ペンギンの瞬間冷却剤

昨日は早朝に家を飛び出したかと思えば突然帰宅し、リビングで目を丸くする家族にこう言った。

『ご心配おかけしました、もう元気です!

だから今日はテニススクールを休みます!』

国光の言った通り、丸一日休んだ。
ゲームをしたり、華代と電話したり、お昼寝したり。
テニスに触れない一日なんて本当に久し振りだった。
脆くなっていた心も身体も、国光のお陰で回復した。


そして、都大会決勝当日。
あたしの緊張は微塵もなかった。
女子テニス部と男子テニス部の試合は同じ会場で同じ時間から始まった。
同じ会場とはいえ、コートだらけで広い会場ではお互いの試合が見えないし聞こえない。
こっちの試合が終われば、男子テニス部の決勝を観に行こうと思っていた。
でも、そう上手くはいかなかった。
先輩たちがタイブレーク続きで試合が長引き、更には最終戦のS1まで回ってきた。
つまりあたしに出番が回ってきたんだ。
最後はあたしのストレート勝ちで決まり、青学女子テニス部は都大会優勝を飾った。

『急がなきゃ…!』

「愛ちゃん待って!」

試合の後、桜乃ちゃんを含めた女子テニス部のメンバーで男子テニス部を応援しに向かった。
やっと観客席へと到着した時、あたしは目を丸くした。

『お兄ちゃん…?』

テニスコートには跪く観月さんと、それを見下げるお兄ちゃん。
何があったんだろうか。
審判によって青学の勝利が告げられ、歓声が上がった。

「リョーマ君の試合、終わっちゃったんだ…。」

桜乃ちゃんは残念そうに呟いた。
昨日は桜乃ちゃんと越前君が約束した土曜日だった。
昼休みにテニスを教えて貰う約束をしたらしいけど、越前君が遅刻して殆ど教えて貰えなかったと話していた。
越前君が意図的に遅刻したとは思いたくない。

「やあ、愛。」

『お兄ちゃん!』

帰宅準備をしていたお兄ちゃんがあたしに気付き、ベンチから話しかけてくれた。
国光もあたしの声で振り向き、視線を合わせてくれた。
あたしは皆の元へ行く前に、桜乃ちゃんにひそひそと言った。

『越前君に声かける?』

桜乃ちゃんは真っ赤になり、もじもじし始めた。
小刻みに頷いたのを確認すると、桜乃ちゃんと一緒にレギュラー陣の元へと走った。
あたしはキューピッドに奔走している。
優勝おめでとうございますと言うと、皆が同じように返してくれた。
その中で一人だけ無口なのが、あたしの好きな人。

『お疲れ様。』

「ああ。」

手を差し出され、あたしは首を傾げた。
ゆっくり手を出すと、突然強く握られて引き寄せられた。

『わっ…!』

思わず国光の胸元のジャージを掴んだ。
周囲の視線を一斉に集めてしまい、あたしの顔は熱くなった。
そのまま肩に手を置かれたけど、国光は前を睨んでいる。
何を見ているんだろう。

「何の用だ。」

「おや、手塚君。」

その怪しげな声を聞いて、あたしの肩がギクッと跳ねた。
熱かった顔が青ざめ、冷や汗が滝のようだ。
国光が睨んでいたのは観月さんだったんだ。

「んふっ、昨日聞いたばかりの噂は本当だったようですね。

君に交際相手がいる、と。」

『ち、違――』

「それが如何した。

お前には関係ない。」

国光に交際を肯定され、あたしは完全に硬直してしまった。
その時、観月さんの後ろに裕太お兄ちゃんがいる事に気が付いた。
簡単に声をかけられる距離だ。
目が合うと、お互いにハッとした。
あたしはすぐに逸らしてしまい、国光のジャージを強く握った。

「観月、僕の妹に何か用かな。」

にこにこしている方のお兄ちゃんが登場した。
でも、今は笑顔の欠片もなく、観月さんをきつく睨み付けている。
お兄ちゃんには観月さんと遭遇した事を話してあるけど、それだけにしては異常な怒りを感じる。
試合中に何かあったのかもしれない。

「僕はお借りした物を返そうと思っただけですよ。」

よく見ると、観月さんの右手にはペンギン。
あの使い捨ての瞬間冷却剤だった。
それを差し出され、あたしは無意識にますます国光にくっ付いた。
何故捨てないで持っているんだ!

「愛さんにお返しします。」

『…いえ、結構です。

それは使い捨てですから捨てて下さい。』

「それと、これはあの時のお礼です。」

『……あ!』

観月さんは左手に持っていたビニール袋から中身を取り出した。
なんと、あたしが好きな近所のお菓子屋さんのチョコレートマドレーヌが二つ。
透明なプラスチック製の袋に密封されているから、観月さんが毒を盛っているなんて事はない。

『ありがとうございます!

マドレーヌだけ頂きます!』

観月さんの前に高速移動し、マドレーヌだけを受け取った。
すると国光に首根っこを掴まれ、簡単に引き戻されてしまった。

『うぐ。』

「……愛。」

『ごめんなさい…。』

食べ物に釣られたあたしが眉尻を下げると、国光は呆れたのか、深く息を吐いた。
お兄ちゃんは依然として観月さんを睨んでいる。

「愛ちゃん、それって俺も好きなマドレーヌじゃん!

一個欲しいにゃー!」

「俺も俺も!」

菊丸先輩と桃先輩だった。
菊丸先輩があたしの手首を掴んで引っ張った。
国光はそれを止めず、あたしは二人の先輩に連れられてその場を離れた。
試合をしていたコートが見えなくなるまで移動し、人の多い広場へとやってきた。
二人はあの状況を見かねて助けてくれたんだ。

『ふー…ありがとうございました。』

「愛ちゃんも大変だにゃあ。」

良いタイミングで助け出して貰えた。
あのままあの場にいたら、猛ダッシュで逃走していたかもしれない。
二人の先輩に心から感謝した。

『あ、マドレーヌいります?』

「いるいる!」

「ちょっと、俺にもくださいよ!」

国光とお兄ちゃん、大丈夫かな。
マドレーヌを頬張りながら、恋人と兄に思いを馳せた。



2017.1.9




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