7

行灯が部屋に仄かな明かりを灯す中で、私は嫌な感覚が胸を掠めていた。
縁側に置かれた藤の花の御香が、安らぐ香りを漂わせているのに。
布団に入って目を瞑っていても、全く落ち着かない。
ついに起き上がって襖を開け、空を見上げた。
空一面を覆う分厚い雲が、私の好きな三日月を隠している。

「嫌な雲…」

この嫌な感覚は、鬼に遭遇した時と同じだ。
不気味な何かが胸の中を渦巻くような感覚。
そして、それはここから最も近い屋敷の方角から感じるのだ。
その屋敷に住む夫婦と小さな娘二人の四人家族は、昔から花野井家と懇意にしてくれていた。
野菜をお裾分けしてくれたり、釣った川魚を届けてくれたり。
こちらからも礼として、医師だった祖母と弟子の私で往診に行っていた。

「…気のせいなら、それで構わない」

独り言を呟きながら、鞘に収められた短刀を着物の帯に潜ませた。
日輪刀がない今、屋敷にある武器はこれだけだ。
父の遺品である日輪刀が屋敷の何処かに置いてあるのではないかと探してみたけれど、結局は見つからなかったのだ。

私は屋敷を出ると、一目散に走り出した。
ひと月程度前に十日間だけ鍛錬した体は、栄養失調を経て膂力が落ちている。
最も近い屋敷とはいえ、私の屋敷からその姿は見えない。
互いに人里から離れた山の麓で暮らしている。
目的地まで距離があるけれど、ただ走るしかない。

私が駆け付けてどうなるというのだ。
鬼を滅する日輪刀はないというのに。

屋敷の門戸前に到着した私は、口元に手を遣り、息を呑んだ。
何かを引きずるような血痕が、玄関から山の方へと続いている。
屋敷の明かりは全て消えていて、何の物音もしない。
格子戸の破壊された玄関から、土足で屋敷内へ入った。

生きていて、お願い…!

板張りの壁に血が飛び散っている中を、私は必死で走った。
けれど、私の願いは虚しくも届かなかった。
とある一室が、凄惨な状態になっていた。
人の形をしていた肉塊は、何か鋭利なもので細斬りにされたかのように散らばっている。
己の無力に打ちのめされている場合ではない。
室内に散らばっている夜着などを考慮しても、一人足りないのだ。
私は縁側から弾けるように飛び出し、血痕を追った。

もしかしたら、まだ間に合うかもしれない…!

婆様の時は、手遅れだった。
死に際には立ち逢えたけれど、それは鬼の手による惨殺の瞬間だった。
もう誰にもあのような哀しい思いをして欲しくない。

山の中を突き抜けるように進んでいると、刃がぶつかるような金属音や、悲鳴に似た声が微かに聞こえてきた。
これは鬼殺隊士の声と、鬼の雄叫びだろうか。
不意に暗闇の中で見つけたのは、女の子の体だった。
その小さな体が、腰から上下真っ二つに切断されている。
屋敷から続いていた血痕は、ここで止まっている。
私は咄嗟に駆け寄り、うつ伏せている上体の背中に優しく触れた。
まだ温かさが残っている体に、涙声で言った。

「…怖かったね」

可愛らしい笑顔で野菜を手渡してくれる女の子を思い出し、私は息が詰まりそうになった。
そうしている間にも、鬼殺隊士の声が微かに聞こえる。

「柱が来るまで持ち堪えろ!!」
「下山させるな!」

私は女の子に背を向け、声の方へと全力で走った。
木々の合間から見え始めたのは、明らかに鬼だった。
背丈が人間の倍以上ある、異能の鬼だ。
全身が獣のように毛深く覆われ、左腕の先端が巨大な斧に変化している。
その斧から血が滴り落ちていた。

間違いない、あの斧で罪のないあの子を殺したのだ。
許さない、絶対に許さない。

十人以上いる鬼殺隊士が、その鬼を取り囲んでいる。
既に何人かが倒れていて、目も当てられない姿の者もいた。
残酷にも、鬼は三人の隊士を一気に斬り捨てた。
飛び散る大量の血飛沫と、それを見た仲間の悲鳴。
私は悍ましい戦慄が全身を駆け巡るのを感じた。

何故だろう、私は昔にも似たような光景を見たことがある気がする――

足を負傷している男隊士を鬼が鷲掴み、大量に並んだ鋭い歯で頭を噛み砕こうとした時。
その動きが止まり、私へと素早く振り向いた。
赤黒い眼球に映るのは、右手で短刀を持ちながら、左腕の前腕から血を流している私。
止め処なく滴り落ちるのは、稀血だ。

「この匂い…稀血…稀血だな!!」

耳を塞ぎたくなるような、嗄れた低音の声だった。
鬼は喰おうとしていた男隊士を無造作に振り落とした。
良かった、あの人は助かりそうだ。
日輪刀を構える鬼殺隊士が二人、私に向かって叫んだ。

「逃げなさい!!」
「そのような小刀では殺せない!」

たとえ短刀でも、技は出る。
そして、月の呼吸で発生する幾多の三日月型の刃には、その一つ一つに殺傷力がある。
ひたすら斬り刻んで、援護が来るのを待つ。
来なければ、陽光で焼き殺すまでだ。
陽が昇るまで延々と刻み続けてやる。

「喰わせろォ!!稀血ィィ!!」

狂気の叫びを上げながら左腕の斧を振り上げる鬼に、私は短刀を構えた。
月の呼吸 参ノ型――

「炎の呼吸 壱ノ型 不知火!!」

鬼の頚が瞬く間に跳んだ。
私を救うように現れたのは、鬼殺隊の炎柱であり、私が恋焦がれる人。
炎を模した羽織を揺らしながら、身軽に着地したその人は、赫い炎刀を鞘へ収めた。
そして、鬼が塵となって消えてゆくのを確認せずに、私に素早く駆け寄ってきた。

「煉獄さん…」
「那桜!」

力強い両腕に抱き竦められると、涙が溢れそうになった。
緊張感に蝕まれていた体から力が抜けると、左腕の傷が痛むことにようやく気付いた。
煉獄さんの後に続いて、負傷者の救護をする隠や、援護の隊士が続々と集まってきた。
煉獄さんは私の両肩に手を置き、私の着物を染める赤い血を険しい表情で見た。

「何故ここにいる!?
怪我をしているのか!」
「私よりも、どうか彼らを」

私が視線を送った先には、鬼と勇敢に戦った隊士たちがいる。
ただ泣いている者もいれば、体を斬られて事切れている者もいる。
どうか、私よりも彼らを労ってやって欲しい。

「私なら軽症ですから」
「ここで待っていてくれ。
隠の治療を受けろ」
「分かりました」

隊士の元へ向かった煉獄さんは、とても逞しい背中をしていた。
私は煉獄さんに気付かれないように、そして隠れるようにその場を後にした。
待っていてくれと言われたのに。
来た道を戻った私は、あの子を探した。
再び見つけた時には既に、二人の隠が二つに裂かれた体を丁寧に運び、仰向けに横たえさせていた。
裂かれた体も、人懐っこい笑顔も、もう戻ることはない。
隠の二人は哀しげな目元をしていた。

「まだ小さいのに」
「可哀想だな…」

私が近付くと、隠の二人は私を見上げた。
鬼殺隊士でもない人間がいることに、驚いた様子だった。

「あなたは生き残った方ですか?
お怪我をされて…」
「その女の子はこの山の麓にある屋敷に住むご家族の一人です。
その屋敷で他の三人も犠牲となっています」

もう何も映していないその目は、恐怖で見開かれたままだ。
私は小さな顔についた土埃を指で拭うと、開かれた目蓋をそっと伏せてやった。
どうか、この子が次に生まれ変わったら、鬼に殺されるような未来が訪れませんように。

「後は…お願い致します」

私は隠の二人に頭を下げ、逃げるように駆け出した。
無力感と左腕の痛みに苛まれながら、涙が溢れるのを止められなかった。



2022.2.2





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