恋に焦がれて

 今年もこの季節がやってきた。そう、バレンタイン。世間では男の子が意中の女の子からチョコをもらえるかどうかで一喜一憂するイベント。
 けれども一喜一憂するのは男の子だけではない。あげる女の子だってもらってくれるだろうか、おいしいと言ってもらえるだろうかと頭を悩ませる行事なのだ。それに今年は彼氏ができて初めてのバレンタインということもあって、余計に自分の中でバレンタインのハードルが上がっていた。
 きっと彼のことだから、何をあげても喜んでくれると思うけれど直接反応を見るまではやはり安心できない。買いそろえた材料を目の前にして、まるで強敵と戦うヒーローにでもなった心地がした。

 バレンタインの前日。ショコラフェスの準備も佳境を迎えていた。
 プロデュース科にも新入生が入って、私にかかる負担はだいぶ少なくなってありがたいことに楽をさせてもらっている。ただ、周りが慌ただしくしているところを見ると自分も何かしたくなるのだが周りはそれを許してくれず、結局行く当てもなく調理スペースで一人でクッキーの生地をこねていた。
 手持無沙汰なのが落ち着かない。仕事がほしい。そんな不満をクッキーの生地にぶつけていく。
 こんな姿は後輩たちにも同級生たちにも見られたくないので、人がいないのが救いかもしれない。去年はアイドル達が手作りでチョコ類を用意していたからこの時期はここには常に人がいたが今年からは業者に頼むことにしたから誰もいない。
 衛生面から考えてもその方が良いのは明らかだけれど、自分が逆の立場だとしたら?と思わず考え込んでしまう。貰えるなら、好きなアイドルの手作りがいい。――彼氏ができて、私は少し欲張りになったみたいだ。

「……あれ?あんずさん?」

 つい先ほどまで誰もいない一人きりのスペースだと思っていたのに不意に話しかけられて肩が跳ねる。さっきまでの妄想で緩んだ顔を引き締めて振り返ると、どこか不機嫌そうな顔をした翠くんが私の近くまで歩み寄ってきていた。
 そんな彼にどうしたの、と声をかける前に絶望を滲ませた声音が私の鼓膜を振るわせる。

「……今年もみんなに手作りのプレゼントするんですか?」
「あー、うん。そのつもりでいるよ。当日は忙しいだろうし、クッキーとかにしてご自由にどうぞってする予定だけど」

 事も無げに答えると、私の手元に広げられたクッキーの生地を見下ろした彼がむぅと不満気に口を尖らせる。他の人にもあげるつもりだと答えただけで翠くんの綺麗に整った顔があからさまに歪んだ。
 なんで、どうして、なんて声には出さないけれど全部彼の顔に書いてある。そういうところは本当にブレないなと感心してしまうくらいに、それはもうハッキリと。

「……それ全部俺がもらってもいい?」
「みんなにあげる分って言ったでしょ?」

 溜め息をひとつついて、むくれたまま予想通りの発言をした彼の頬を軽くつつく。それでも納得はしてくれないようで「鬱だ……」なんて分かりやすく凹むのをいなすのも付き合っているうちに慣れてしまった。
 この程度のことにいちいちヤキモチをやかれてはやりづらいのも本音で、どうしたものかと頭を悩ませる。

「……分かった。そうしたら他の人にあげるやつの中に翠くんにあげるつもりだったチョコも混ぜておくことにするね。手渡しじゃなくてご自由にって。取りに来るのが遅いと他の人が持って行っちゃうかも知れないから大変だね?」
「ちょ!?え、あの、その……それはっ」

 私の突き放すような態度の変化についてこれなかったらしい翠くんが慌てて縋るように私の表情を伺う。その様子がどこか愛おしく感じて、調理用の手袋を外して彼の頭をよしよしと撫でてあげると意気消沈して大人しくなった彼はへなへなとその場にしゃがみこんでしまった。
 やりすぎてしまっただろうかと、意地悪なことを言ってしまったことを反省しつつ、慰めるように彼の髪を再び撫でた。

「もう。それが嫌なら最初からヤキモチやかないの」
「だって……」

 落ち込む彼を呆れたように軽く叱りつけると、翠くんは不満を口に出そうとしたようだがすぐに口を閉ざして何か言いたそうに上目遣いで私を見つめていた。普段、見上げることの多い彼がしゃがみこんで見上げてくるものだから、キュンっと心の奥が締め付けられる。
 こうやって甘えられるとヤキモチをやいてワガママを言う彼を許してしまいそうになる。ここは心を鬼にしなくてはいけないというのに心が揺れ動く。

「あんずさん、どこにも行かないっすよね……?」

 スカートの裾をぎゅっと握った翠くんがボソリと呟いた言葉に私の理性がガラガラと音を立てて崩れた。これで許さなければ、私は本当の鬼になってしまう、そんな気がして。

「ちょっと、待ってて……」

 大きな彼を抱きしめてしまいたい欲求をぐっと押さえ込んで、スカートの裾を握り決める指を優しく解いていく。
 冷蔵庫にものを取りに行くだけなのに不安で翳った瞳を向ける彼を安心させるように微笑みかける。こっそり冷蔵庫の奥の方に入れておいた小箱を取り出して翠くんの元へ戻り、同じようにしゃがみこんで視線を合わせた。
 喜んで欲しいと思いながら作ったそれを小箱の中から取り出して翠くんの目の前に差し出すと深い水底に沈んでいた瞳に光が差したのが分かった。

「これ……俺に?」
「そう。翠くんにあげるためだけに作ったんだよ」
「オレンジのチョコがけ……」

 オレンジコンフィだよ、と心の中で訂正しつつ翠くんに口を開けるように促す。おずおずと開けてくれたそこにそれを差し出すと彼はパクっと一口で収め、味を確かめるようにもぐもぐと口を動かし始めた。
 じっと見つめてごくんと呑み込んだのを確認して味の感想を今かと今かと待っていたのに予想を裏切るように翠くんは薄く笑う。その仕草にドキッと心臓が跳ね、私は思わず赤くなった顔を逸らす。
 そんな私のことなんてお構いなしに、彼は先ほどまでオレンジコンフィを持っていた私の手を掴み取り、その人差し指をあむっと咥えて舌先で撫でまわす。
 溶け残ったチョコの味でもするのか美味しそうに指に吸い付くものだから、恥ずかしくなって彼の顔をちっとも見ることができない。

「……んっ」
「美味かったです。ごちそうさま、あんずさん」

 チュッ、と甘く響くリップ音。
 やられたと思った時には既に遅く、すっかり形勢逆転を果たした彼は満足そうに私の耳元で囁いてキスを落として微笑んでいた。








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