ハネムーン症候群

 チュンチュンと遠く聞こえる小鳥のさえずりで俺はぱちりと目を覚ます。いつもの休日なら小鳥のさえずりなんて些細な物音で起きたりしないのに珍しいことがあるものだ。もっともそれはいづみのせいだろうけど、と人の腕を枕にして眠る彼女の頬をぷにっとつつく。
 ぷにぷにとそのまま柔らかい頬を大の男がつついているところを誰かに見られれば当然のごとく引かれるだろうがそこはよかった、一人部屋で。とまぁ、気が済むまで頬をつついたが彼女は起きる素振りを見せない。
 別に昨日は仲良く運動なんてせず、大人しく寝たはずなのになんだか自分一人だけが目を覚ましている状況が面白くなくて時折聞こえる寝言にムッとする。しかしすぐに別にいいやと思考を切り替えた。いづみが起きないのならソシャゲの体力を消費しようと枕元に充電器に挿したまま転がしておいたスマホに手を伸ばそうとしたとき何とも言えない違和感が俺を襲った。
 そんなバカなことがあるかと、顔が強張る。もう一度手を動かしてみようとするも指すら動かず焦りが生まれる。まずい、このままだと――ソシャゲの体力が漏れる。

「起きて、いづみ」

 素早く脳内会議を終えて、腕の中ですやすやと眠る彼女を呼びかけてみるも返事はない。このままだとやばいのはソシャゲの体力ではなく間違いなく俺の腕の方だ。最悪、腕が一本イッてるもしれない。

「いーづーみー、マジで起きて」
「う、うぅん……まだ、早いですよ……?」
「腕の感覚ないから、割とガチで退けて」

 焦りを帯びた声音と共にいづみを揺り起こすとボンヤリと目を開けた彼女がジーッと俺を見つめていた。ああ、俺の嫁可愛い。でも今はそんなことをしている場合じゃない。


「んん……こうですか?」
「そう。いい子」

 ゆっくりと持ち上げてくれた頭の下から感覚のない腕を抜くとちゃんと繋がっていたのでとりあえずは一安心。けれども原因不明の腕の麻痺は残ったままでヒーラーがいればいいのに、とか何かしらを調合したらパナシーアボトル出来るんじゃね?もしくはエリクシール、なんて少し現実から目を背けたくなった。
 

***


『【悲報】たるち左手負傷』
『>>イベ走れないねー』
『>>オツww』
『いやいや、ランキングは目指すしw』
『>>さすが、たるちww』

 翌日、仕事を早めに切り上げて帰ってきた俺はSNSに一言二言そう呟いてスマホをデスクに置いた。そして痺れたまま動かない左手に視線を落とす。
 ねえ、ハネムーン症候群って聞いたことある?別に結婚した二人が蜜月で離れたくないとか旅行から帰りたくなくて憂鬱な気分とかそういう類ではなく、正直なんのことか分からないよね。俺も初見。今知ったとこ。正式には橈骨神経麻痺って言ってよくある寝落ちして腕痺れたーって萎えるやつ、なんて昨日当番病院で言われた内容をそのままSNSには書けなかった。そこまで書けば目敏い万里や一成に何を言われるか想像しただけでも面倒くさい。
 そもそも可愛い嫁と仲良く眠っていただけなのになぜこんな目に遭わなくてはならないのかとやり場のない怒りがこみ上げてくる。会社でも女子社員に『怪我ですか!?何かあったら言ってください!お手伝いします』なんてきゃーきゃーといらない好意を押し売りされてゲンナリした。普段であればこの手のフラストレーションは万里をコテンパンにすることで発散していたのにそれすらも出来ず、俺のメンタルはストレスでどんどんヤツレていった。
 ふと、チカチカ点滅してするスマホの画面に視線を戻すと『ざまぁww1位もらってきまー』というクソ生意気な万里もといNEOからきたメッセージが表示されていて余計にイライラが募った。完治したら覚えてろ、クソガキ。

「……月夜ばかりと思うなよ」

 俺は欲張りでことゲームにおいては負けず嫌いなのだ。舌打ちをしつつそんな風に恨み言を呟いているとコンコンと軽いノックが聞こえて思わずドアの方へ視線を投げる。いつもであれば、この時間はヘッドホンをしてソシャゲをしているからノックには気づかなかっただろう。

「至さん、私です。入ってもいいですか」
「どーぞ」

 ドアの外から聞こえる聞き慣れた声を確認して部屋へ招き入れるとその手にはいづみの手作りと思われる夕飯が乗っていた。それを見て一拍置いた後、俺はなんで?と首を傾げる。夕飯であれば、そろそろ食べに行こうかと思っていたから持ってきてもらえるのは、ありがたいと言えばありがたいのだがどういう風の吹き回しだろう。

「あの!その、至さんは私のせいで怪我をしてしまったのでお手伝いをしようかと……」
「マジか」

 さすが俺の嫁。健気すぎか。
 これがエロゲなら、そーゆー手伝いをしてもらうのに現実だからなーと頭の端で考える。正直負傷して動かないのは利き腕じゃないからご飯を食べるくらいならワケないが、ここは黙っておくのが吉だろうと俺は口をつぐんだ。
 静かにテーブルの上に置かれたカレーを見て肩を落とすのは俺だけではないだろう。カレーは当分遠慮したいところだが、カレーといえばスプーン。スプーンといえばあれがある。
 この状況ならいづみは間違いなくあれをやる。メイド喫茶ではお目にかかれない類、どっちかと言えば母親が子供にご飯を食べさせるときの伝家の宝刀!とポーカーフェイスのままひとしきり実況すると少し恥ずかしそうにしたいづみが俺を見ていた。

「い、至さん。それでは、失礼して……ふぅふぅ……あーん」
「んんん」
「ちょっと、なんで笑うんですか!」

 想像していたことを寸分違わず実行してくれるいづみに言葉が出なかった。これは萌える。幸せすぎると俺は顔を覆った。
 これにメイド服着てたらマジで最高だ。クソ……今からでもア○ゾンでポチるか?とパソコンを横目で見るが遠い。
 でも、実際の『あーん』はやられるとこっちまで恥ずしくなってくる諸刃の剣ということが分かった。次からは心の準備をしないと間違いなくやられる。

「もう……早く食べてください……」
「……うん。いただきます」

 気恥ずかしさで部屋の中が包まれる前に再び『あーん』と近づけられたスプーンに顔を寄せた。ここに住むようになって嗅ぎなれたスパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。いつも気分で調合しているらしいが味だけは確かだった。
 今、口内に運び入れたそのカレーが甘く感じるのはきっとこの雰囲気のおかげだろう。不便なことこの上ないが、腕が動かなくてもこの二人きりの時間が続くのならそれでもいい、そんな気がした。

 



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