それは泡沫

 夏の暑さも空調の効いた部屋に長くいると霞んでしまう。願わくば、ここから出たくはない。隣にいるあんずは衣装を縫い、俺はといえば夏休み中で部活動自粛期間だというのに部長に押し付けられた朗読劇の台本を読んでいる。近くにいてもお互いに干渉するわけでもなく、ちょうどいい距離感を保っていられる今の関係が好きだ。
 一通り目を通し終わった台本を横に置いて彼女を見遣る。規則正しくリズムを刻むように針を動かしているところを見るに、細かいところや仕上げは手縫いに限るのだろう。

「んー?」

 視線に気がついた彼女が顔を上げて首を傾げる。そんな姿が何故だか、先程まで読んでいた人魚姫の台本を思い出させて、漠然とした不安が湧き上がり胸の奥を締め付けた。

「……急に泡になって消えたりしないだろうか」
「どうしたの?北斗くん」
「いや、悪い。ひとりごとだ……」

 王子の側にいるために声を失ってまで献身的に尽くし、最後は身を引いて泡になって消える。そんな人魚姫の最後が何故だか遠くない将来、あんずにも当てはまる気がして不容易にそんなことを呟いてしまった自分を責めるように奥歯を噛みしめる。
 とてもじゃないが本人には言えない。お伽話じみて恥ずかしいというのもあるが、言葉に出してしまえば本当になってしまいそうな気がしたからだ。

「……人魚姫やるの?」

 問いかけに答えないというのもアレなので短く返事をする。俺が置いた台本の表紙を見て、合点がいったようにあんずはクスリと笑った。それが気恥ずかしくてつい彼女から顔をそらしてしまう。

「それでさっきの"急に消えたりはしないだろうか"になったんだね」
「ひとりごとだと……」
「北斗くん、心配症だから急に消えたりはしないよ」

 急にではなければ、いつかは俺の前から消えてしまうのかと不毛なことを言いかけてやめた。盗み見た彼女は笑顔のままでそんなことまで考えてはいないはずだから。考えているとすれば、人魚姫というモチーフがドリフェスや衣装に取り入れられないか?というところか。
 新たな興味が湧いてきたのか、配役はどうなっているのかと目を輝かせるあんずに今回は朗読劇として俺が一人で何役もこなすことになると説明したところ、そっかぁ……と分かりやすく落ち込まれてしまい首を傾げる。俺は何かまずいことでも言っただろうか。それとも俺の朗読劇など興味はないという意思表示か、どちらにしろ分からん。

「それじゃあ、北斗くんは脱がないね」
「……は?」

 思わずマヌケな声が出る。最近のあんずはアホの明星に思考が似てきたのではないだろうか。あいつの影響だとしたら、それとなく当たりをキツくしてもバチは当たらないだろう。きっとおばあちゃんも許してくるはずだ。
 人魚姫をやるのであれば脱ぐだろうと期待していたとがっかりした表情を浮かべるあんずの頭をとりあえず撫でておく。何故、そこでがっかりするのだろうか。プロデューサーという立場上、俺たちの上半身などレッスンやらステージ後に嫌と言うほど見ているだろうに。

「だいたい男の人魚姿など見たところで面白くもないだろう?」
「いや、でもアイドルともなれば……」
「あんずはそんなにも俺の体を衆目に晒したいのか」

 確かに"アイドルの"という枕詞があれば、話は別だろうと頷く。あんずにプロデューサーとしての腕があるのは確かだが、商才もあるのかもしれない。やはり、俺の気が付かないところに気がつくな、と声をかけようとしたら彼女は俯いて顔を赤らめていた。

「ごめんなさい、やっぱり今のはなしで……北斗くんの体を他の女の子に見られるのは……イヤ、かも」
「……あぁ」

 思わぬ攻撃を受けた俺は空調の効いているはずの部屋が何故だかとても暑く感じて冷房の温度を下げた。夏はまだ終わりそうもないらしい。




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