名前を呼んで!

 蓮巳先輩と付き合い始めて一ヶ月が過ぎたあたり、彼が私の名前を呼ぼうとしないないことに不満を募らせていた。
 学院内で名前を呼ばれるのは他に人がいて、その人たちと区別をつけるためであって、私を特別に扱ってのことではない。頭では分かっていてもそれが熟年夫婦のようで付き合いたてのカップルの距離感ではないと引っかかってしまってデートをして一緒にいてもちっとも楽しくはなかった。

 終業式を迎え、彼を避けるように校内アルバイトやプロデューサーとしての仕事を入れてしまい、気がつけば彼に会わないまま夏休みが終わってしまいそうになっていたのには流石に反省した。残り一週間はゆっくりしようかとも思ったけれど、朔間先輩からお声がかかり、結局マネージャーのような立ち位置で海の家のアルバイトに流星隊のみんなと2winkの二人と参加することになっていた。
 自分でもどれだけ仕事が好きなのかと苦笑が漏れる。けれども、私から仕事を取れば何も残らないのも事実で、女の子らしさはどこへ置いてきてしまっていただろうかと思案を巡らせた。
 仕事漬けのその状況に不満は何もないけれど、何かあれば声に出さなくては相手は分かるはずもない、という事実には気がついた。今更も今更だけれど、どこかスポーンと抜けていた。しかしながら、この休みの間に蓮巳先輩から連絡が来なかったということは、つまりは多分……そういうことなんだろう。

「いわゆる自然消滅ってやつなのかな…」

 思わず、ため息が漏れる。察しの悪い私でもなんとなく分かってしまう。 
 私自身の恋愛経験値が高くない上、元女子校に通っていて友人たちもその手の話題には疎いとくれば行き詰まるのは自明の理。答えが出ないことをいつまでも考えていても仕方がないと、明日に迫った海の家のアルバイトの確認をするために頭を切り替えることにした。
 いつもはステージ上で歌い踊る彼らのサポートをするためにいろいろな物を持って大荷物になるのだけれど、今回は自分もアルバイトの頭数に含まれているため大荷物で行くのもどうかと頭を抱える。だいたいにして、自分の荷物を詰めればみんなへの差し入れが入らない。

「……人間たまには諦めも大切な気がする」

 床一面に広げた差し入れやサポートグッズ、アルバイトで着用する水着を交互に見て、必要最低限な荷物のみを持って行くことに決めた。


***


 当日の朝は風も吹いていてとても心地が良かった。これからどんどん気温が上がれば絶好の海日和になるだろう。少しくらいは波打ち際で遊べるかも知れない、なんて心が踊っていることはたぶんみんなには気付かれていないと思う。
 この間のスターマインでは花火を見たり、お祭りに参加するのことは出来ても、あれだけ近くにあった海には結局近づくこともなく終わってしまったのが、どうしても心残りだった。
 水着を持ってきてはいたものの、はしゃぎ過ぎかな?なんて気恥ずかしく思っていたらどうしても着ることができなかった。結局、Tシャツとショートパンツなんてラフな格好をしてみんなからブーイングを食らったのは言うまでもない。せっかくの海だからとジャージはやめたのに文句が多いのは如何なものだろうか。
 動きやすければなんでもいいと思っていたけれど、私の格好も士気に関わるなら今後は頭の端にでも入れて覚えておこうと思う。――なんて思っていた数時間前の私に羞恥心なんて持っていたら、仕事なんて出来ないと教えてあげたい。女は愛嬌とはよく言うけれど、結局最後は度胸で道を切り開いていくものなのだから。
 でも思い返せば、ひなたくんが提案したイベントのチラシ配りの一環として着ぐるみを着たのがそもそも間違いだったのかも知れない。こんな真夏の海辺でそんなものを着れば汗だくになるのは当たり前のことで、着ていた服どころかパンツまで絞れば汗が出てきそうなほど濡れている。更衣室まで戻った私は仕方なく持ってきていた水着に手を伸ばした。
 シャワーで軽く汗を流し、持ってきた水着をまじまじと見つめる。スクール水着を持ってくる勇気は流石になく、去年友人たちとプールに行った時に買ったビキニタイプのものを持ってきていた。まぁ、持ってきたものの彼らの前で着るにはどうかと思う一品であるのは間違いない。水着を着ないで済むようにとTシャツ類を持って着ていたものだから、パーカーなんてちょうどいいものはないけれど考えている暇はもうなかった。

「もうすぐ開店ッスよー!?」
「あんずはどこだー?」

 遠くから私を呼ぶ声が聞こえてきて、意を決して水着を着てシャワールームから出る。
 どうせ動けば暑くなる。暑くなれば汗もかくだろう。だから、この格好がベストなのだと自分を鼓舞して彼らが待つ海の家へと向かった。

「あ、姉御!?なんて格好してるッスか!!」

 私が海の家につくなり、素っ頓狂な声を上げる鉄虎くん。そんなにおかしかっただろうか、水着とエプロンの組み合わせ。
 何って水着だよ?と、にべもなく答えると、ごにょごにょと何かを言ったのち俯いてしまった。どうしたんだろうか。やっぱり女友達に見せるのとは訳が違うようだ。
 そんなささやかな会話も出来なくなってしまうほどの忙しさはすぐに襲ってきた。着ぐるみを着てチラシを配った甲斐があったと言えばそうなんだけれど、厨房の方が問題が出てきて滞っているらしく回転率が悪くなっていてそれも気にかかる。
 厨房へ一声かけに行くべきかと悩んでいると聞き慣れた落ち着いた声と楽しそうな声が聞こえてきた。

「あんずちゃんは働き者だね」
「天祥院先輩、お久しぶりです。あと蓮巳先輩も」

 やぁ、と声をかけてきた方を見遣るとラフな格好をして大きな帽子を被った天祥院先輩とその後ろには一ヵ月ぶりに見る蓮巳先輩がいた。なにか言いたげな顔を向ける彼を無視して、ニコリと笑顔を浮かべて注文を聞く。
 やきそばにカレーにホットドッグ、かき氷なんて二人で食べきれるんだろうか、かなりボリュームがあったはずだけれど、なんて余計な心配をしつつオーダーを厨房へと伝える。いつの間にか厨房の方にはひなたくんが助っ人に入ったらしく問題は解消されていたようで安心した。

「……おい、貴様」
「はい、なんでしょう?追加の注文ですか?」
「違う。あとから俺の元へこい」
「……忙しいからアルバイトに駆り出されているわけなのですが」

 ピリピリとした雰囲気とともに発せられる言葉を同じように返すとそれ以上の会話はなかった。今更呼び出すなんてどういう了見だろうか、しかも学外、もっと言えば蓮巳先輩はプライベートなのに。

「そういえば、あんずちゃん。その格好……水着が見えないから、はだかエプロンみたいだね」
「は、はだっ!?」
「英智!!」

 私たちの険悪なムードをぶち壊すかのように小首を傾げる天祥院先輩にぎょっとする。そうか、さっき鉄虎くんが俯いた理由はそれか。もう少し気をつけていればよかった。なんてことだろう、不覚にもほどがある。

「だいたい……っ、貴様がそんな破廉恥な格好をしているから俺まで恥をかいたではないか!」
「それは関係ないじゃないですか!」
「関係ないわけないだろう!俺は貴様の彼氏だぞ」
「貴様、貴様って私はあんずです!だいたい何なんですか、いつもいつもっ、彼氏ならちゃんと名前を呼んでください!あとさっきまで着ぐるみ着てたので暑いんです!服装については放っておいてくださいっ」

 天祥院先輩の一言で堪忍袋の緒が切れたらしい蓮巳先輩がガミガミと口喧しく私をなじる。それに、カチンときてしまい脊髄反射で不満を言い返してしまう。
 今まで散々放っとかれて自然消滅?なんて考えたりもしていたのに『彼氏』だなんて、ここまで拗れる前なら嬉しかった。今はもちろん嬉しくない。店の端とはいえ、これだけ騒いでいれば周りもチラチラとコッチを見ているし、お説教も場所を考えてほしいものだ。

「あんずさーん!ヘルプお願いしまーす!」
「っ、はーい!」

 私が足止めを食らっている間に代わりにホールに入っていてくれたゆうたくんに呼ばれると、私は先輩方に頭を下げてすぐそちら側へ向かった。
 ……正直、助かった。カチンと来たことを感情的に言い返すことは出来ても、やはり口では蓮巳先輩には敵わない。あのまま口論を続けていれば、負けて傷ついたのは間違いなく私の方だった。
 あとは彼氏とはいえ、先輩に対してなんて口の利き方をしてしまったのだろうとたらりと冷や汗が流れる。小心者というわけでもないけれど、何故だから大変なことをしてしまったという罪悪感だけが残ってしまった。
 しばらくは彼の顔を見たくはないな、と厨房に入っていた守沢先輩に少しの間だけ当番を変わってもらうことにした。お客さんとしてもアイドルに接客してもらった方が嬉しいだろうし、願ったり叶ったりだろう。

「あんずも大変だな!」
「いえ……。いや、そうですね。今回は特に」
「はっはっは!言うな!」

 先ほどの喧嘩が聞こえていたらしい守沢先輩が豪快に笑う。けれども、深くは聞かずに厨房を任せてくれた彼に感謝しつつ、私は調理に専念することにした。
 ――隣で作られる、ラーメンのスープに氷がツッコまれた料理は見ないことにして。


***


 何とかお昼の書き入れ時を乗り越えたときには、クタクタになっていた。焼きそばをあんなに作ることは今後もうないだろう。それから、気を張って料理をするとこんなに疲れるなんて知らなかった。
 ふぅ、と周りに聞こえないように小さく息を吐く。これからビーチフラッグとスイカ割り、ライブがあるとなれば、私も本来の仕事をしなければならない。同じようにアルバイトをしていたみんなが元気なのはやはり根本的な体力の差だろうか。

「いたいた。あんずさーん!」

 名前を呼ばれて、ん?と振り返るとそこにはビーチフラッグに参加するというひなたくんがいた。これから走るというのに走って寄ってきたら疲れてしまうじゃないかと思わず小言を漏らしてしまうと「こんなのハンデにもならないよ」と笑われてしまった。
 言われて、それもそうだと自分の物差しで測ってしまったことを反省する。けれど、もしもここにいない彼なら疲れてしまっていただろうから一概には言えない、それに喧嘩中なのに彼のことを考えてしまうなんてと頭を振る。

「これから走ってこなきゃいけないんで、Tシャツ預かっておいてくれません?なんなら着てもいいんで」
「ん、分かった」
「日焼け止め塗ってるとはいえ日差しきついだろうし。あとは俺的に水着とエプロンの組み合わせは目のやり場に困るんでやめてもらえると嬉しかったり」

 その場でファサっとTシャツを脱いでニッコリ笑いながら私に押し付ける彼に思わず、笑みが漏れる。開店前に私に水着を着るように勧めたのはひなたくんなのに。
 仕方なくエプロンの紐を解き、受け取ったTシャツに腕を通す。ブカブカなTシャツというのも案外ありかもしれない。

「これでどう?」
「ちょっと待ってね……っと、はい!完成!」

 ひなたくんが私の前に屈んでTシャツの裾を軽く結んでくれた。お腹がチラチラと見えるのが恥ずかしい、気がする。
 いってきまーす!と元気に結び目を指で弾いて、満足そうに会場となる砂浜の方へ向かうひなたくんを見送ると後ろから声をかけられた。

「ずいぶんと仲が良さそうだな」
「まだいらしたんですか?」
「……いいや、英智を送り届けて今しがた戻ったところだ」

 振り返りもせず嫌味な言葉を紡ぐのは、さっきまで喧嘩していた相手にどんな顔をして会えばいいのか分からないから。我ながら子供っぽいと思うけれど、好いた相手だと尚更よく分からないのだ。

「……これからイベントがありますが見ていきますか?」
「そうしよう。一年がどういう働きをするのか興味がある」

 それとない話題を提示して、少し離れて並んで歩く。この隣り合わせの距離がどうやったら縮まるのか私は知らない。
 仲直りをしたら、蓮巳先輩が名前を呼んでくれたら、その時はこの距離も縮まるのかもしれないけれど、どうしたらいいのかわからない。

「……すまなかった」
「え?」
「名前呼び、気にしていたようだったから」

 今更遅いですよ、なんて可愛げのない言葉をグッと飲み込む。あの先輩が私に謝るなんてちょっと意外だ。どんな顔をしてそんなことを言うのかと遠慮しがちに振り返ると、いつもの高慢さは鳴りを潜めて本当に申し訳なさそうにしている蓮巳先輩がいた。

「……もう、いいですよ」
 
 本当は言いたいこともたくさんあるけれど、根っこはとってもシンプルで、ただあなたに名前を呼んでもらいたかっただけ。だって"好きな人"に名前を呼んでもらえるって、それだけで特別なことだから。
 それでも、あなたはその意味にちゃんと気付いていないのかも知れない。不機嫌な私の機嫌取りなのかも知れない、それでも……もうよかった。実際それを申し訳なく思ってくれたから。けれども、次に驚いた表情を浮かべたのは蓮巳先輩だった。

「すまない。あっさりと許されるとは思っていなかった……いや、呆れているのかもしれないが」
「別に……」
「……あんず、と名前を呼ぶのが気恥ずかしかった。まだ慣れないかもしれないが徐々に慣れるから待っていてほしい」

 そんなふうに言われれば、待つよりほかないじゃない。彼はこんなにズルい人だったろうか。
 それはそうと、と話を切り替えるように私をまっすぐ見つめる蓮巳先輩の二の句を待つ。謝罪の次は何が来るのだろう。このあとデートのお誘いでもしてくれるのかとウキウキした心を落ち着かせながら彼の目を見る。

「それを今すぐ脱げ、捨てろ」
「……!?」

 ――暴君だ。私は驚きすぎて声が出なかった。ドキドキを返してほしい。
 表情はすっかりいつもの彼に戻っているし、深い緑の瞳は怒りに揺れている。それにしても預かりものなんだから捨てられるわけないのになんて言い草だろう。

「他の男の服なぞ捨ててしまえ……まったく、気分が悪い」
「そこまで仰らなくても……あれ、さっきはパーカー着てらしましたっけ?」
「…………ふん」

 もしかして、パーカーを取りに戻っていたのだろうかなんて呑気に構えていると不機嫌を隠しもしない先輩が一歩ずつこちらに近づいてきた。ヘビに睨まれたカエルとはこのことだろう。一歩も動けずその場に立ち尽くすしかなくしまう他なくジィっと彼を見つめていた。
 先ほどまで私たちの間にあった距離はなくなり、目の前まで来た彼は私の着ているTシャツの結ばれた裾をスルリと解いて、熱い指で私の脇腹を撫ぜる。そのくすぐったさに目をギュッと閉じて耐える。
 本当に気に食わない……ボソリと呟いて、さらにTシャツの中ヘと手を差し入れる彼の為すがままになるしかなくて、身動きが取れない。最早、恥ずかしいどころの騒ぎではないし、こんな時間が続けば心臓が破裂してしまうのも時間の問題だ。

「手を上げろ」
「……うぅ」

 言われるがままに手を上げて腕を抜かれると頼りない水着姿に戻ってしまった。砂浜には他に人だっているのになんて大胆なのだろう。私はきっとこの人のことを捉えきれていなかった。
 こんなに恥ずかしい思いをするくらいなら、脱げと言われた段階で最初から自分で脱げばよかった。

「手間を取らせおって……これでも羽織っていろ」

 脱いだTシャツの代わりに差し出されたのは蓮巳先輩が着ていた半袖のパーカー。言われた通りにそれを羽織ると満足そうに彼は微笑んだ。
 いつも険しい顔ばかりしている彼を知っているだけに、パーカーを着るだけでこの表情を見られるなんてなんだか特をした気分になる。ひなたくんのTシャツは着ちゃったし、洗濯をしてから返そうなんて考えて軽く畳んでいると不意に後ろから声をかけられた。

「ほほう?わんこ顔負けのマーキングじゃのう、蓮巳くん」
「なっ……、さ、朔間さん!?」
「人を隠すなら人の中、とはよく考えたものよのぅ」

 突然の出来事に明らかに狼狽する蓮巳先輩。
 海の家の2階で眠っていたはずの朔間先輩が大きなパラソルを携えて、私たちの側に来ているものだから私もドキリとしてしまう。今日は心臓に悪いことばかりだ。陽の光が苦手なのになんて無茶をするのだろう。
 その後、蓮巳先輩にここはもういいからイベントの方へ行って仕事をしてこいと言われてしまいどうなったのか分からないけれど、ニマニマして悪いことを考えていそうな朔間先輩が彼を困らせていなければいいなと、私はその場から離れることにした。



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