世界で一番尊い音楽 | ナノ
世界で一番尊い音楽


 ベニータにはいつ頃からか不思議な噂がささやかれるようになった。「ベニータの現れるところ、流離のシンガーあり」――奇妙なものだ。旅をしながら芸で食っている大道芸人なので本人が歌を歌っているものだと噂だけ聞いた人は思うだろうが、ベニータの歌唱力はプロ級ではない上、観客も口を揃えてベニータではないと断言する。そもそも、女性ではなく男性の声だという。
 それは今日訪れたチャンプルタウンでも知れ渡っており、先史時代に建てられた半円形の劇場でヨーヨーの大道芸を披露した後に観客から小銭の雨あられを受けている時もしきりに観客が話している声を聞いた。
「勿体ないな、もうちょい早く来ていたらここで流離のシンガーの歌が聴けたのに」
「しかし良い歌ね。心にジーンとくるというか、誰が歌ってるかは見てないけど」
「本当誰なんでしょう。流離のシンガーって」
 流離のシンガーはベニータも会ったことがない。気まぐれに行き先を決め、気ままに旅をする自分と同じルートで旅をする旅人がいるのだろうか。それはそれでストーカーされているようで嫌悪感もあるので正体を突き止めたくなる。
「アララルにも言っておこうかな、誰かが付きまとっているかもしれないって」
 帽子と仮面をバッグに入れながら呟く。時間は昼ご飯で飲食店がてんてこ舞いになる時を過ぎ、当然昼前から水以外口にしていないベニータも腹の虫に抗えなくなり始めていた。今日の昼ご飯はどこにしようか。バッグを担いできょろきょろ街中を見回していると、ふいに歌が耳に入ってきた。
 ――間違いない、流離のシンガーだ!
 一体どんな奴が歌っているのやら。私の追っかけか、あるいは悪意を持っている奴か。見失わないよう声の方向へと走る。これを逃したら次のチャンスはいつになるか分からない。
 走って走って、路地裏を通り道路沿いの道を抜け、やっと歌詞も聞き取れるくらいの距離へとたどり着いた時、ベニータの目の前には「宝食堂」と書かれた風情ある大きな食堂が鎮座していた。
「焼きおにぎり二人前、大文字で炙ってレモンを添え〜」
 歌詞の内容はさておき、その声は思わず魅了される、天使の声と口々に評されるのも納得の歌声だった。ベニータもこれまでたくさん歌を聴いている。それこそ孤児院で暮らしていた時期に奉仕活動で教会を訪れ、聖歌隊の神秘的な声に耳を傾けたことも一度や二度ではない。それでも今耳に入るこの歌こそ、天上の景色を思わせるような伸びやかかつ雄大な音楽そのものだった。
 ガラッと店の引き戸を勢いよく開け声の出所まで迫る。果たして流離のシンガーの正体とやらは……。
「お客さん、ご注文は?」
「かけそばと梅干し……ってあの、この人は!?」
 思わず靴を脱いで畳の座敷に上がる。果たして座敷の奥で焼きおにぎりの歌を歌っていたのは、アララル当人だった。オリエンタルな屏風に負けない存在感を放ち、席に座りながら楽しそうに歌っている。そして周囲の人々は皆アララルの歌に耳を傾けている。
「びっくりしちゃったよ、あれ多分流離のシンガーだろう?うちの店に来るなんて」
「嘘でしょ……」最早そう言う他なかった。
 後からサインをせびろうとする店員も、合いの手で盛り上がる客もベニータの視界には入ってなかった。ただ目の前にあるのは、これまで歌の才能なんて一切見てこなかった相棒の知らない顔。圧巻で、誇らしくて、最高だった。まるで渾身のショーを見せた後に万雷の拍手を受けたかのような感覚。
 相変わらずアララルは呑気に宝食堂のご飯がいかに美味しいかを歌っており、かけそばと梅干しもまだ来る気配はない。ベニータはアララルが自分に気付いた時、どう言葉をかけようか悩みながらテーブルに頬杖をついた。

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