おやすみ、いい夢を | ナノ
おやすみ、いい夢を


 息が苦しい。水面から顔を出しながらガボガボもがく。
 何かを掴もうと必死に手を伸ばし、足をばたつかせるが力が入らない。水の中というのもあるが、そもそもの体力が無いのだ。苦しい、死にたくない!と叫ぼうとしても水が口の中に入るばかりで声は体の奥へ押しやられる。絶望しかなかった。
 必死に白い髪を振り乱して何かを掴んだ時は一瞬だけ安堵したが、浮き具にもならない板を握りしめている事を知ると再び血の気が引いた。それに何と自分の手の小さいことか!足も本来なら辛うじて川底につま先がつく程の長さなのに、足は虚しく川の中を蹴るばかりだった。
 誰か助けて!と念じながら体は下流へと流れていく。ただのゴミでしかない板を浮き具にしようとしつつ、水を被ったり浮き沈みを繰り返していると、ふと胴体が硬いものに当たる感触がした。岩だ、それも先端がひょっこり川から飛び出している。板を捨て、無我夢中で岩にしがみ付くとやっと安堵の気持ちが芽生えた。激しく咳き込んで鼻や口から水を吐き出すと呼吸もやっと楽になる。そしてまだ鼻の奥がつんと痛いものの、漸く周りを見渡せる余裕も生まれた。
 両側面に堆く積まれたレンガの壁。街中に流れている川なので当たり前だがレンガで側面が整備されているのだ。そして道を繋ぐ橋。そこにずらっと自分を取り囲むようにして群衆がいる。赤髪の子供、金髪の大人。皆物珍しそうに、だが冷ややかな視線で見下ろしている。
 助けてください、と口にする。その声がか細くても同じ種族なら高い聴力で聞き分けてくれるだろう。だが群衆の動く気配はない。それでもう一度助けて、と声を振り絞った。一部の金髪の耳がかすかに動いただけで誰も川へ降りようとしない。それどころか自分を指差してひそひそ喋っている者達もいる。
 なぜ誰も手を差し伸べないのか?その答えは薄々感じていた。常人なら集団心理の悪い例、あるいは群衆が皆炎タイプだからと上げるところだが、もっと根深い問題が、彼らと絶対的に違うことがあるからという理由を知っていた。そう、本来激しく衰弱するはずの川の中で多少足掻けた地点でそれは証明されているのだ。無論見た目の特異さもあるのだが。
 だから耳を澄まさなくても群衆のざわめきが聞こえて来た時、現実を改めて突きつけられて心臓がギュッと縮んだ。
「見なよ、ありゃ例の王子だ」
「可哀想に、あれだけ溺れて……でもあたし達は何もできないのよね」
「いやいや誰があれを助けるんだ?あんな忌子を」
「このまま流れてくれりゃあいいのになぁ、あんなおぞましい姿二度と見たくない」
まるで処刑場で今から刑に処される罪人を眺めるがごとく、群衆の目は鋭く、冷たい。あたかもそれが当然の対応かのように向けられる視線の数々が、リナルドに痛いくらいに突き刺さった。怖い。ぞくぞくと震えるのは寒さからか、或いは恐怖心からか。
 誰もが自分を見て笑っている。蔑みの目を向けている。そこには誰一人として味方はおらず、突如として鼓動が早くなったのを感じた。溺れていた時より呼吸が苦しい。ただ息を吸って吐くことが何故できない?空間が、視界が歪む。群衆の目線が恐ろしい怪物のように見える。どうして、どうして僕は周りの同族と違う姿をしているんだろう、どうしてそれだけでこんなにも辛い目に遭わなければいけないのだろう……?


 叫び声のような呻き声のような声でリナルドは現実に引き戻された。同時に視界に真っ暗闇の天井が広がる。どうやら自分の声で目覚めたらしい、と考える間も無く、息の詰まる感覚が襲う。酸素が行き渡らない苦しみに喘ぎながらも無意識に、縋るように体は昔から悪夢に飛び起きた時のルーティンをこなそうとする。ガバッと上半身を起こし、震える手でベッドサイドに置かれた小さなケースから錠剤を取り出すと、乱暴に口の中に放り込んでからペットボトルの水を胃に流し込む。時間が経って生ぬるくなった水の温度と、許容範囲いっぱいに飲み込んだ所為で当然ベッドに零す程むせながら、この不快感が何かに似ているとぼんやり思う。忘れもしない、溺れた時だ、そしてあの夢は夢じゃない。
 首を振りながら思い起こす。思い出したくない故郷の記憶は無数にあるが、そのうちの一つがあれなのだ。確かあの時の自分を救ってくれたのは事情を知らない観光客だった。もしその観光客がいなかったら……そう考えただけで汗だくの体に震えが走り、咄嗟にもう一口水を飲む。何も考えるな、今こうして生きているというのに。
 肩で息をしながら何とか胸の不快感を追い出し、リナルドは胸に手を当てる。周りから良く言われる言葉がある。「何故周りを頼ろうとしないのか?」生来の控えめな気質もあるが、故郷の国で嫌われ者だった身からすれば寧ろ周りを頼る発想に至る事自体がおかしいのだ。もっとも現在はその考えが歪である事を認めざるを得ないくらい、周りに助けてもらっているのだが――。
「そうだ、俺はもう昔の俺じゃない」
 絞り出すように出した声が虚しく寝室に響く。カーテンの隙間から漏れ出る月明かりに青い髪が照らされ、少しずつ現実に引き戻される感覚を覚えた。現実だ、今の俺には育ててくれた父さんやルドヴィコさんがいる。多少癪だがタンクレディにも借りがいくつもあるくらい助けられている。それで良いじゃないか、今が恵まれているんだから。
 そのうち鎮静剤も効いてくるだろうし、呼吸を整えて後は何も考えずに枕に顔を沈めて朝まで眠ろう。大きく深呼吸をして呼吸が正常な状態に近づいている事を確認し、そのままリナルドがベッドに沈み込んだ瞬間、彼は隣で眠る存在を今の今まで忘れていた事を思い出した。あの時の自分と同じ白い髪の幼子。境遇こそ違うが何となくシンパシーを感じて一緒に暮らしているマヒナは普段なら穏やかに寝息を立てているはずだったが、よりによってこの夜はくすんくすんと閉じた瞳から涙を流しながら怖い夢を見ているようだった。
「パパ、いかないで……」
 考えるより先に両の腕でマヒナを抱きしめていた。マヒナはアローラという国で父親と平和に暮らしていたが、身寄りを無くして紆余曲折の末に自分の元にやって来た少女だ。故郷が侵略され捕虜となり、憎い家族とも別れて結果的に今の国で暮らせる事になった自分と境遇はどこまでも違う。それでも、彼女に寄り添う事はできる。
「マヒナ、大丈夫だ。俺が、お兄ちゃんがいる」小さな背中をさすりながら紫色の耳に語りかける。「絶対に一人にはしない、だから……」
 気が付けば、リナルドの目からも大粒の涙が溢れて頬を伝っていた。それは愛し子への愛情からか、幼い頃の自分と重ね合わせたが故の思いか。最早判別のつかないままぐちゃぐちゃになった感情を抱えて一層リナルドは腕の力を強くした。
「ゆっくりお眠り」
 リナルドの思いが届いたか、穏やかな表情に変わったマヒナの呼吸と鼓動が心地よく響く。あの時の心の傷を癒すように。嗚咽混じりでマヒナを更に自分のところに抱き寄せて、そのままリナルドは涙を拭わず瞳を閉じた。
 いつかこの記憶が完全に救われる日が来るのだろうか。こんなに現実が平穏なのに、時々忘れるなと言いたげに夢の中に現れる故郷のこと。だがマヒナの寝息を聞いているうち、リナルドは全てがどうでもよくなって眠りの世界へ再び落ちていった。

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リナルドの過去が垣間見える話。彼の過去はだいぶ悲惨なんですが、その一端を書いたのがこれでした。
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