる。
「リナルド、充分頑張ったよ」
「……まだ、やらせてください、あと少し……!」
 いよいよ心が、体が限界を迎えているのをリナルドは感じ取っていた。精一杯の強がりがいよいよ通じなくなっているのを知ったのは、目頭が熱くなっている感触に気付いたからだった。あくまで瞳を濡らすまででも、これ以上続けていたら心が壊れる。心の声がそう語りかけているのを感じて、遂に左手がピクリと動いた。その手はシールの方向へ下降していき、寸前で逸れる。これが今の精一杯だった。
「……うん、ゆっくり慣れていこうか」
 ゆっくりなんて言ってたら、一体いつ克服できるんだ、と返せるだけの気力は今のリナルドに残っていなかった。やっと動き始めた両手で顔を覆いながらごちゃついた心を抑えるしかできないなんて、無力を通り越して虚しさが押し寄せていた。テーブルからシールが取り払われ、コーヒーを入れてくる、と言い残してキッチンに消えたルドヴィコを追う余裕もなく、そのままリナルドは机に伏せる。
 今回も駄目だった。これまで何度も同じ事を繰り返し、ことごとく克服までには至らなかった。一人でやった事もあれば、養父やルドヴィコにも協力を頼む事もあった。最初は見るのも拒んでいたからこれだけでも進歩したと言えば進歩したと言えるのだろうが、リナルド自身がそれで妥協したくなかった。だから今回も失敗という結果しか残らない。慣れる、なんてまだ遠く離れた目標だ。
 汗だくの背中と遂に溢れ出た涙がたまらなく不快になるのを感じながら、リナルドは心の中で地団駄を踏んだ。

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おそらく永遠に治らないであろうリナルドのトラウマについての話でした。
リナルドもルドヴィコも、小さい頃に原種から氷を操る体質を異端と迫害されてきた過去を持つけど、原種に対するマイナス感情は違ってて、リナルドが「恐怖心の象徴、トラウマ」なのに対してルドヴィコは「嫌悪、憎悪すべき存在(長く生きるにつれ薄れてはいった)」て捉え方。
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