近づく二人

 ミンミンとうるさい蝉の声に耳を傾ける余裕がある。今日のようにプロデュースのない日は暇だ。
 いつも働きすぎだからたまには休みなさいと、みんなから与えられた時間を持て余しながら私は放課後の校舎を彷徨ってる。こういう時間のある時こそ、衣装作りに集中したいのに手芸部には鍵がかかっていたし、道場では鉄虎くんに今日はダメだと門前払いを食らってしまい大量の布地を持ったまま正しく私は行く宛もなく彷徨いながら頭を垂れていた。
 何してるんだろう。せっかくの夏の日の余暇なのだから、家に帰ってショッピングだってなんだって行けばよかったのに自分の時間の使い方の下手さに辟易しつつも、次の行く先を探して階段を上る。もはやクーラーが効いている部屋ならどこでもいいとさえ感じるくらいにはうんざりしていた。
 でも、こうして校舎の中ふらふらとしていたら先輩に会えるかもしれないし、なんて本音を心の内に隠し、うっすらと滲む汗を手の甲で拭う。階段を上りきると突如廊下に叫び声にも似た声が響き渡り私はピタリと足を止めた。

「騙されたぁぁああああああ!?」

 びくつきながら今のは何だったのか、と廊下をキョロキョロと見渡すも人影は見えない。たぶん演劇部の部室から聞こえてきたから友也くんだとは思う。それにしても、今日の声は一際大きかったけど一体何があったんだろう。
 恐る恐る廊下の奥へと進むと半開きになっていたドアの向こうから勢い良く人が出てきて、思わずヒッと引き攣った声と共に手に持っていた布地をばら撒いてしまった。心臓に悪いから驚かさないで欲しい、という言葉も出せず私はそれを見つめて呆然とする。
 一体何が起きているのか、こんがらがった頭ではとてもじゃないが理解できない。私の頭はそんなに要領よくはできていないのだ。

『友也……そんなに慌てなくても』
「北斗先輩の声で喋るなぁあああ!! 覚えてろよ!」

 そして、私を驚かした張本人は部屋の中にいるらしい北斗くん? に暴言を吐いて、私に見向きもせずに走り去っていってしまった。怖いもの見たさでここまできたけれど、本当に中を覗いてしまっても良いのだろうかという疑念がチラリと顔を出す。
 日々樹先輩が何かしているだけかもしれないけれど、私が見ても良いものなんだろうか。散らばった布地を拾い集めながらゆっくりと思考を整理していくと頭上から楽しそうな声が降ってきた。
 あ。見上げた先の夜空を呈したような瞳とパチリと目が合うと、少しだけ申し訳なさそうにその瞳が曇ってしまった。さっきまであんなに楽しそうにしていたのに、私が何か悪いことをしてしまったのかと急な変化について行くことができずにあたふたしてしまい、先輩を困らせてしまうのが情けない。

「あんずさん。うちの友也くんがご迷惑をかけたようですね。良ければ、少し寄って行きませんか?」

 お詫びとおもてなしをさせてください。散らばった布地に一緒に拾い集めるように膝をついた彼の視線が私と同じ高さまで下がり、そう静かに微笑みかけてきた。
 布地をばら撒いたのは私なのだから、先輩がわざわざ拾ってくれることもないと制しても優しく手を止められてしまう。飄々とした普段の先輩からは想像できない真面目な部分に私はそれ以上は何も言うことが出来なかった。
 部室の中はどこかホッとする匂いに包まれていた。ソファに座るように促されて、柔らかなクッションに腰を預ける。淹れてもらったばかりの紅茶の匂いとどこからともなく出てきたクッキーやマカロンと言ったお菓子の甘い香りが私の鼻孔を満たす。心地よい温度に保たれた部室はさっきまでいた廊下とは大違いだった。
 小脇に置いた布地を気にかけながら部屋の中をチラリと伺う。さっき北斗くんの声が聞こえたのは気のせいだったようだ。みんなが休めと言うのはそういうことなんだろうか、眉根の寄せて目の前の紅茶に視線を落とす。

「おやおや、どうしたんです?」
「えっと……」
「北斗くんでも探していたんですか?ああ、でも残念。さっきのは私の声帯模写なので本物の北斗くんはここにはいません☆」

 ふふふ、と楽しそうに笑う先輩を横目に声帯模写とはなんだったかと首を傾げた。確か、日々樹先輩の特技だと聞いたことがあるような、ないような気がする。
 それって誰でも真似できるものなのだろうか、と少し邪な考えがチラついて思いっきり頭を振った。
 イケない。非常によろしくない。
 蓮巳先輩の真似とかもできるのかな、なんて、そんな恐れ多いこと思ってしまった。しかも日々樹先輩の前で。

『――おい、俺を呼んだか』
「ひゃっ!?」
「ひゃっ、とはあんまりですねぇ……せっかくあんずさんの心の中を覗いて右手の人の真似をしたというのに。嬉しくありませんでしたか?」
「お、お願いはしていません……」

 私はあまりの恥ずかしさに消え入りそうな声で必死に手を振って否定すると、先輩は大袈裟な動作で首をすくめて溜め息をつく。そして私の唇にトンと人差し指を置いて、まるで暗示をかけるかのように素直になるべき場所を見誤るべきではないと優しく囁きかけてきた。
 私の素直になるべきところっていったいどこなんだろう、と考えるよりも先に口先はかすかに動いていた。蓮巳先輩の声で、私の名前を、と漏らしてしまった私に大仰に頷いた彼は私の前でかしずく。

「おやおや。それでこそやりがいがあるというものです!いいでしょう、親愛なるあんずさんのためにこの日々樹渉がご覧に入れて差し上げましょう……☆」

 大袈裟な口上なんて気にならないくらい、私はすでに彼のトリコになっていた。
 あの人の凛とした低い声で名前を呼んでもらうなんて、そんな未来はきっとこの先訪れない。普通にしていたって話す機会すらないのだから、こんな夢くらい見たって罰は当たらないよね? と誰に言うわけでもなく自分自身に言い訳をして目の前の日々樹先輩をじっと見つめる。

『――あんず』
「はい」
『よくやったな』

 目の前にいるのは日々樹先輩のはずなのに、蓮巳先輩が目を細めて労ってくれているような錯覚に陥る。実際には触れられてすらいないのにあの大きな手で頭を撫でられているような安心感もある。たった一言二言なのに私は彼の演技に引き込まれてしまった。
 気分を良くした先輩はコホンと咳払いを一つして、さらに言葉を紡ぐ。

『この間の企画の件だが、お前にしては善戦していた。本当によくやっていた……だが、詰めが甘い』
「……え?」
『あそこはもっとルールを噛み砕いた方が観客にも理解しやすくなるだろう。それから物販のことだが、業者選びが――』
「ちょっと待ってください!」
『ええい!語らせろ。俺の話を聞け』
「いいから一回ストップです!」

 名前を呼ばれただけで蕩けそうになっていた脳をなんとか押しとどめて、キッと先輩を睨み付ける。名前を呼ばれるだけだと思ったのにまさかお説教までされるとは思っていなかった。まだまだ何か言いたそうな先輩の表情がどこか蓮巳先輩の表情とかぶって見えて、私はまるで催眠術でもかけられたかのようにふわふわしている頭を振る。
 騙されちゃダメ、どんなに声が似ていても目の前にいるのは日々樹先輩であって蓮巳先輩ではないのだ。あやうくその前提条件すらキレイに忘れてしまうところだったとぎゅっと奥歯を噛みしめる。いや、でも名前を呼んでもらうなんて貴重な体験をしたのは事実だし、と考え始めたらそれ以上強く彼を止めることができなかった。

「おい、何の茶番だ」
「……おやぁ?覗き見ですか、右手の人」
「違う」

 びくっと肩が跳ねた。今、聞こえてはならない人の声が聞こえてきた気がする。どことなくピリピリした神経質そうな声の主を私は振り返って確かめることができない。
 トントンと聞こえていた足音も私のすぐそばで止まった。――これは、怒られる。
 声を聞けるのなら怒られるのもやぶさかではない、なんて奇特な思考はずいぶん前に捨て去っていた私はただただ死刑宣告を待つ囚人のように体を縮こまらせた。一度怒られると日が暮れるまでずっと怒られたままでほかのことが出来なくなってしまうと学習したのは何か月前の話だっただろう。ああ、余計なことを願ったばっかりに自分の寿命を縮めてしまった気がする。

「まあまあ、そんな怖い顔をしていてもダメですよ。煎茶でもお淹れいたしましょうか?」
「いらん。茶は好きだがこの時期に急須で淹れた煎茶なんてなんのいやがらせだ……」

 苦虫を噛み潰したように険しい顔をしたままの蓮巳先輩相手に日々樹先輩は自由に髪の毛を動かしながら、戸棚の中から湯呑みを探している。だから、いらんと言っているだろうと先輩は怒られてもどこ吹く風。
 そして彼は思い出したかのように私の側へ来て『良かったですね、本物ですよ。たくさん声を聞かせてもらっては?』とこっそり耳元で囁くものだから私の心臓は急にうるさくなってしまった。それを意識して真っ赤になってしまった顔を隠すように俯いて、私は静かに息を吐いた。日々樹先輩は意地悪だ。
 探し当てた湯呑みにお茶を注いだ先輩はそれを片手に私の反応を楽しむようにニヤニヤと笑う。その顔はまるで正直ではないですね、と言っているようで居心地が悪かった。

「待て、日々樹。貴様どこへ行くつもりだ」
「野暮用を片付けに〜。あ、部室はどうぞご自由にお使いください……では☆」

 ひとしきり私のことをからかった日々樹先輩はどこからともなく取り出したバラの花びらを散らして一歩、また一歩と扉の方へ向かって後退る。目ざとい蓮巳先輩に睨まれてもお構い無しで、私は散らされたそれと一緒にその場に取り残されてしまった。
 耳年増な私の中の一部が憧れの先輩と部室で二人きりなんて! と甲高い声でキャーキャー言っているというのに、実際にはどうしたらいいのかも分からず押し黙っているなんてもったいないにもほどがある。
 沈黙が重くて、苦しい。けれど、そんな沈黙を破ってくれたのは蓮巳先輩だった。

「……あんず、あまり遅くならないうちに帰れ。今日はプロデュースがないということは英智から聞いている」

 私は目を見開いて、先輩の顔を見上げる。そんなわけないと、名前を呼ばれたのはきっと聞き間違いだろうと、自分に自信が持てなかった。
 だから、私はもう一度だけ先輩にお願いした。さっきの言葉をもう一度、と。

「……早く帰れ。今日はプロデュースがないんだろう?」
「それじゃなくて! あの……」

 私の発言を訝しみながらも、言葉を紡ぐ彼を促す。私が先輩に呼んでほしいのは、私の名前。それだというのに彼は何かに気がついたかのようにバツの悪そうな顔をした。
 もしかして、嫌だったのかな。私が柄にもない変なことを言ってしまったから、困らせてしまったのかもしれない。ポツンと零れた感情が意識の水面を波立てせてなんだか、心の奥がざわざわして落ち着かなくなる。先輩はその間に視線を彷徨わせて、用意されていたお茶を一口で飲み切り静かに湯呑をテーブルの上に置いていた。

「……もう、呼ばん」
「本当に、ですか?」
「……うるさい」

 項垂れた蓮巳先輩の髪の間からちらりと見えた赤い耳殻を目の端で捉えて私も恥ずかしくなってしまい、それ以上何も言うことが出来なくなってしまった。
 私の顔が赤くなってしまったのも、先輩の耳が赤いのもきっとこれは、夏のせい。ああ、今日は蝉の声がうるさい。






[mokuji]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -