酸いも甘いも

 キスさせて。
 短い言葉だったけれど、私は意味を理解できず首を傾げる。キス、キス、キス……一体なんだっけ。いつも真澄くんに言われ続けてるのを流れるように躱していたら、それがどんな行為だったか咄嗟に出てこなかった。

「ダメなの?」

 私の部屋に来ていた幸くんにじっと見つめられて、ダメじゃないけどとたじろぐ。あまり即物的なものを求めない子だと思っていただけに驚きはしたけれど、年頃の男の子なんだなと頬が緩んだ。
 それ以上のことをしようと言われたのなら、年上としても彼女としても止めるつもりだけれど、キスくらいなら可愛いものだ。もっとも、今幸くんがやってる宿題が終わってからの話だと言おうとした矢先に柔らかなくちびるが私の口を塞いだ。

「……んッ!?」

 ちゅっとリップノイズが私の鼓膜を震わせる。
 触れては離れを繰り返す、ついばむようなキスに目を丸くする。私には何が起きたのか分からなかった。

「ねえ、もっと」

 ぼんやりとした頭でも分かるように私の目を見て彼はそう言った。
 コクリと頷いてしまった私の顎を彼の華奢な指に捉えられ、再びくちびるが触れる。時折聞こえる粘着質な水音を目を閉じてやり過ごすのはかなり恥ずかった。
 幸くんに優しく触れられたくちびるの熱が冷めない。ただのキスだと思っていた。深い意味なんてない、ただのスキンシップの延長線上なんだって。でも、違う。やがて体中が熱を帯びてその時に気付いたってもう遅い。
 彼は男の子なんて可愛いものじゃなく一人の男で、私は――どうしようもなく女だった。

「……なんて顔してるの」

 お互いの顔を離して、耳まで赤くなったであろう顔を逸らすといつもの不機嫌そうな声とは違う、少し不安そうな声が聞こえてきた。ただのキスだと高をくくっていた私はその足元を崩されて真っ直ぐ彼を見ることができないだけなのに、何をしているんだろう。
 年の差なんて関係なかった。彼はちゃんと私の恋人だったのに、私にはその覚悟がなかった。

「…………嫌だった、とか?」
「そんなことない!」

 遠慮がちに続けられる言葉を顔を上げて即座に否定する。嫌なわけがない。嫌だったら最初から拒絶している。
 交わりあった視線の先の少しだけ潤んだ夕焼け色の瞳から私は目を離せなくなった。


***


 今日も椋が妄想世界にトリップした。
 少女漫画片手にこのシーンのこのシチュエーションがいい、だとかそういう話を嬉々として俺たちに語る。別に語る分には構わない。よく知りもしない他人の趣味に口を挟むようなこともしたくなかったし、聞いている人がいるという状況がいいんだろうと勝手に思ってた。
 手元の手芸用品のカタログに目を落としながら、ふーんとかそうなんだって相槌だけは忘れずに打つ。一成はちゃんと聞いてるみたいで、よく椋についていけるなって正直感心した。

「幸くんは初キスに憧れとかある?ボクはこの『どき☆らぶ』の三巻のようやくくっついた主人公たちみたいに放課後の学校でとか憧れるな
「えっ、ちょっと」

 不意に名前を呼ばれて持っていたカタログを落としそうになる。キスのシチュエーションなんて考えたことなかった。

「あ!でも『ヤンキーと私』の一巻最後の人前で女の子の顔を押さえ込んでキスするのも捨てがたい〜あ〜〜」

 なんて巻き込むだけ巻き込んでおいて、もう聞いてない。
 いつものことと言えばいつものことだけれど、そんなに目をキラキラさせて語るようなことなのかと疑問を投げ返してみたくなる。
 オレにも好きな人が出来た。買い物に行ったり、勉強教えてもらったり充実はしている。だからこそ、今すぐにその先に進む必要があるのか分からなかった。
 キスをしたら、その先は?人間は貪欲な生き物だからきっとキスをしたらその先へその先へと進みたくなるだろう。たぶんオレも例には漏れないと思う。だから少しだけ怖い。

「初恋とか初キスとかなんかいいよね〜」
「そうかぁ?」 
「甘酸っぱい思い出とかテンテンにはないの?」
「そんなもん……ない」


 楽しそうに笑う一成にいつもだったら見栄を張る天馬が声を落として言い返す。仕事仕事で恋愛なんてロクにして来なかったんだろうことは容易に想像がつくけど、こんなに素直だと明日は雪でも降るんじゃないの。
 どっちにしろオレは無関係だと決め込み、繰り広げられる会話に耳だけ挟んで再びカタログをめくるために指を滑らせた。


「初恋はカルピスの味!って本当なのかな〜」
「それ、甘酸っぱいを言い換えただけだろ!?」


 初恋だけど甘酸っぱい思いなんてしたことあったっけ、と頭の奥の記憶を引っ張りだしても該当するような記憶はない。年上のクセに肝心なところで抜けてたり、可愛いところはあるけど基本的に思い出はカレー風味で補正がかかっている気がしてきた。
 このまま行くと初キスまでカレー風味なんてこともありえるから、それだけは何としても阻止したいと決意する。それをできるのはオレと夕食当番だけだ。


「やっぱり王道だけど、シンデレラみたいに王子様が眠れるお姫様にキスをして起こすのも捨てがたい〜」


 また続くんだ……、とは言わずに椋の言葉を聞き流す。やっぱり思ったけど、シチュエーションも何もキスくらいしたいときにすればいいじゃん。いろいろ考えたけどバカみたい。
 そしてカタログの内容は一切頭に入らなかった。


***


 体の奥は火照ったまま、年上の矜持なんてかなぐり捨てて目の前の幸くんにぶつかって行くくらいの気でいないと飲み込まれちゃう。恥ずかしいとか、今はそんなこと言ってる場合じゃなくてもっと伝えなきゃならない大事なことがある。
 私はぎゅっと引き結んでいたくちびるを解いて、喉元に留まっていた言葉を口に出した。

「……幸くんにキスされて、ドキドキした。体中熱くなって心臓が壊れそうなくらい。初キスしたいなんて可愛いなってお姉さんぶろうとしたけど、出来なかった……」
「……じゃあもう一回しとく?」

 思いがけない返事にマヌケな声が漏れる。
 潤んでいたはずの瞳はいつしか獲物を前にした獣のようにぎらついていて、目の前の彼が本当に幸くんなのか分からなくなってきた。
 ただ言えるのは、間違いなく今の言葉は彼を煽ったということ。間違えたと思っても期待して熱を持ったままの体はお構いなしに彼を求めてしまう。

「今度はそんな余裕与えないから。何も考えないで受け止めて」

 待って、と言い終わる前に少し乱暴なキスが降ってきた。余裕がないのは彼も同じなんだと気がついたのはもう少しあとのこと。
 肩に手をかけられてゆっくりと押し倒される。ああ、きっと、これは甘酸っぱい優しいだけのキスだけじゃ終わらない。



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