戻れない昨日

 何もない部屋の中、聞こえてくるのは規則正しい機械音。ぱちりと目を開けて、瞳に映るのは何の変哲もないもない真っ白い天井だけ。――今まではそうだった。けれども、私の生活は彼女を召喚したその日から大きく変わった。
 ベットの脇に視線を送れば安楽椅子で気持ちよさそうに眠りこけている一人の騎士の姿。寝姿だけだととてもじゃないがかっこいい騎士様とは思えないが、その様子を見るだけで胸の奥がじんわりと暖かくなる。
 夢じゃなかったと毎朝目が覚めるたびに確かめては頬を緩ませた。それから、召喚をしてからは機械の補助がなくったって体がつらくないのがなにより嬉しくて嬉しくて仕方がない。こんな幸せなことがあるのかと思ったら、なんだったらスキップだってできそうだった。
 もう誰かに介助してもらわなくてもベッドを抜け出せる。壁を伝わなくても一人で歩ける。おしゃべりしたってもう苦しくない。
 私は忍び足でベッドを抜け出して、目的の位置につく。なんだか『悪いコト』をしているようで少しだけ胸が高鳴る。
 そして、がばっと勢いよく安楽椅子を揺らして、そこで眠る彼女を起こした。

「おはよ、モードレッド!起きて起きて!朝だよ!」
「……んぁ?もう朝、か?」

 寝ぼけ眼の彼女が小さく呟く言葉にそうよ、と微笑んで椅子の周りのくるくると回る。窓もない部屋で私を生かすためだけに張り巡らされたたくさんの管に絡めとられて、一人でベッドから体を起こすこともままならないまま一日を無為に過ごしていたあの日から彼女が来て私の世界が変わった。
 今まで何の色味もない味気もない真っ白な天井と同じだった世界に色がついて、本の中だけの知識が現実のものになって、私は望んでいたものを手に入れることができた。
 
「食堂へ行こう?私、お腹がすいたの!」
「あーもう。落ち着け、はしゃぐなっての。また調子に乗って食べ過ぎんなよ?」
「それはご飯が美味しいから仕方がないことだわ」

 ぐーっと音を立てて空腹を訴える自分の体すら愛おしく、椅子から起き上がった彼女の近くをうろちょろしていると部屋着の襟元を掴まれて、まるで子猫が親猫に咥えられるかのように吊し上げられてしまった。
 足がつかないくらいに引き上げられ首元が少しばかし苦しいので抗議の意を込めて、掴んでいる彼女の手をぺちぺちと叩いてみるがびくともしないので面白くない。このままだと死んじゃうぞーなんて茶化して大きな声を出したら、ぱっと手を離されて私は床へと投げ出された。
 きゃっと小さく悲鳴を上げる。急に手を離さなくてもいいじゃないかと文句を言うために顔を上げると、動揺して揺れ動くエメラルドに吸い込まれて私は何も言えなくなってしまった。
 リツカやマシュがレイシフトから帰ってきてから理由は分からないが時々モードレッドは悲しそうな瞳を私に向ける。受け入れがたいその瞳から私は目を逸らすことしかできなかった。


 足を擦りむいた。さっき床に膝をついたときに。
 血は出ていない。ひりひりするし、ちょっと痛いけれど自分で歩ける。それでも、彼女は私を抱きかかえると申し出てくれたので大人しくお願いすることにした。彼女なりに申し訳ないと思ったんだろう。
 モードレッドに抱きかかえられながら食堂まで行くことになった。彼女に抱きかかえられるのは好き。心臓の音を聞いていると落ち着く。暖かい手に触れられていると落ち着く。今の私は幸せ者だ。
 ぴったりとくっついておとなしくしているだけで得られる安心感は何物にも代えられないと思う。けれども、そう思っていても彼女のことを『お母さん』とは呼べない。というよりも、呼んではいけない気がして私は彼女のことをモードレッドと呼ぶ。
 彼女もあの一度だけ私のことをマスターと呼んだあとは『お前さん』とか『おい』とかぞんざいな呼び方をして名前を呼んでくれなくなったのが不満ではあるけれど、文句を言って険悪になることが嫌で黙っていた。
 食堂に入ると顔見知りの職員や物好きな英霊たちがみなジュニア、ジュニアと声をかけてくる。ずいぶん調子が良くなったね、と声をかけられて私もそれにつられて笑みがこぼれる。けれども、それに反比例するように彼女の機嫌が悪くなっているように感じた。
 
「……なぁ、聞いてもいいか」

 適当な席に私を座らせて、モードレッドが真剣な顔をしてその前に傅く。いつもみたいに私のおふざけに付き合うような雰囲気ではなく、ただ事ではないような空気感を察知して私は務めて平静を装い彼女を促した。

「お前さん、自分の名前を言えるか?」
「え?私の名前はジュニ……」
「違う!それを聞いてるんじゃない」

 何を言っているんだろうと、なんのきなしに応えると、モードレッドは食い気味に私の言葉を否定してがしっと肩を掴み、ゆすった。怖い。怖い。怖い。
 彼女は急にどうしてしまったんだろう。何か悪いことでもしてしまったのかと思案を巡らせるも浮かんでくるのは今朝の戯れのことくらいでこれと言って怒られる理由がない。
 サー・モードレッド・ジュニア、といつかの職員が私のことを呼んでいた。みんなみんな私のことをジュニアと呼んでくれていた。だから私はそれを名前だと思ってしまったのは仕方がないことだろう。だって誰も本当の名前のことなんて教えてくれなかったんだもの。知るはずがない。

「父親のことは?」
「……知らない。ただ髪が同じ、ピンクブロンドで……それから、えっと」

 その先の言葉は続かなかった。だって何も知らないんだもの。お父さんに関しては名前も容姿も何も分からない。そういえば誰に聞いても言葉を濁して教えてくれなかった。
 唯一知っている特徴だって、私の診るためにリツカとやってきた博士にしつこく聞きこんでようやく教えてもらったもので、と私の思考を止めるようにモードレッドが声を出した。

「……そうか。分かった。今のはもう、忘れろ」
 
 とても冷たい声だった。立ち上がり踵を返した彼女にすがりつくように伸ばした手は届かず、料理を取りに厨房の方へと一人向かって行くのをただ見送るしかない。
 今の問答は一体なんだったというのだろう。力強く掴まれた肩がじんじんと痛み出してきて私の心に影を落とした。


 朝からふざけて、はしゃいでいたから罰が当たったのかな。
 食事を終えた後、私に一人で戻れるだろ?と言って彼女はどこかへと行ってしまった。せっかくのおいしい料理もよく味が分からなかったし、デザートは横取りされるしついていないことばかりだ。
 一人で出歩けるようになったってここの施設には立ち入ってはいけない部屋が多くあって、私は暇を持て余して一人でふらふらと探検するように歩き回った。
 何して遊ぼう。リツカもマシュも見当たらないし、モードレッドもいない。職員たちは今日も変わらずお仕事に勤しんでいるだろう。
 ふと顔を上げると現在位置が分からなくなっていた。そもそもこの施設は同じような通路や扉がたくさんあってどこがとこなのか探索し始めたばかりの自分には判断がつかない。
 モードレッドを召喚するときに入った部屋はたまたま前にリツカと一緒に行ったことがあるから行けただけで、それ以外は食堂や司令室、いつもいる医務室など主要な部屋くらいしか分からない。これでは完全に迷子と同じだ。

「……そんなところでどうしたんだい?」

 人の気配なんてどこにもしなかったのに声をかけられた。恐る恐る振り返って見てもそこには誰もおらず真っ直ぐな廊下が続いている。
 今のは何だったのかと再び正面を向くと、スーツを着た誰かにぶつかって思わずぎゃあぁっと悲鳴を上げた。

「ああ!ごめん、ごめん。叫ばないで!怪我はない?」
「あの、えっと……ジキル、博士?」

 記憶の糸を手繰り寄せて急に目の前に現れた彼の名前を呼ぶとそうだよと私の前に跪いた。
 驚かせてごめんね、アサシンクラスだからと申し訳なさそうに言う博士に大丈夫だよ、と首を横に振って見せ迷子になったことを白状した。

「部屋まで送っていくよ」
「まだ戻りたくない……」

 今部屋に戻ってモードレッドに会ってもなんだか気まずいだけだから、なんて理由は言えないけれど博士の洋服をぎゅっと握ると困った顔をした彼は私の頭を撫でた。優しく梳くように頭を撫でられるのはなんだか心地よくて、僕の部屋にでも行こうかと言われると私は首を縦に振っていた。


 連れてこられたのは何もない部屋だった。デスクも本棚もソファも何もない、とても寂しい部屋。前までの自分の部屋と同じような殺風景に私は目を逸らす。部屋の主は私の変化を気にも留めず、ベッドに腰掛けるように促した。

「紅茶は飲めるかい?」
「……うんと甘くしてくれる?」

 彼はおおせのままに、と私のわがままを笑って許してくれた。今のモードレッドならなんて言っただろう。同じように許してくれたかな。私の頭の中はずっと彼女のことでいっぱいだ。

「それで、どうして迷子になっていたか教えてくれる?」

 紅茶を淹れた博士が私の隣に腰掛けて優しく話しかけてくる。ダディと同じくらい優しい声音で、それがなんだか心地よく感じてすらすらと言葉が出てきた。

「モードレッドから逃げてきたの」
「何か悪いことをしたのかい?」
「違う!私は何にもしてないわ……ただ、リツカたちが帰ってきてからモードレッドの様子がおかしくてね、悪いのはモードレッドの方!」

 そうだったんだね、と呟いたあと彼は難しい顔をして黙り込んだ。何か困らせるようなことを言ってしまったのだろうかと様子をちらりと窺うがその表情からは何も読み取れない。
 元々、モードレッドの気性が荒いというのはデータで知っていたし初めてあった日に嫌というほどやられたから分かっているんだけど、そういうことじゃなくて何か隠し事をされているような胸騒ぎがするの。それをなんとか伝えたいのだけれど、言葉が上手く出てこないのがもどかしい。

「おい!モヤシ!いるかぁ!?」

 乱暴に扉がノックされ、思わずビクリと肩を震わせる。自分のサーヴァントなのに悪しざまに言ったから怒りに来たんだろうかと隣にいる博士を不安げに見上げると、ふぅと困ったように息を吐いて、私にクローゼットの中に隠れているように指示を出す。かすかに動く彼の唇は『大丈夫』と言っているように見えた。

「――どうしたんだい?セイバー」

 彼は私がクローゼットの中に入ったのを確認して外にいるモードレッドに声をかけた。何事もないかのように部屋に彼女を招き入れる博士クローゼットの中からじっと見つめる。
 イライラした様子の彼女は今朝と同じ表情をし、そのまま博士の近くまで歩を進める。一触即発といった雰囲気に私はゴクリと唾を飲み込む。

「一発殴らせろ、ジキル」
「……え?まずは話を」
「言うことはねぇよ」

 モードレッドは言い終わらないうちに博士の横っ面を思いっきり殴り飛ばした。ひっ、と悲鳴が漏れそうになり私は口元を抑える。人ってあんなにキレイに吹っ飛ぶんだと思ったら恐ろしくて仕方がなかった。

「お前、なんで避けないんだよ……」
「……本当にいきなりだね」

 いたた、と吹っ飛んでいった眼鏡を拾い上げる博士の目には光が見えなかった。床に座り込んだまま起き上がろうともしない。モードレッドが言った通り博士はわざと殴られたんだ。
 でも、何故?モードレッドが殴りに来る理由も博士が殴られる理由も分からない。ただ他の英霊たちよりかは何か縁があって親しいように見えるのは元は同じ特異点にいたから?

「……ねぇ、どうしてモードレッドはそんなにイライラしているの?いや、違うね……悲しそうな顔をしているの?」
「オレは……!」
「マスターに話を聞いたの?だから僕のことを殴りに来たんでしょ」

 私には分からないモードレッドの表情の読取って、話をし始める二人をこっそりとクローゼットの間から眺め続けているけれど、本当に私はここにいていいんだろうかと疑問が浮かぶ。疑問に思ったところで今更ここを出ることは私には許されてはいないけれど。

「……、なんでお前はあいつのそばにいてやらなかったんだよ。名前すら呼んでやらねぇんだよ」

 あいつって一体誰なんだろう。
 低く、静かにモードレッドが呟くも博士は何も答えない。ただ自嘲気味にくくっと笑うだけで、少しだけその様子が気持ち悪く感じる。なんだかさっきと違う人みたい。

「あいつはお前の娘だろ!?」
「僕と君の、の間違いだろう?それを言うなら君だってそうだ。産むだけ産んだら座に還ったじゃないか」
「還りたくて還ったわけじゃねぇ!」

 あれ?もしかして、私の話をしているの?と聞き耳を立てる私の心臓の鼓動が早くなっていくのと同じようにモードレッドがどんどんヒートアップしていく。

「オレがどんな気持ちだったかお前に分かるか!?生まれたばかりのあいつを見てオレがっ」
「じゃあ、モードレッド。君も僕の気持ちを考えたことがあるの!?いつもそうだ!自分のことばっかりそうやって押し付けて!」

 売り言葉に買い言葉とはまさしくこういうことを言うのだろう。
 モードレッドが再びジキル博士を殴りつけようとワイシャツを掴んだところで私はもうやめて!と隠れていたクローゼットから飛び出して彼女に抱きついた。気性の荒い彼女のことだから、本気になれば私のことだって振りほどけたはずなのに彼女はそうはせず、代わりに博士の股ぐらを思い切り蹴飛ばしてしまった。
 声にならない声を上げて悶絶する博士とやめてと言ってもやめてくれないモードレッドが怖くて怖くて涙がとめどなく溢れていく。

「……もうやめて、ケンカはやめて。お願いよ、モードレッド」
「……子供の前でやることじゃなかったな、悪かった。こんな辛気臭せぇ部屋とっとと出て、帰るぞ」
 
 チッと舌打ちをしたモードレッドは足元に縋る私をさっきまで荒ぶっていたとは思えないほど優しく抱きかかえる。
 私は自分の出自をあれだけ調べてまわっていたのに自分の父親が誰かなんて気にしたことがなかった。そのくせどうせここの職員のうちの誰かかな程度にしか思っていなかった。ごめんなさい、博士。
 
「……あのね、モードレッド。これはただの言い訳で、過ぎた時間は戻らないし今更知ったところでどうしようもないことだけれど」

 部屋を出ようとしたところで博士がようやく口を開く。

「君がいなくなったのに君と考えた子供の名前を呼べるほど僕は強くなかったよ……ごめんね、×××」

 最後の方は聞き取れなかったし、私が口を開いてはいけない気がしてじっとモードレッドを見つめるがその視線すら何事もないと言わんばかりに彼女は何も言わず歩み続ける。無機質なこの廊下を進む彼女は一体何を考えているんだろう。ちっとも表情から読めやしない。
 結局私は『お父さん』が淹れた紅茶を一口も飲むことができなかった。
 


 




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