大きくなったら

 その日、我が家のリビングはなんとも言えない重苦しい雰囲気が漂っていた。私はソファに座る年の離れた一番上の兄の前で正座したままごくりと唾を飲んだ。
 くつろぐことの出来る部屋の中の空気がどんどん悪くなっていくのは、私と兄を挟むローテーブルの上に置かれた成績表と学力テストの答案用紙のせいだろう。もう一人の年の近い兄が一緒になって隣で正座をしてくれて私を慰めてくれるのがありがたいのと同時に申し訳なかった。
 どうしてこんなことになったのか分からない。カチカチと時計の針が規則正しく動く音だけが聞こえてきて、私はたまらなくなって顔を上げて視線の先の兄に声をかけた。
 左京お兄ちゃん、とちょっとだけいつもより可愛い声を出してみたけれど答案用紙に目を通している兄の表情は絶対零度の氷のように固まったまま動くことはなく、私は再び俯いて唇を噛む。今一言何かを言うとするなら『こんなはずじゃなかった』だ。
 ただ私は中学受験をしてあの可愛い制服に袖を通してみたかっただけなのに、現実はうまくは行かない。校区外のおしゃれで可愛い制服の学校。それだけで近隣の年の近い子たちのあこがれの眼差しを一身に集めることができた。私もそうなってみたかった。
 私には甘いと普段から自分で言っている左京お兄ちゃんなら私の願いを叶えてくれると思っていたけれど、甘かったのは自分の方だったようでそれ以上の言葉は浮かんでは来なかった。

「……この成績で聖フローラへ、か。いづみ、もちろん特待生にはなれるんだろうな?」

 スッと答案用紙から視線を外した兄がじっと私を見下ろした。
 えっと……、と私は言葉を濁す。今回の学力テストの結果は中の下と言ったところで、それを強く咎められるわけではなく眼鏡の向こうからただただ冷たい瞳で射抜かれ、息を吸うこともできない。なんの仕事をしているのか分からないけれど、忙しくて家にあまりいることのない兄がこんな目を向けてくるなんて思ってもいなくて少しだけ泣きそうになった。
 
「あー……それなら任せて、いづみん!お兄ちゃんが勉強ならちゃんと教えてあげるから!」
「うるせえ!一成、お前も受験生だろうが」
「うっ……」

 何も言い返すことができない私をフォローするように隣いた年の近い兄が私のこと思って助け舟を出してくれるが、うるさいと一喝されてシュンと肩を落としてしまった。そうだ、一成お兄ちゃんだって高校受験を控えていて私にかまう時間なんてないのに今日は付き合わせてしまって何をしているんだろう。

「よく聞け、いづみ。金も湯水のように湧いてくるわけじゃねえ。いくら俺がお前のために金を注ぎ込むのを厭わないとは言え、やる気のねえ奴に出す金はない。やるなら特待生になれるくらい死ぬ気でやれ。どうせ、制服が可愛いから通いたいとかそんな理由なんだろう。それならなおさらだ」
「は、はい……」
「話は以上だ」

 私の考えていることなんてお見通しだと、左京お兄ちゃんはそれだけを言い残して仕事へと行ってしまった。 
 バタンと扉が閉まると涙がジワリと浮かんできて目の縁いっぱいに溜まってくる。このままだと泣いてはいけないのに涙を零してしまいそうでぐっと拳を握って堪えるもポタリと一粒滴が落ちてしまうと、それ以上の我慢は利かなくて次々に涙が溢れ出てきた。

「悪い!遅くなった……ってなんで泣いているんだ、いづみ!?」
「う〜!!」

 本来なら同席してくれる予定だった真ん中の兄が勢いよくリビングの扉を開けて入って来たのを確認すると、私の瞳からはさらに大粒の涙が握りしめた拳に落ちた。

 泣き止まない私を見かねてはちみつたっぷりのホットミルクを作ってきた臣お兄ちゃんは机の上に無残にも置きっぱなしにされた答案用紙を手に取って苦笑いを浮かべていた。褒められるような点数ではないのだから、いっそのことガツンと怒られた方がどれだけ気が楽だっただろう。
 私は鼻をすんとすすりながら手渡されたホットミルクを一口飲み込んだ。ほんのりとした甘さが体の中に染み渡り、じんわりと体の中が温まって気分もさっきより落ち着いてくる。

「この点数じゃな……」

 グサッ。

「確かに難しいと思うけど……可能性はゼロじゃないと思うんだよね!」

 グサグサッ。
 落ち着いてきた、と思った矢先に傷口に塩を塗りこまれる。兄たちは私に気を使ってくれてはいるがその表情にははっきりと『無理だ』と書いてあった。
 兄たちみたいに賢かったらどんなに良かっただろう。いや、兄たちにできるのなら私にもできると発想を転換できない自分がいた。
 
「俺の先輩で家庭教師をしている人がいるから、頼んでみようか?」
「え、でも……」
「兄さんには俺からも言っておくから。ただし、いづみは自分で行きたいと言ったんだからちゃんと勉強するんだぞ?」




 キュッキュと拙い計算式が並んだプリントに赤い丸がいくつも描かれていくのを見て、私はわぁと歓声を上げる。
 家族会議から二週間後、臣お兄ちゃんの先輩だという茅ヶ崎さんが家にやってきた。こんなにかっこいい人は舞台の向こう側にしかいないと思っていたから初対面のときに挨拶もちゃんとできなかったのだ。
 もちろん後で左京お兄ちゃんには怒られた。それから何回目かの茅ヶ崎さんの訪問の日。
 今まで一成お兄ちゃんに教えてもらっても全く分からなかった算数が茅ヶ崎さんに教えてもらっただけですぐにできるようになるなんて信じられなかった。まるで魔法のようだと横に座る彼を見上げてすごいすごいと手を叩いてはしゃぐ、そんな私の様子を見て彼は頑張ったね、と微笑んで頭を撫でてくれた。それはさながら王子様の微笑みのようで私の幼心はキュッと鷲掴みにされてしまった。
 ドキドキと痛むように跳ねる胸の痛みに私は疑問符を浮かべながらも臣お兄ちゃんが言っていたことを思い出す。家庭教師の人がどんな人なのか不安で聞いてみたら『あの人はジンチクムガイだから大丈夫』と笑っていたのだ。
 それがどういう意味なのかは詳しく聞き忘れたけど、実際に会ってみてこんなに優しくてかっこいい人なのだから無害というのは間違いないと思った。それに兄たちは私に嘘を言わない。

「茅ヶ崎さんは家庭教師の経験があったんですか?すごく分かりやすかったです!」
「昔、近所の子にちょっと教えていたレベルだよ。さぁ、続きをやろうか」

 はい!と元気に返事をして私は再びテキストが広がった机に向かう。中学受験をすると宣言したすぐ後に左京お兄ちゃんが買ってくれたテキストは自分一人でそれで勉強するには難しくてきっと投げ出していただろう。もしくは途中で挫折し開くのを辞めていたかもしれない。
 そんな私を鼓舞してくれる目の前の王子様はまさしく救世主のようだった。この時、私は生れて始め勉強が楽しいと感じていた。
 新しい知識が自分の中に蓄積されていく感覚がどことなく気持ちよかっただけかもしれない。演劇鑑賞や兄たちと一緒に料理をするのとはまた別の楽しさが込み上げてくるのは何故なのかなんて、お話の中でしか恋を知らないあの頃の幼い私には分からなかった。




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