愛されたい日の夜 | ナノ
愛されたい日の夜

 バケツをひっくり返したような土砂降りの深夜に誰が外に出るか?夜行性の者は家に引きこもり、お城の守衛ですら屋根の下で立哨するであろうそんな中で、僕だけがイレギュラーな存在として高級住宅街の一角──ある屋敷の二階のベランダの窓の前に立っていた。
 ここまでどうやって来たかさっぱり覚えていない。恐らく街灯の明かりを頼りにそこそこの運動神経を駆使して誰もいない門をくぐり抜け、庭の木々を伝ってベランダに飛び移ったのだろう、いつもの僕ならそうやりそうな手口だが、虚無感と悲しみで埋め尽くされた心で先程の記憶を呼び起こそうとしても何一つ思い浮かばない。更に言えば、午後依頼を受けて達成した辺りから記憶はあやふやになっている。
 ただ、それでも一つだけ鮮明に浮かぶものがあって、そのビジョンのために僕は目の前の大きな窓を強く叩く。返事はない。街の音をかき消す雨音でこの音が聞こえないのは分かっていた。それでもう一度先程よりも強く叩いてみる。やはり沈黙しかない。窓から部屋の様子を伺おうにもカーテンが引かれている状態で、透視能力も持ち合わせていない。それならばどうする?土砂降りだろうが何だろうが彼女が来るその時まで待ち続けるだけだ。朝になって屋敷の誰かに見つかったらその時考えれば良い。幸い上には屋根が付いており、雨よけには丁度良かった。ひと一人通り抜けられそうな大きさの窓の側に腰を落とし、そのままガラスに寄りかかる。
 途方もない時間だけが過ぎ去っていく。腕時計に目を落とせば辛うじて十一時過ぎを指している針が見えるので、実際は数分しか時間が経っていないのだろうが、体感では数時間は経過しているんじゃないかと思う。雨の中傘もささずにここまで来たため、今になって服と髪の湿っぽさや水滴が不快になってくる。だがその不快感も大したものに感じないくらいに心の中は闇で覆いつくされていた。
 このまま眠ってしまおうか。誰も来なくても窓とカーテンを隔てた場所には探し求めている相手がいるのは確かな事実だ、窓からの温もりだけでも今の僕には充分な癒しとなる。朝誰かが窓を開けた瞬間そこから部屋に入り込むんだ、完璧な作戦だ。
 濡れたコートを脱ぎ捨て、姿勢を整えて再び窓に寄りかかる。そのまま閉じようとした目を大きく見開くことになったのは、その瞬間にカーテンがサッと引かれ、窓の向こうに水のクナイを手にした黒いゲッコウガの女性が姿を見せたからだった。服装はゆったりしたパジャマだが、明らかにこんな雨の夜の物好きな侵入者に備えて警戒態勢を取っている。彼女の血のように赤い瞳と目が合う。いくら眉を吊り上げていようが、僕にとっては慈愛の満ちた女神にしか見えない。それ程までに彼女は美しかった。特に今のような状況であれば尚更。
 ウォルター、と窓の向こうの彼女が口を動かす。取り落としたクナイが水となって部屋に弾ける様子も見える。ぼんやりそんな一連を眺めているうち窓が開き、気付けば僕はシノノメさんに部屋に引き入れられていた。
「こんな夜に!どうして!?」
「大した事じゃないんだ、本当に……」
 ずぶ濡れのコートも回収しながらシノノメさんが驚いた表情でこちらを見つめる。ぽたぽたと水滴を垂らしながらも僕はそれしか言えない。その顔を見た瞬間、たかだかしょうもない理由で不法侵入した自分が恥ずかしくなってきたからだ。シノノメさんは追及しなかった。その代わりまず風呂に入ってと部屋に併設されたバスルームへと僕を連れ込むと、後で着替えも持ってくるからと言い残して扉を閉めた。
 再び沈黙が訪れる。折角会えたのにまた離れ離れになった事に少し心が痛むも、まずシャワーを浴びようと思えたのは体にまとわりついた不快感を思い出したからだ。
 シャワーの温水に包まれながら、ようやく僕は今日の出来事を反芻できた。今まで心の奥底に閉じ込めていた思いが溢れてきた、その瞬間を。


 やや大きめな深緑のパジャマに袖を通し、適当に髪を乾かしてシノノメさんの部屋に戻ると、ベッドに腰掛けた彼女がいつもは見せない不安げな瞳をこちらに向けていた。こんな顔をされたのはいつ以来だろうか、日頃の特訓で無茶をした日なんかに見たような、大理石のように白い肌にはおおよそ似合わない姿をいつもの僕なら滑稽だと微笑するところだが、生憎そんな余裕は持っていない。
「……一体どうして、ここに?」
「さっきも言っただろう、大した事じゃないって」
 シノノメさんの隣に座り、膝を抱えて受け流す。シャワーを浴びている間もよくもまあ馬鹿げた理由でここまで来たものだと考えていたところだったのに。
「なるほど、大した事じゃないと」
 無言で頷く。このまま何も聞かずに一晩だけ寝る場所を与えてくれるだけでも良かった。僕が見たかったものは、感じたかった温もりはもう堪能できたのだから。後は雨が止むまでベッドなりソファにくるまって、じっと時が過ぎるのを待ちながら感情の整理をする選択肢だってあったのだが。
「そうでなければこんな大雨の夜に来る訳がないデスよ」
「……まあ、そうだよね」
 僕の師匠は何でもお見通しだ。じっと見透かされるような瞳で覗かれては、これ以上の黙秘は困難だった。普段であれば体が熱くなる程心がドキドキする視線が今は何よりも痛い。
「別に、笑わないでくれって話でもないんだけどさ」
 シノノメさんは至って真剣だった。それを確認して足を床につける。シノノメさんと同じ姿勢になったところで僕はやっと話を切り出せた。
「今日の依頼は、観光客の家族を探すものだったんだ」
 午前に受けた依頼を早々に終わらせ、追加で受けた依頼が迷子のクワッス少年の両親を探すという内容だった。パルデアからはるばる旅行に来て、早々に離れ離れになった災難で大泣きする幼子を宥めつつ、依頼自体はごく平凡なもので数時間もするうちにドンが少年の両親を探し出してくれた。
 かくしてインテレオンの父親とウェーニバルの母親からいくらお礼を言っても足りないだとか、金一封差し上げたいとか深々と……五体投地される勢いで頭を下げられる事態になり、それで依頼は無事に達成できたのだった。何て事ないただの日常だ。
「本当に、ただの……」
 そう、特に大きな事件でもない。依頼自体も平和に終われたし、割と楽なものだった。それなのに、遠ざかる家族の背中が脳裏に焼き付いて離れないのだ。両親の手を握ってはしゃぐ男児にインテレオンとウェーニバルの両親。あり得ないのに、あり得たはずの未来を見てしまった。
「……僕の両親も、インテレオンとウェーニバルだったんだ」
 父さんは僕が生まれた時には既におらず、母さんは僕が五歳の時に病に冒され……。これまでの人生で周りの子供達が羨ましいと感じたことはあったが、自分は自分だと無理矢理押し込めていた。それに社会に出てから僕のような境遇が少数派とはいえ、思っていたより珍しくもないとも知った。手のひらを見つめる。思い出せないくらい昔に繋いだ母の手の感触が記憶に残ってないのがたまらなく寂しく、悲しい。
「僕だって、父さんや母さんに甘えたかった。良い事をしたらいっぱい褒められたかったし、悪い事をして叱られても良い。でも、その思い出が殆ど無いんだ」
 あの家族が、子供が羨ましかった。自分に無いものを持っていたから。でも掴もうとしてもその手は虚空を握るだけで温かさは還ってこない。そもそも最初から無いので無意味な話なのだが。
「そう思ったら、辛くて悲しくなって、家に帰った後でシノノメさんの顔が思い浮かんで……」
 おかしいよね、と表情筋を動かして口角を上げた時にはシノノメさんに抱きしめられていた。体温の低い彼女の冷たさが全身に行き渡る。押し付けられた柔らかな感触も今は母性と優しさしか感じなくて。
「ごめん、なさい……突然。こんなこと、シノノメさんにしか、言えないから」
「謝らないでくだサイ、私を頼ってくれた事、嬉しい」
 一層強く抱きしめられて背中を撫でられて初めて気付いた。自分の頬に涙が伝っている事、目から止めどなくそれが溢れている事。声に嗚咽が混じっている事。
「私はどこにも行かないから、今は好きなだけ甘えて」
 その言葉で心の中の何かがプツンと切れた気がした。これまで張り詰めていた糸のようなもの。その音を聞いたわけでも無いのに、涙腺が阿呆みたいに緩むのが自分でも分かった。今の自分には受け止めてくれる存在がいる。優しくて温かくて、まるで家族のような──。
「寂しい……寂しいよぉ……!」
 後は感情に身を委ねるだけだった。わあわあ声を上げて泣くなんてこれまで母さん以外に見せた事がない。僕自身も含めて、だ。だから滅茶苦茶に情緒を振り乱す僕を何も言わず撫でてくれる温もりが嬉しくて、このままこの涙で部屋の中が満たされるんじゃないかというくらいというくらい、ありのままの姿を曝け出して僕は狂ったように泣きじゃくった。
 外では相変わらず、闇夜の中を土砂降りの雨が滝のように降り注いでいた。


 意識が戻った時、僕はベッドの中にいた。頭を枕に預け、きちんと掛け布団も掛けられていて。ぼんやりした頭で昨日の事は夢だったのかと考える。まさか、亡霊のような出で立ちで土砂降りの夜を傘も持たずにふらつくなんてする訳がない。とそこまで思考が巡ったところで寝床がいつものベッドでない事に気付く。そしてこの匂いがシノノメさんと同じものであると分かった瞬間、だいぶ意識が鮮明になってきた。
 ベッドから降り、慌ててシノノメさんを探すが姿は見当たらない。夜が明け、昨日の雨が嘘のような快晴の空から差し込む日差しが部屋の中の絵画や骨董品を照らし出すだけだ。とりあえず辺りを見回して、恐らく替えの服と思わしき服に着替えると、併設された洗面台へと向かう。そこで目にした自分の顔の酷さにやはり昨晩の出来事が夢じゃないと思い知らされつつ、何とか表に出ても問題ない身だしなみにしていると、背後に気配を感じた。
「おはよう、気分はどう?」
 その声に思わず足が彼女の元へ向かう。既にドレス姿に着替えた美しい彼女はどこまでも美しく、凛としている。見慣れた彼女の姿が見えなくなるくらい駆け寄ってその体を抱きしめる。あれだけ醜態を晒した相手なんだから、今更羞恥心も何もない。
「フフッ、まだ甘えたい?」
「もう少しだけ、頼むよ。離れたらいつもの僕に戻っているからさ」
 実のところ、昨日の夜はそれどころじゃなくてシノノメさんの感触を堪能できていないのだ。どこまでも頭が回る中で実感するこの安心感と冷たさ。それでこそシノノメさんそのものだと確認する。
「うん、最高だ。シノノメさんも僕も」
「それなら結構デス」
 彼女から離れるのは名残惜しかったが、いつまでも抱きしめたままでもいられないし、僕も大分本調子に戻っていた。それで仕方なく彼女の腰に回していた両手を解くと、その直後に頬に唇の柔らかな感触を感じた。口にするのは大人になってから、と散々言われ続けているのを思い出して少し不機嫌になるが、今は悪くない気持ちの方が勝っていた。
「家に不法侵入した侵入者さん、朝食を食べたら見つからずに帰れる道を教えマス」
「そうだった……」
 どうやってここまで来たかを覚えていない僕がここから何事もなく帰るには、彼女を頼らないといけない。その後渡された食パンをかじりながら屋敷の外へ抜け出すルートを耳に入れ、帰る用意をする頃にはすっかり「本来の僕」に戻れていた。
「屋根からこの木に移るのは、まあウォルターくらいの運動神経があれば問題ないでショウ。昨日の雨で滑りやすくなっているのだけは気をつけて」
「うっ……まあ、頑張ってみるよ。ありがとう」
 ベランダから外に出るためのルートを確認し、シノノメさんを振り返る。大理石の肌に浮かぶ笑顔はいつもの余裕ある顔つきだ。
「……本当に、ありがとう」
 帰ったらまずは昨日の服を洗濯機にかけよう、それから僕をえらく心配していた同居人のドンにもう大丈夫だってところを見せて……。この国では珍しい雲一つない晴れた空の下、手を振ってベランダから飛び出した僕は、とびっきりの笑顔で彼女に応えて屋根に移った。

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ウォルターは少年にしては大人びたところもあるけれど、年相応に少年らしい部分もあるんだよって話でした。大分前から考えていたネタを出力!
家族がいないことをコンプレックスに思っているからこそ、シノノメさんへの執着心も人一倍というか、そんな奴です。将来絶対自分のものにしようと思っている。
そしてシノノメさんも今の家族にあまり心を開いてない状況だからこそ、ウォルターをより可愛がっているところがある。そういった面も合わせてマイナス×マイナス=プラスな二人です。
加えて梅雨は低気圧で気が滅入るなぁ……という気持ちを込めた。気圧に弱い人間です。

ところでこれクイーンの「Somebody to love」を下敷きに書きました?本当に最初の方だけで後は他の曲を聴きながら書いてましたね…… スティーヴ・ウィンウッドのHigher Loveとか。
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