非日常

 こんなことするなんて、驚きましたか?
 二人きりのリビングで不意に降ってきた言葉を飲み込むように、私は口元を両手で覆い隠す。こんなときどういう顔をして、なんて返すのが正解なのかショートした思考回路では何も思い浮かばなかった。
 くちびるとくちびるが重なった。文章にでもしてしまえば、ただそれだけのことなのに実際には壮大な物語でも書けてしまうのではないだろうかと思うような突飛な出来事だった。この状況を作り上げた肝心の紬さんは何事もないように、優しく微笑んだまま私の側から離れようとしない。
 私があの国民的アニメのキャラクターならこの働かない頭を某おじさんにポーンと交換してもらいたくなっているに違いない。ああ、でも、どうせ交換してもらうならアンコじゃなくて中身はカレーがいいな、なんて考えている場合ではない。

「……うん。カントクが何を考えているか、当てましょうか」
「へっ!?」
「カレーのことですよね。……あ、やっぱり。どうして分かるんですかって顔してます」

 紬さんは困ったように笑いながら目を細めた。
 現実逃避から熱々のカレーが詰まったカレーパンに思いを馳せていた状況をスバリと言い当てられた私は目を大きく見開くしかない。どうしてバレてしまったんだろう。口には出していなかったと思うのだけれど、カレーのことだと少し自信がない。

「平常心を保つために自分が落ち着くことを考えたのかなって。そうしたらカレーって答えに行き着くのはカントクの場合、自然の摂理というか別に心理学とか関係ないというか。ああ、でもキスしたのに何も思われていないっていう可能性もありましたね……」

 口角を少し下げて、紬さんは残念そうにそう続けた。
 キス。
 ……そうだ、彼は私にキスをした。
 忘れようと必死に頭の奥へと追いやっても混ぜっ返される度に恥ずかしさで穴があれば入りたい気分になる。どうして、紬さんはこんなことをしたのか皆目見当もつかない。
 普段の大人で落ち着いた雰囲気の紬さんはいない。今、目の前にいるのは目の奥をギラつかせた男の人。もしかしたら、私の知っている紬さんではないのかもしれない。
 そんな彼から静かに目を逸らそうとするとすっと伸びできた右手によって遮られてしまう。目を離さないで、まるでそう言われているような気がして私は何も言えなくなった。

「本当に、カントクは……」

 逸らすことも出来なくなった瞳でじっと見つめると何かを言いかけた紬さんが口をつぐんだ。伏せられた長いまつげはとても美しく、こんなことでもなければじっくり見ることも叶わなかったに違いない。
 ああ、紬さんに触れられている頬が熱い。意識すればするほど体が火照り、なんだかイケナイことをしているような妙な気分になって小さく頭を振った。

「――悪い人ですね。そんなに物欲しそうな顔して」 
「そんなのこと……っ」

 悪い人。別にそのままの意味ではないだろうけど、それより問題なのは物欲しそうな顔と言われたことだ。私は一体、紬さんをどんな顔をして見ていたんだろう、と思い返すと顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなった。
 紬さんは空いていたもう片方の手で私の髪の毛を弄びながら、再び困ったような表情を浮かべる。私も私で咄嗟に言い返してみたものの沈黙が流れるとどうしたらいいのか分からなくなった。

「俺の一挙手一投足にそうやって反応してくれるのが、たまらなく嬉しいです。ねぇ、カントク……俺が知らない顔、もっと見せて」
「紬さん……?」

 じっと真っ直ぐに見つめられて、彼の優しいくちびるが近づいてきた。
 あ、キスされるんだと思った矢先、ガチャリと鍵が開く音がした。まるでその先を期待してしまった私を嘲るように背後で扉が開く音がしてどきりと心臓が跳ねる。紬さんと、団員と、こんなに近い監督なんてイケナイとなけなしの理性が彼を必死に押し退けて、なんとか数歩後ずさることができた。
 そんな私にこのまま有耶無耶にはしないと強い意志の篭った瞳で微笑みかける紬さんは、きっと間の悪い誰かのことなんて考えていないのだ。私はそれには応えることが出来ず背を向ける。うるさいままの胸を押さえ、何食わぬ顔で帰ってきた誰かを精一杯の『おかえり』で迎えた。

「……続きはまた今度」

 ぼそりと聞こえた言葉はきっと気のせい。振り返ったそこに紬さんはもういなかった。



[mokuji]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -