前夜の電話

管弦楽組曲第3番「アリア」
華代が弾いてくれたその曲は、荒んだ心を癒してくれた。
華代は音楽音痴のあたしに説明した。
G線上のアリア≠ニいうと通じる人も多いかもしれないけど、それは作曲家のバッハの死後、天才バイオリニストによってアレンジされたものを言うらしい。
バイオリンのG線という弦だけを使って弾くのがG線上のアリア≠ネんだとか。
あたしたちが俗に聞く有名なアリアは、G線上のアリアじゃないらしい。

とりあえず、あたしは音楽に無知過ぎる。
もっとクラシックについて勉強しよう。
華代は絶対に有名なバイオリニストになる。
絶対、間違いない、これは確信だ。
帰国したらCDショップに行って、色々なクラシックを借りよう。
お気に入りがあったら、華代に弾いて貰うんだ。

『よし、忘れ物はなし。』

現在、夜の9時。
飛行機の出発時間は朝7時で、家を出るのはその2時間前。
早朝5時起きだけど、お母さんに頼んで叩き起こして貰う予定だ。
パジャマ姿のあたしはトランクやテニスバッグの中身をしっかり確認していた。
国指定のジャージ、お気に入りのスニーカー、ラケットも5本。
他にも日用品などをばっちり突っ込んだ。

「愛、少しいいかな?」

『お兄ちゃん?』

廊下から柔和な声が聞こえて、あたしは部屋のドアを開けた。
既にパジャマ姿のお兄ちゃんは、何故かスマホを手に持っている。

『如何したの?』

「はい、これ。」

『ん?』

何故かスマホを差し出され、何かの画像を見せてくれるのかと思って覗いてみる。
其処に映っているのは手塚国光≠フ文字。
通話中になっている。
あたしの動揺はMAXになった。

『え、え、え、え。』

「愛と話したいんだって。」

『手塚先輩が…!?』

「ほら、あまり待たせちゃ駄目だよ。」

お兄ちゃんはあたしの右手を取ると、掌にスマホを乗せた。
いきなりこんな展開ありなのか。
あたしが硬直していると、お兄ちゃんは何時ものにこにこを向けた。

「じゃあ僕はリビングで待っているよ。

終わったら返しに来てね。」

『ええっ?!』

お兄ちゃんは手をひらひらさせ、リビングへ行ってしまった。
あたしは未だにスマホを耳に当てられずにいた。
ドキドキが止まらない。
落ち着け、落ち着くんだあたし。
部屋のドアを閉め、ふーっと深呼吸をした。
そしてドアに背中を預けたまま、恐る恐るスマホを耳に当てた。

『も、もしもし。』

《不二か。》

『はい、妹の方です。』

《手塚だ。

夜分遅くにすまないな。》

『いえ、構いませんよ。

如何かしましたか?』

手塚先輩がお兄ちゃんを通してあたしに連絡してくるなんて。
緊張を通り越して失神しそうだ。
スマホを持つ手が震えそうになる。
あたしよ、落ち着くんだ。
平常心、平常心。

『もしかしてあたし、書記の仕事で何か大きな失敗でもしてしまいましたか…?』

《いや、そうではない。》

じゃあ何の話だろう。
昨日あんな事があったから、凄く話し辛い。
手塚先輩のブレザーは温かくて優しい匂いがした。
身体を支えてくれた腕は大きかった。
はっ、もしかしてブレザーによだれが付いていたとか!?

『も、もしかして、よ、だれ…。』

《?》

『はっ、あたしに生徒会クビのフラグが――』

《不二。》

『はい!』

名字を呼ばれ、背筋を思いっ切り伸ばした。
電話越しだから見られていないのに。

《明日からオーストラリアへ行くんだろう。

一言だけ言わせてくれ。》

『?』

あたしは首を傾げた。
数秒間の沈黙が訪れた後、手塚先輩が何時ものトーンで言った。

《油断せずに行ってこい。》

油断せずに行こう
これは手塚先輩の決め台詞。
この電話はあたしへの激励の電話だったんだ。
好きな人との電話にドキドキは止まらないけど、心が温かくなった。

『はい、行ってきます!』

しっかりと返事をした。
嬉しくて、嬉しくて。
これで明日から頑張れる。
手塚先輩はいい返事だと言ってくれた。

《突然電話してすまなかった。》

『いえ、いいんです。

あの、お電話ありがとうございました。』

《俺の方こそ、ありがとう。》

『え?』

如何して手塚先輩がお礼を言うんだろう。

《また学校で逢おう。》

『は、はい…おやすみなさい。』

《ああ、おやすみ。》

スマホを耳から離すと、暫く通話中の画面を見つめていた。
手塚先輩から切って貰うのを待つ。
通話終了の画面は静かに訪れた。

『き、緊張した…。』

あたしはその場にへたりと座り込んでしまった。
でも好きな人の声が聞けたのが嬉しくて、お兄ちゃんのスマホを大切に胸に抱いた。



2016.11.24




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