2-1

あの女に苛々する。
皇木円華という名の女だ。

台に並べられた湯飲み。
向かい側に腰を下ろすのは、あの女。
隊服の上に優美な羽織を纏う女は、何を考えているのか掴めないような微笑みを浮かべている。

「始め!」

神崎アオイの号令で、湯飲みの取り合いが始まった。
湯飲みを押さえ、押さえられの猛攻を繰り返す。
その澄ました顔面に、薬湯をぶちまけてやる。
バシャという音がしたかと思うと、俺の鼻腔を苦々しい悪臭が満たした。
苛々する理由の一つは、薬湯かけの勝負でこの女に勝てないことだ。
訓練を始めてから五日間、一度も勝った試しがない。
この女は動体視力と反射速度が抜きん出ている。

「はは!また円華ちゃんにやられてるな!」
「笑うな匡近ァ…」

匡近が馬鹿にしたような笑い方をした。
あの女と友人関係だという匡近は、以前から馴れ馴れしい呼び方をしている。
訓練を受けに来た他の隊士が、薬湯を被った俺を意外そうに見る視線が不快だ。
湯飲みを俺にぶっかけた女本人が、申し訳なさそうな表情を俺に向けた。

この女、皇木円華。
花柱の継子で、階級は甲。
年齢は俺の三つ下の十四だが、現時点で既に次期花柱として内定している女。
つまり、実力は柱と同等だ。

「もう一度だァ!」

躍起になっても、勝てない。
悔しさで苛立つ度に平静を失い、薬湯をぶっかけられる。
十戦交えて十回分を見事にぶっかけられた所で、薬湯かけは終了した。
今日も頭から肩まで薬湯臭い。
畜生、ただひたすら無様だ。
匡近が面白がって笑っているのも、俺の苛々に拍車をかける。

「お疲れ様でした」

女が俺に手拭を差し出してきた。
一瞬だけ視線が合うが、俺はすぐに逸らした。
髪から薬湯を滴らせる俺は、手拭を乱雑に引っ手繰るかのように受け取った。
女から離れて頭をガシガシと拭いていると、匡近が肩を小突いてきた。

「薬湯も滴るいい男だな」
「うるせェ」

人伝に聞いた話、この女は薬湯かけの勝負に負けたことがないらしい。
一体どんな反射速度をしてやがるんだ。

へらへらと笑っていた匡近も、俺を物珍しそうに観察していた隊士共も、あの女から続々と薬湯まみれにされた。
これだけ無様に薬湯まみれにされて、匡近たちが機嫌を損ねない理由が理解不能だ。
手拭で適当に頭を拭いた後は、鬼ごっこの始まりだ。

「いけ、実弥!
これならお前でも勝てる!」

匡近の台詞がいちいち癪に障る。
この勝負なら、俺でもあの女に勝てる。
一定の距離を取りつつ、俺は女と向き合った。

「始め!」

神崎の合図で、二人同時に板張りの床を蹴った。
勝てるとはいえ、どうしても時間がかかるのは事実だ。
この女は非常にすばしっこい。
その一方で、持久力や膂力なら俺が上だ。
俺は目を血走らせながら、こちらの猛攻をひらりひらりと回避する女を鋭く睨み付けた。
女の艶やかな髪が柔らかく靡いている。
その軽やかな身のこなしから隙を見つけられない。
落ち着け、取り乱すな、呼吸を整えろ。
思い切り手を伸ばして女の腕を掴んだつもりが、掴んだのは羽織の裾だった。
しまったと思った時、背中から斜めに引っ張られた女がふらついた。

「わ…っ」
「…っ!」

俺は反射的に女の両肩を掴み、転倒しないようにその体を支えた。
俺の胸板に背中が当たった女が、俺を見上げた。

「あの…ありがとうございます」

今までになく近い距離で視線が交わる。
長い睫毛と端正な顔立ち、それに肌は白くて柔らかい。
……俺は変態か?
何を考えてやがる!
俺は女の華奢な体をグイッと押すように離した。

「離れろクソガキがァ」
「申し訳ありませんでした」

女は丁寧に頭を下げた。
俺はさっさと女に背中を向けた。
訓練場の隅に立っていたガキ三人が女に駆け寄った。

「円華様!」
「大丈夫ですか!?」
「お怪我はありませんか…?!」

蝶屋敷で手伝いをする三人は、そっくりな目を潤ませた。
女は何事もなかったかのように、三人に笑顔を見せた。
確か、あの三人のうちの一人がすみという名前で、俺の亡くなった妹と同じ名前だ。
神崎が俺に厳しい視線を向けた。

「あまり円華にきつく当たるようでしたら、こちらにも考えがありますよ」
「…チッ」

匡近が俺の背中を押して誘導しながら、神崎に謝罪した。

「すみません、よく言っておくよ」
「そうしてください!」
「円華ちゃん、ごめんな」
「いえ、平気ですよ」

匡近がへこへこしている様子に苛々する。
その後も俺は、あの女が他の隊士から軽やかに逃げてみせる様子を睨み続けたのだった。





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