その花は

 ディートリヒ・ベルク元帥閣下が船を降りた。
 別段それはおかしな話ではない。補給時に立ち寄ったドッグでフラリとお一人で誰にも告げずに船を降りられることは稀にあった。
 けれども、おかしいのだ。ここは補給時に立ち寄ったドッグでもなければ、閣下お一人お忍びでというわけでもない。閣下は今、私を連れだって、白い花が咲き乱れる丘にいる。
 どうしてこんなことに、と頭を痛ませるのは私の仕事ではないが――頭が痛い。
 おおよそ、ここは軍人が足を踏み入れる場所ではないということは見れば分かる。ドルキマスにまだこんな穢れを知らない無垢な場所があるなんて、私は知らなかった。
 おそらく閣下も知らなかったに違いない。この人はずっとこんな場所と無縁な生活をしてきたと思う――勝手な想像だけれど、花を愛でるより蹴散らす姿の方がよっぽど似合う。

「ローヴィ」
「――はっ」

 氷のように冷たい声色で名前を呼ばれ居住まいを整える。
 私に背を向けて立つ閣下が今、この花を見て何を思い、どんな顔をしているのか伺い知ることはできない。

「――花は好きか」 
「……は?花、ですか」

 思いがけない閣下の問いに口ごもってしまう。花を愛でる心など、とうの昔に――家族と過ごした家においてきた。
 私が幼かった頃、それこそ父がいて、母がいた頃家の庭にはこの花と同じような花がいくつも咲いていた。庭師を抱え、綺麗に整えられた庭でいつ見ても変わらずそこにあった。
 私もいつの日か戦争がなくなれば、その花のように気高く可憐に生きていれたんだろう。全く想像はできないが。

「質問を変えよう。この花はなんの花だ」
「……分かりません」

 質問に答えない私に閣下はそうか、と一言かけて口をつぐまれてしまった。
 一体この花の名を知ることになんの意味があるというのだろう。
 別に自分がこの花の名を知らなかったからそう思うわけではない。この花はユリだと分かっていたのに目の前にいる彼に何故だか告げることができなかった。
 この人の前にあるのはいつだって戦争により傷つき壊れる街や船、人々だけなのに――などと、斜に構えじっと閣下の二の句を待っていると、ふわりと風に乗り、久しく嗅いでいなかった強い匂いがした。風に揺られる眼下のユリがまるで自分のことを忘れるなと主張しているように感じた。

「ローヴィ」

 次は答えない。黙って目の前の彼を見据える。
 その先の言葉はなくとも、言わんとしていることが分かってしまった。

 旗艦へ戻ると皆一様にギョッとした顔をして、こちらへ敬礼をしていた。
 至極当然だ。いつも銃を抱えている腕に溢れんばかりのユリの花を抱いた副官が元帥閣下の後ろを離れず歩いているのだから、私が逆の立場でもギョッとしただろう。
 あのあと、閣下は私に花を摘むようにと命ぜられた。そんなことが何になるのか私には理解できなかったし、知ろうともしなかったが何にせよ私をあの場へ連れ立ったのは花を抱えさせるためだったようだ。

「ブリッジへ行く」
「はっ」

 飾るために花を摘んだとは思わないが、なんのためにブリッジへ行くのだろうと微かな疑問が浮かんできた。
 彼女――閣下の従兵であった少女が存命だった折には、野花がそこかしこに意味もなく飾られていたこともあったが、それも過去のことだ。花を見て閣下は彼女を思い出しでもしたのだろうか。

「……ローヴィ。こちらへ」

 ブリッジに着いてじっと空を見つめる閣下が私の返事を待たず、近くへと呼ぶ。訝しみながら彼の元へと近づいた刹那、彼は私が抱えていたユリの花をぞんざいに空へと放りなげた。
 その蛮行に思わず、何をするのですか!と声を上げそうになって必死に言葉を殺した。閣下のなさることに異を唱えるなど、あってはならいことだと自分を律して。

「おかしいと思うか」
「……、いえ」

 いつもの背筋がぞくりとするような声に己の心の中を見透かされた気がして、どっと汗が吹き出る。
 くるりと大空に背を向けた閣下は興味なさ気に私を見下ろし、残りも同じようにするようにと言いつけて軍靴を鳴らして奥へと消えてしまわれた。
 あの人が消えた方をぼんやりと目で追うと情けなくも腰が抜けてしまったようにその場にへたり込んでしまう。何をしたかったんだろう。

「さっきの餞、みたいだったね」
「――っ、いつからそこにいたのですか」

 ドキリとした。背後を取られるなど、軍人失格だ。
 そんな私の気など知らない黒いローブを身に纏った魔法使いと黒猫が私の近くに歩み寄り、手を差し伸べていた。小さく礼を言い、立ち上がって手元にまだ残っている花を光に透かしてみる。

「餞、など……」

 一体、誰の為に閣下がそんなことをするのだろう。
 風の噂で母君を亡くされていると聞いたが、その母君へだろうか。それとも今まで戦いの中で散った同胞か、それともドルキマス国の民のだめだろうか。
 ――考えて、すぐにどれも全てありえないと私の心は否定してしまった。

「ディートリヒにしてはイイトコあるニャ」
「そうだね。エルナも喜んでくれるといいね」
「…………」

 どうして彼女の名が出てくるのか不思議でならなかった。けれども、彼女のための餞だとしたら全てがしっくり来るような気がしてならない。
 この謀反の成功を、王の崩御を、彼女は閣下と同じように、いや、それ以上に強く願っていたのだから。

「――花を投げ捨てた後、おかしいと思うか、と閣下は私に問いかけました」
「……」
「私はその問いに否定も肯定もできませんでした。私はむしろ肯定的でさえありました」
「"元帥閣下だって、人の子だよ"……なんて、それこそエルナの受け売りだけどね。おかしくなんてないと思うよ」

 その言葉で私はとんだ思い違いを起こしていたのかもしれないと気付かされた。
 ああ、あの人は綺麗なものを見て綺麗だと思う心とて持ち合わせていないわけではない、ただそんなことをおくびにも出さないだけだったのだ。
 閣下はこんなことがなんになるかと、問われれば何もならないと分かっていてその上でこうしていたのだ。けれども、鉄や血、硝煙に塗れ死んでいったものたちがそんなものを喜ぶと思えないと決めつけてしまっていたのは私が戦争に慣れて、心をすり減らしてしまったからだろう。
 こんなものでもくれてやろうと思ったから、花畑を見つけた時に閣下はわざわざそれを摘みに降りたのだ。
 そんなことにも気付かないなんて、私はなんて愚かな副官なんだろう。

「リリーは死者に手向ける花だから、余計にそう感じただけかもしれないけど」
「――これは、門出を祝う花だと思っていました」
「ある意味では、門出の祝いニャ」

 そう言って、頬をかく仕草をする魔法使いを横目で見て再び手元の花に視線を落とした。結婚式のような門出を想像していたが、天へ逝くことも角度を変えれば旅路を祝う門出になる、と彼らは言いたいのだろう。
 見方が変われば味方も変わる。そういうことか。名が違えど、意味が違えどそういう意味では確かにこの花は閣下が用意なされた餞なのだ。

「投げるのニャ?」
「はい。いつまでも私が持っているべきではないので」

 黒猫の問いかけにコクリと頷き、空へと還した花々はぞんざいに投げ捨てなくとも、風に攫われ運ばれていく。その花が見えなくなるまで立ち尽くしても、ユリの香りは消えはしなかった。
 せめて――、と思う。

 今度は誰の血も流れない、硝煙に塗れない"普通"の世界で会いましょう。

 さようなら。
 



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