俺と女神様

お疲れ様でした!そう言って元気にスタジオを後にして楽屋に戻る。ここまでがいつでも明るい葵ひなたのアイドルとしての仕事だった。もちろん俺の隣には弟のゆうたくんがいる。そう、ここまでがいつも通りの出来事。
 最近は仕事も落ち着いてきて、デビュー当時の一日の睡眠時間が二時間とか何ヶ月もオフがないとか無茶とも思えるスケジュールからも解放されてレギュラー番組も何本か持つようになった。夢ノ咲を卒業して八年くらい。ここまでくるのも長かった気がするけどゆうたくんなんか俺を差し置いて、いつの間にか女優さんと結婚秒読みなんて芸能雑誌に書かれていた。同じ顔なのにどこで差がついたのか分からないけど、なんだか少しだけ寂しくなった。結婚すること自体はおめでたいことなんだけれどね、なんて内心呟いて自分の身の上を思い返す。そういえば今まで結婚に至るような深い付き合いになった彼女なんてできたことはなかった。

「……アニキはどう思う?」

 不意に着替え終わったゆうたくんに話しかけられて振り返る。聞いていなかったと返せば、やっぱり……とため息をつかれて、明日の仕事のことについての意見を求められた。そんなの明日は明日の風が吹くって答えたらちゃんと考えてって怒られるし、ついてない。真面目に考えた上でそう言っているんだけど伝わらないようで悲しくなる。でも、これもいつも通り。

「明日は特番のロケでしょ?何食べられるかな?」
「スイーツ巡りとかじゃなかったらいいけど……ちょっとごめん」
「はいはい〜」

 明日は芸人さんとか女優さんとぶらり食べ歩き、みたいな企画のロケで今日は夜ご飯抜きって話をしていたのにゆうたくんはお誘いが入って結局俺だけ……いや、別に一緒に住んでるわけじゃないし、ゆうたくんがどうしようと勝手なんだど面白くない。あーあって溜め息をついてやりたいくらい。ゆうたくんは甘いものが苦手だから食べたくないって言ってるけど、俺は無性に今甘いものを食べたい気分だ。
 これから一人寂しく家に帰って、シャワー浴びて寝るのもいつも通り。帰り道、ライトアップされた桜が花びらを散らしているのがまた少し物寂しい。センチメンタルなんて似合わないけど今日くらいいいよね。家に着けば、いつからか恒例になった自分たちが出ている番組のチェック。バラエティなんかは特に編集でカットされている部分とか多くあるし、そこで収録しているときには気がつかないことに気がついたりするし、これがまた結構大事な仕事だったりする。
 番組チェックのお供に、と思い出したように帰りがけに買ったコンビニスイーツを袋から取り出して、スプーンが入っていないことに気がついてむっとする。あのコンビニ店員はこれをどういう風に食べらさせるつもりだったんだろうか。軽音部にいたあの先輩ならきっと噛み付かんばかりに吠えてキレていただろう、と昔を懐かしんで頬が緩む。

「食べたら早めに寝よ〜」

 んーと伸びを一つして、キッチンへとスプーンを取りに行く。そういえば、今のような季節だったかあの人に甘味処を教えてもらってしばらく通ったなぁ、と高校の頃を思い出した。  


 寝起きは昔からいい方だった。だけれども今日は布団からすぐには出られなかった。寝る前に昔のことを懐かしんだからか、あの頃の夢を見た。
 女の子一人で、男ばかり、しかもアイドルなんていう少し変わった連中を相手して全力でぶつかって導いた女神様がいた頃の夢。毎日が楽しかった。嫌な記憶を忘れているだけかも知れないけれど、先輩たちがいてクラスメートがいて、いろんなことがあって楽しかった。
 彼女のことが好きだった。最後の最後まで本人には言えなかったけどそれもいい思い出。卒業してから今まで彼女以上に惹かれる人に出会えていないのはいつまでも未練がましく彼女のことを思っているからだろう。たぶん心のどこかで告白しなかったことを後悔しているから先へ進めなくなってしまったんだと思う。それから、彼女が卒業してからの消息は掴めていない。大学に進学したということろまでは聞いたけど、どこの学校かまでは聞いていないし二度と会えないからこそ美化されてキレイな思い出になっている気がした。

「さて、お仕事お仕事!」

 夢で見たことなど忘れて、仕事へといく準備を始めるべく起き上がる。仕事に集中している間は余計なことを考えずに済むし、人に心配をかけずに済むからと自分自身を納得させて身体を動かす。
 枕元に放っておいた携帯電話を掴んで慣れた手つきで電話をかける。相手はもちろん決まっている。

「おっはよーゆうたくん!今日も仕事頑張ろうねっ」

 少し眠そうな声でおはようが返ってきた。昨日はお楽しみだったのかな? だったら悪いことしたかな? まぁ、反省はしてないけど。もしかしたら、このいつも通りもお相手の女優さんの仕事になって、もうすぐ終わってしまうかもしれないから今のうちだけ。


 ロケは滞りなく進んでいく。時折芸人さんにツッコミを入れたり、ボケてみたり周りの人を楽しませながら進んでいく。人を楽しませるこの快感にも似た感覚は好きだ。

「次はあのお惣菜屋さんに行ってみましょう」
「いいですね〜」

 女優さんのアドリブで一瞬周りの空気が変わる。ここはゆうたくんが惣菜屋さんを示して、俺が本来行くべきその隣のケーキ屋さんを案内するところなのに女優さんがいいですね、なんて言うものだからアシスタントさんたちがざわついている。

「いやいや、そのとなりのケーキなんてどうですか?」

 慌てて路線変更をするも、あの惣菜屋さんのコロッケを食べたいなんて満面の笑みで返されてどうすることもできずに惣菜屋さんに立ち寄ることになった。
 一旦撮影を中断して、お店へと撮影許可を取りに行くためにスタッフさんが走る。女優さんの声はまるで鶴の一声だなと感心しながらその様子を眺めた。ゆうたくんも同じことを思ったのか、同じようにそれを見つめていた。
 すんなりと撮影許可が下りて、店頭にお邪魔すると聞き覚えが優しい声でいらっしゃいませと言われた。あまりの衝撃で声が出なくなるけれど、そんなことはお構いなしにロケは進んでいく。まじまじと声をかけてきた店員の顔を見ると、苦労の色がにじみ出ているものの昔と変わらない女神がそこにいた。


***


 あの日あの場所で出会ったのは本当に本物の彼女だったのだろうか。ロケが終わったあと、改めて一人で挨拶に行ったら、仕事中だからと相手にもしてもらえず追い返された。一緒に行こうと誘ったゆうたくんはそう言われることを見越していたのかついて来なかった。
 気になる。出来ることならもう一度会って話がしたい。なにしろ彼女が卒業してからだと十年近く経っていることになるから話したいことが積もりに積もっている。昔と同じようには難しいかもしれないけれど、それでも会って話がしたかった。その一心でオフの日や時間に余裕があるときは、あの商店街に足を運んだ。

「今日も会えなかった……」

 何度目か分からない訪問の帰り道にため息をつく。すっかり季節が進み、うっすら汗ばむ時期になった。これじゃあ出会えていないけれど、まるでストーカーみたいじゃないかと自嘲気味に笑いながら汗を拭う。
 最近アニキどうかしたの? なんてことを勘が鋭いゆうたくんは聞いてくるけれど、どうかしたのかと言われても、あえて答えるなら俺の今後の人生のためとしか言いようがない。どのみち彼女のことを納得して消化しなければ先には進めないのだ。少しくらいここで遠回りをしてもいいだろう。
 それから更に一ヶ月ほど経って、ようやくまともに彼女に会うことが出来た。

「あんずさん!」
「いらっしゃいませ」
「あのっ」
「ご注文はお決まりですか?」

 話しかけても話しかけても事務的な会話だけで話がここから先に進まない。ようやくここまで来れたのに時間に追われて撤退すること数回。でも今回ばかりはいつもと違う。

「今日は時間があるから俺、あんずさんの仕事が終わるまで待ってるんで!」

 困ったような表情を浮かべて奥へと消えそうになる彼女を必死に留める。せっかく会えて話が出来そうなのに、この機会を逃したら次に会えるのはいつになるか分かったもんじゃない。

「この兄ちゃん、あんたに会いにあれからよく店に来てくれてんだよ」
「……」

 店の奥から店主のおじさんが出てきて、助け舟を出してくれる。何ヶ月もあんずさんに会うために店に通っていて顔を覚えれたことが幸いした。彼女は観念したように三時頃また来るようにとだけ言って店の奥に消えてしまったけれど、相変わらずだなと思いつつその言葉に従い近所で時間を潰すことにした。
 昔もこうやって俺やゆうたくんがワガママを言って困らせると最後には諦めて付き合ってくれた。約束の時間にそこへ戻るとあんずさんは私服に着替えて店先で待っていた。

「改めて、お久しぶりです。あんずさん」
「久しぶりだね。ええっと……ひなたくん」

 当たり障りのない会話なのに、彼女に名前を呼ばれるだけでいい年した大人なのにあの頃のように胸が躍る。よく分かりましたね、と笑えば髪に差したピンクの髪留めを指差されて納得する。ピンクが俺で水色がゆうたくんだとちゃんと覚えていてくれていたらしい。
 どこかでご飯でも食べようと誘ったらそこまでの時間がないと断られてしまい、代わりに喫茶店にでも、ということでやってきたけれど何も頼もうとせず俺のことをじっと見つめるあんずさん。どこか変なところでもあっただろうか。

「そうだ。単刀直入に聞きますけど、俺のこと避けてました?」
「うん」

 淀みなく答える彼女に、どうして? という疑問がないわけではない。でも、何か理由があるからそういう態度を取っているんだろうということも分かる。

「立派になったね」

 その一言にすべてが込められていたような気がした。思えば昔からあんずさんはそうだった。
 アイドルたちと一線を引いて、その線の内側で行動していた。あの日再会しても突き放すようなことを言ったのも、なかなか自分と会ってくれなかったのもそこにすぐに埋めることが出来ないほどの時間と距離の壁が出来てしまったからだ。正直、そんなものがなんだって思う。そんなこと気にしなくていいのに気にして、俺だけじゃなくてみんなから遠ざかって距離を取っていたのはいつでもあんずさんの方。

「せっかく待っててもらったのに時間がなくてごめんね。そろそろ行かなきゃいけないところがあるの」
「また来てもいいですか?」
「……嫌じゃなければ、どうぞ」

 断られたり迷惑がられると思っていたのに予想に反した優しい言葉が返ってきた。せっかく待ったのに時間がないと言われたときはがっかりしたけれど、その言葉に内心ガッツポーズする。また会える、しかも今度はあんずさんの許可ありで。それだけで俺は羽が生えた心地だった。
 それから、何度かあんずさんの仕事が終わる頃に現れては少しの思い出話とお茶を楽しむようになった。相変わらず、その後には予定があるようで少しの間しか一緒にいることは出来なかったけれど、それでもよかった。
 学院に通っているときはあんずさんに関してはみんながライバルだった。時間が経ったとはいえ、抜け駆けしているようなスリルを味わっている感覚がお客さんを楽しませる快感よりも勝って俺の脳内を刺激している。

「あんずさんは今恋人とかいるんですか?」
「え?」

 更に何度目かの逢瀬で本題とも取れる疑問をぶつけてみた。その質問にもやはり困ったような顔をして、いないと教えてくれた。

「じゃあ、それに立候補したいんで連絡先を教えてください」
「ひなたくん……」

 その好意は受け取れないと、悲しそうな顔をして告げるあんずさんにやり場のない怒りややるせなさがこみ上げる。何故その気がないとフるだけなのにそんなにも悲しい顔をするのか俺には理解できなかった。
 こうして会うには不便だからという理由だけで連絡先を教えてもらうことには成功したけど、彼女が何を考えているのかは分からなかった。

「俺、諦めませんからね。これでも一途なんで」

 俺の発言にまたもや困った顔をした彼女はやはりこの後に用事があるからとお金を置いて席を立っていく。それを黙って見送りながら、どうしたら彼女を困らせることなく過ごせるのだろうか、また昔のように笑いかけてくれるようになるのだろうかと思っては胸の奥が締め付けられた。
 好きだけじゃままならないことがあることをこのときはまだ知らなかった。


 うるさかったセミたちも静かになり、夏ももうすぐ終わる。コンサートがあったりして全国をせわしなく駆け回っていたからしばらくあんずさんに会えていない。会えない間にはこまめに連絡を取って、忘れられないよう、距離を離されないように努めた。その都度"がんばってね"などの優しい言葉をかけてもらってはそれに癒されていた。

「何かいいことあったの?」
「まぁね〜」

 隣にいるゆうたくんが怪訝そうに俺の顔を窺ってくる。まぁ、携帯電話を握り締めてにやにやしていたら、俺でも声をかけると思う。
 今日の午後はあいていて、夜遅くからは夢ノ咲の先輩である朔間先輩と大神先輩がパーソナリティを努めるラジオ番組にゲスト出演するというスケジュール。一度家に帰るらしいゆうたくんに遅れないようにと釘を刺されて別れた。心配性すぎるよね。
 これから行く先は決まっている。あんずさんに会いに行く。ちょっと驚かせようと連絡を入れないでいつものように商店街へ足を運ぶと、そこには幼稚園児くらいの男の子の手を引いて歩いている彼女がいた。

「――え?」

 思わず声が出て、その光景に胸を締め付けられる。その子は親戚の子とかだよね、あんずさんの子供じゃないよね? なんて淡い期待を砕くように手を引かれている男の子はあんずさんの方を見上げてママと笑いかけて、それに答える彼女。それはどこからどう見ても親子のそれだった。
 足が棒になるとはこのことで、その場から動けなくなる。あんずさん、久しぶりですって声をかければいいだけなのに声も出ない。二人を見送った後、俺は商店街を駆け抜けていた。


 その後の仕事は最悪だった。大神先輩にもゆうたくんにも怒られるし自分でも何をしているんだろうと情けなくなった。
 前にあんずさんが言っていた、付き合っている人がいないっていうのも旦那さんがいるってことで、告白しても困ったような顔をしていたのもそういうことだろう。もっと早く気がついていたら少なくとも困らせることはなかったはずだ。いつも予定があるって言っていたのもあの子のお迎えのためだったのかと納得がいく。

「何か悩み事かのぅ」
「あ、朔間先輩……お疲れ様です。悩み事というほどのことでもないですよ」
「そう言わずに話してみるがよかろ」

 まるで全てお見通し、そんな目を向けて俺の隣に朔間先輩が座ってくる。その目を見ているとゆうたくんにさえ言ったことがなかった春からのことが自然とぽつぽつと零れて、先輩は俺が話し終わるまでじっと聞いてくれた。

「そんなにも恋したのか」

 気持ちの整理がついたのか溢れる涙を拭いながら、こくんと頷くことが精一杯で何も言えない。憧れが恋心に変わって、再会したときは運命じゃないかとまで思った。だから、余計にショックだったのかもしれない。

「ふぅむ。もう一度ちゃんと話してみてはどうじゃ。嬢ちゃんとて、このまま疎遠になることを望んではなかろう」
「えっ……あんずさんだなんて一言も言ってないのに」
「バレバレじゃよ。それにほら、今言った」

 不意に彼女の名前が出て涙が止まる。あっけに取られていると、このくらいのことで負けることのないように、とポンと頭を撫でて朔間先輩は立ち去っていった。
 どこまでお見通しだったのかは分からないけれど、人に話すことで気持ちが落ち着いたのは確かで、やっぱりあんずさんのことが好きなことには変わりない。ショックではあったけれど子供がいることくらいなんともない。彼女の性格からすれば、結婚していたらそう教えてくれていたはずだから、何か事情があってもしかしたらまだ望みがあるかもしれない。

「そうだよね! 負けてられないよねっ」

 頭を切り替えてポケットに入っていた携帯を取り出すと、深夜にも関わらずあんずさんから連絡が来ていた。それだけでも嬉しいのに、わざわざ俺が出ていた番組をチェックしていたのかと更に嬉しくなったのと同時に、ぐだぐだで恥ずかしい内容だったのを思い出して頭が痛くなる。
 格好悪いところを見せちゃったな、と予想通りに番組の内容についての心配と注意が書かれているメールをみて苦笑いする。それもこれも、あんずさんのせいだからいずれ責任取ってもらわないといけないよね。
 また今度いつものところで会いましょう、そう送信して深夜の街に繰り出てタイトなスケジュールをどうやってこなして時間を作るか思案する。早く会いたい。会って話をしたい。頭の中はすぐに彼女のことでいっぱいになった。


 夜なのにも関わらず、こんなにも明るいのは全てを照らす満月のせいだろう。あれから死ぬ気になって仕事をこなしてようやく手に入れた時間。次の日は一日オフなのだから我慢すればよかったのに、我慢できずにこれから会えますかなんて電話して困らせてしまった。何度か頼み込んで外には出ることは出来ないから家まで来てくれるならと了承をもらい彼女の自宅へと向かう。
 言われた通りに路地裏に行くと年季の入ったアパートが立ち並んでいた。本当にこんなところに住んでいるんだろうかと失礼ながらも思ってしまう見た目の、所謂オンボロアパートから彼女が出てきて驚きを隠せない。

「お邪魔します」
「いらっしゃい、何もおもてなしできないけど……」
「おかまいなく!」

 つい大きな声で話してしまい、お静かにと口元に指を置かれる。玄関に並んだ小さな靴に目を向けて以前見た子供は改めてあんずさんの子供なんだなと思い知る。そのあとも行儀が悪いなと思いつつも、ちらちらとあたりを見渡すとやっぱり怒られた。

「私ね、ひなたくんに言わなきゃならないことがあるの」
「何ですか?」

 お土産で持ってきたドーナツを取り分けながら先に口を開いたのはあんずさんの方だった。子供が好きそうな甘いものをと思ってこれにしたが自分が食べるとなれば話が違う。

「私たちもう会わないほうがいいと思うの」
「どうして?」
「私には子供がいるから……」
「知ってますよ?」

 カチャンと食器が音が鳴り、機械仕掛けの人形のようにゆっくりとこっちに視線を向ける彼女はとても青ざめていた。

「それじゃあ……騙していたみたいだよね。ごめんね」
「言いたくないことくらいありますよ。だから謝らないでください」

 少しの沈黙の後、すうっと後ろの襖が開いて寝ぼけた男の子が出てきた。

「ママ、おといれー……」
「うん。ひなたくんちょっとごめんね」

 どうぞどうぞ〜なんて言って見送って再び部屋を見渡すけれど、やっぱり男が住んでいるような気配は感じない。一緒に住んでる時点で俺を家に入れたりするわけないだろうし、本格的に光が見えてきた気がした。
 息子さんを寝かしつけた後、戻ってきたあんずさんは少しだけ疲れているようだった。

「あの子、父親がいないし私も仕事でなかなか構ってあげられないからか甘えん坊で……」
「シングルマザーってやつですか。あんずさんも大変そうですね」

 気の利いた言葉がとっさに出てこず、ありきたりなことしか言えない自分が腹立たしい。彼女はそうね、と微笑むだけだった。

「夜分にお邪魔してしまってごめんなさい。俺そろそろ帰りますね。あんずさんに会えて良かったです」
「いえいえ。私もひなたくんに会えて嬉しかったから、こちらこそありがとう」

 その言葉に胸が高鳴る。あんずさんも俺に会いたいと思っていたなんて知らなかったから。気の利いた言葉は確かに言えないけれど、と彼女の顎をくいっと持ち上げて唇にキスを一つ落とす。

「俺、一途って言ったでしょ?」

 不意打ちに驚いたのか腰を抜かしてへなへなと玄関に座り込む彼女を満足げに見つめた後、また来ますねと言い残して彼女の家を出た。息子さんが近くにいなければそのままあんずさんを布団に連れて押し倒していそうな自分にまだ若いなぁと苦笑する。
 今日は明るいから人に見つからないように帰らなければと、薄暗い路地へと足を踏み入れていった。

 
***


 北の方の地域では雪が積もり始めたとニュースで見たのは数日前のことだった。そしてこれからその白銀に染まる世界に行ってライブを行って、帰ってからはあんずさんと息子くんとクリスマスのサプライズパーティをする予定になっている。
 ここ数ヶ月であんずさんとの距離も近くなったような気がする……とは言っても、不意にキスをしてからはガードが固くなって手は出せていない。あとは持ち前の性格で彼女の息子くんとも悪くはない関係を築いている。彼は戦隊モノが好きらしく、というか鉄くんが演じている特撮ヒーローが好きらしくそのごっこ遊びを俺にせがむ程度には懐いてくれていた。
 どうせなら二人にもライブを見に来てもらいたかったし、雪を見せてあげたかったけれど旅費もろもろを出すから来てとお願いしたのに断られてしまったのが残念で仕方ない。

「あれ?」
「軽音部の双子か?」
「それ何年前の話ですかー」

 ゆうたくんが声をかけられて楽しそうに話している方を見ると懐かしき夢ノ咲の先輩、Trickstarの面々がいた。

「お久しぶりです!氷点下の王子さまと超天才と変幻自在の魔術師と、ええっと眼鏡のひと!」
「名前を覚える気はないのか?」
「やっぱり僕だけ眼鏡のひとのまま!?」

 負けじと挨拶をすると衣更先輩がおいおいといった顔をする。大丈夫ですよー、ちゃんと覚えてますってと言ったところで疑いの目は晴れない。
 懐かしい人たちに会うと最近はどうだって話から最後は結局女神様の話に落ち着くから出来ることなら会いたくはない。あんずさんたちのこともまだ俺だけの秘密にしておきたいってわがままなんだけど、特にこの人たちはあんずさんに近い場所にいたから余計にライバル心からかそう思ってしまう。
 適当に話を切り上げ彼らは帰るべく飛行機へ、俺たちは市内のホテルへと向かうべくバスに乗り込んだ。


 ライブ期間中あんずさんからの連絡はなかった。とうとう最終日なのに何もなし。何かあったんだろうか。いつもなら"がんばってね"など返してくれるのにそれすらもなく、不安で落ち着かない気持ちでいっぱいになる。その不安な気持ちがゆうたくんにも伝播したのか、黙って隣にいてくれた。

「大丈夫だよ、アニキ」
「……うん」

 ライブは滞りなく終わって、すぐさま電話を入れる。何度もコールを鳴らしても出る気配がないと諦めかけたとき、ようやく出てもらえた。心配と怒りみたいなぐちゃぐちゃな感情がそのまま声に現れて、電話口で息を呑む音が聞こえたけれど『ママが!!』とすぐに泣き声に近い声で訴えかけられて察した。あんずさんに何かがあったということを。

「今から行くから!待ってて!」

 今から行って、すぐに飛行機に乗ったとしてもなんだかんだで三時間はかかる。あんずさんがどんな状況なのかも分からない。間に合うのかも分からない。あんずさんのご家族はこんなときに何をしているんだろうかと苛立ちが募る。

「行くの?」
「うん。俺、行ってくるよ。ゆうたくんごめんね」
「オーケーこっちのことは任せて」

 後ろからかけられる頼もしげな声にそう返して、打ち上げなど後のことを全部放り投げてほとんどそのままタクシーに飛び乗った。出来るだけ急いでください!と運転手に伝えて、別のところに連絡すべく携帯電話の電話帳を開いた。


 夜間外来を通り抜けて奥の方へ進むと通路の影からピリピリと殺気立っている心を解きほぐすような温かな声で話しかけられた。

「まさか我輩に助けを求めるとは」
「あんずさんのご家族と連絡が取れなくて、頼れる人に連絡してみました」
「そうか。それにしても、その格好はちと目立ちすぎではないかのぅ……」

 淡々と答えてから、改めて自分の格好を見ると着替えもせずコートを羽織っただけのどこからどうみてもアイドルの葵ひなたがいた。受付で一瞬看護師さんに驚かれたのはこのせいかと理解するが正直どうでもよかった。

「なりふり構っていられなかったんで」
「よきかな、よきかな。若いものの恋はこうでなくてはのぅ。嬢ちゃんと坊やはこっちじゃよ」

 息子さんまで連れてきてくれたことにも頭を下げると朔間先輩は鷹揚に頷いていて、病室へと案内してくれた。案内された先では点滴をされて横になるあんずさんとその隣にぴったりとくっついてすやすやと眠る子がいてほっと胸を撫で下ろした。

「過労だそうじゃ」
「そうですか……」

 お医者さんからの話や今後のことを先輩に聞いて頭を整理する。疲れきった彼女の姿を見るのが辛い。息子くんを養うために朝な夕な働いていれば、遅かれ早かれこうなることは目に見えていたのに何もできなかった自分が歯痒い。今更後悔しても遅いのだけれどそう思わずにはいられなかった。

「我輩はそろそろ帰るとするかのぅ。後のことは任せたよ」
「本当にありがとうございました」

 再度礼をすると朔間先輩は手を振って病室を後にしていった。ベッドの脇に備え付けられている椅子に腰掛けて、これからどうするべきだろうかと思案をめぐらせていると、あんずさんが目を覚ましたのかぼんやりとこちらを見ていた。
 気分はどうかと問えば意識が朦朧としているのか、何が起きたか思い出せないようで状況を簡潔に説明すると彼女は放心したように天井を仰ぎ見た。

「私……」
「働き過ぎだって」
「働かないと、お仕事しなきゃ……やっぱり、っ」

 身体を起こしそうになる彼女を慌ててベッドに押し戻す。少なくとも点滴が終わるまでは横になっていなければ治るものも治らない。

「こんなときだから言うんだけどね、聞いてあんずさん」

 彼女の目をじっくりと見つめて言葉を紡ぎだす。

「俺の奥さんになってください。そして俺をこの子のお父さんにしてください」
「何を言って……」
「次クリスマスに会う約束してたでしょ?本当はそのときに言うつもりだったから、指輪とか今はないんだけど本気だからちゃんと考えてほしい」

 精一杯のプロポーズに目の縁いっぱいに溜めていた涙を零しながら彼女はこくりと頷いて、ひとしきり泣いた後は疲れ果てて眠ってしまったのを俺はいつまでも見つめていた。


 あんずさんが退院して二人で朔間先輩のところへお礼をしに行って昔話とこれからの報告を一番にした。先輩はめでたいことだと温かい言葉をかけて門出を祝福してくれた。
 それからしばらく後のクリスマスに予告通りに指輪とともに改めてプロポーズをして「はい」と受け入れてもらえたことが嬉しくて天にも昇るようだったのも束の間。年末の夢ノ咲OBによるカウントダウンライブだなんだという行事のせいでまたしばらくあんずさんにも息子くんにも会えないということが発覚して寂しくて仕方なくなる。あんずさんが入院していた数日、家で彼を預かっていたせいで余計にその気持ちが強くなっていた。

「もうさ、あんずさんもライブに同行しない?」

 脳内会議の末、お披露目の意味を込めて彼女たちを連れて行けばいいのではないかという結論に至ったのだが、とんでもないと首をぶんぶん振って拒否された。どうして? と詰め寄れば、みんなもう手が届かないすごい人になっているのに自分のような一般人が近づくわけにはいかないという。

「……本音は?」
「う……。久しぶりに嵐くんや瀬名先輩に会ってお手入れサボった疲れてるお肌見られたくない。怒られたくない。あとは守沢先輩とかにもみくちゃにされたくないかな……」
「あー。それは俺も嫌だなぁ」

 もう何年も経っているというのに安易にその様子が想像できてしまい二人で顔を見合わせて笑いあう。ようやく彼女が自然に笑いかけてくれるようになって幸せを噛み締めずにはいられない。同時に表情の影に隠れた本音を読み解くことにも大分慣れた。
 春に再会したときは疲れきって、仕事用の笑顔を作ることが精一杯といった様子だった。笑いかけてくれるなんて夢のまた夢だと思っていたのにすごい進歩のように感じる。

「あんずさんに会えないの寂しいからー、息子くんもこっちがいいって言ってるし、俺が仕事でいない間にここに引っ越してきてよ。んで、帰ってきたらおかえりって言ってもらって温かいご飯が食べたい!」
「ええっ?」
「ね!お願い!あとあの本買わなきゃ」

 結婚式なんてバツ1なのに恥ずかしいと言う彼女に俺は初婚なんだけど? と返せばあたふたとし始めて胸がきゅんとする。まるで初恋の続きをしているような気分だった。


 季節が過ぎて、結婚式当日。桜の花吹雪の中親族たちに見守られ慎ましやかに式を挙げることになっていた。控え室へ別室で待機していた息子を連れて入ると、純白のドレスに身を纏い恥ずかしそうに座っている彼女に思わず感嘆の声が漏れる。こんなにも綺麗だったなんて知らなかった。

「……披露宴で先輩たちにあんずさんのこと見せたくない」
「え?」
「あの人たちなら人妻でもお構いなしにあんずさんに詰め寄るよ!?俺、耐えられない!」

 夕方からの披露宴には朔間先輩をはじめとする夢ノ咲でお世話になった先輩方や友人も招いたのだけど、この綺麗なあんずさんは独り占めしておきたい。誰にも見せたくないと独占欲があふれ出る。

「ふふふ」
「何がおかしいの!?」

 その言いようが面白かったのかくすくすと笑うあんずさん。俺は本気で心中穏やかじゃないのに伝わっていないのかと頬を膨らませてむくれる。

「私はひなたくんの奥さんなので他の人になびいたりしません」
「ちょ、え、」
「私だってひなたくんのこと大好きなの忘れないでね」

 思わぬ反撃にたじろぐとママは僕のだからパパにもあげないなんて足元からも無邪気に攻撃をされて胸が締め付けられて涙が出そうになる。初めて息子くんに"パパ"って呼ばれたし、今なら何の悔いもなく死んでしまえそうな気がする。そのくらい感激している。

「アニキ、そろそろ準備して……って泣いてる!?」
「泣いてない!!」

 呼びにきたゆうたくんとそんなやり取りをして控え室を先に出る。幸せすぎてどうにかなってしまいそう、と見上げた窓の外の柔らかな光に目を細めた。



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