蝉は、場違いだとは思わないのだろうか。身体が感じる気温は涼しく、肌寒くさえある。こんな気温に、場違い過ぎる蝉の鳴き声は、どこか虚しく響いた。
露出された腕を頻りにさするみょうじにほんの少しだけ目をくれて、すぐに視線を下に落とした。
頬を撫でる風は冷たく、足元には既に朽ちた命。茶色い羽は片方しか無くて、もう一枚は何処へ行ってしまったのか。二枚の羽で蒸し暑い青空を飛びまわっていた記憶さえ、今は懐かしい。

夏が終わった。
隣を無言で歩くみょうじの制服のスカートから伸びる足は西日を浴びて、健康的な小麦色に赤みを足している。
それにしても少し短いんじゃないか、スカートの丈。眉根を寄せて彼女の膝を眺めていると、蝉の鳴き声に混じって、か細い声が聞こえた。

「どうかした?みょうじ。」

一歩踏み出しながら後ろを振り返る。だが、立ち止まっているみょうじを見て、踏み出した足を元の位置に戻した。俯く彼女の垂れた前髪の隙間から覗く瞳は、一心に地面を見つめている。

「私だけでいいの?」
「何が?」
「見送り。」

そこでやっとこちらを見たみょうじの表情は、形容し難いものだった。いや、簡単に一言で済ませていい表情ではなかったと言い直そう。きっと、彼女のたくさんの思いが生み出した表情がそれなのだ。

「ああ、俺が、これがいいんだ。」

その代わり、みんなにちゃんと伝えてくれよ。

「ごめん、って。」

再び俯いてしまった彼女に、困ったように眉を下げた。
最初から、こんなに深入りするつもりは無かったんだ。アメリカで果たすべき夢はまだ終わってないし、叶うまで終わらす気も無い。
ただ、彼らとやるサッカーが面白くて、楽しくて。何より、みょうじがいるこの場所から離れたくないと思った。
それでもやっぱり、全部が適当に、思い通りいくように人生は出来てない。中途半端に残してきたもののツケは、いつか何倍にもなって返ってくる。
丁度区切りがついたこの夏の終わりに、アメリカに戻ってくるように言われたのは、ある意味幸いだった。置き忘れてきた大事なものに気付いたから。だが、ある意味、残酷でもあった。
短かったけど、蝉よりは長かったなぁ、なんて皮肉が浮かんできて、思わず口元が緩む。二、三歩後方の片羽の蝉に、親近感と愛おしさを感じていると、先ほどと同じか、それ以上にか細い声が聞こえた。

「ありがとう、でしょ…?」

彼女の弱々しい声は、重力に従って地面に落ちていく。
みょうじ、と半分開いた口をぐっと閉じた。みょうじの顔が上がり、まっすぐに自分を見つめている。

「ごめんじゃないよ…一之瀬君が言いたいのは、みんなが言ってほしいのは、ありがとうだよ…。」

こんなときに逆光で、彼女の顔がよく見えない。震える声に誘われて、一歩、また一歩と近付いていく。

「みょうじ。」

目に涙を溜めて、頬と鼻を真っ赤にして。そんなみょうじに顔を寄せると、驚いて閉じた彼女の目から、涙がこぼれた。悲しみと悔しさの雫で濡れた頬に、そっと指で触れる。
蝉の鳴き声がお構いなしに大きくなって、まるで空から声が降ってくるようだ。

「ありがとう、なまえ。」

使い慣れてない二つの単語に、自分で言っておきながら恥ずかしくなる。下の名前で呼んだのなんて初めてだ。唇がむず痒くなったが、不思議と嫌な気分では無い。
今まで英語でしか言わなかった感謝の言葉も、くすぐったいと思うだけだ。
嬉しそうに微笑むみょうじの頬に乗せていた指を離して、彼女の肩を持つ。涙をこぼしながらも笑っていた彼女が不思議そうに首を傾げた。
いっそう大きくなる蝉の鳴き声の勢いに任せて、みょうじの肩を引き寄せる。
蝉の儚い命の期限より短い。
ほんの一秒。本当に一瞬だけ唇を重ねて、というより触れるようにして、彼女から離れた。

「お別れのキスだよ。」

そう言っていつもの決めポーズにウィンクをするが、上手く出来てるか自信が無い。すぐに右手を下ろし、みょうじに背中を向けて歩き出した。
さっきまであんなに煩かった蝉の声は、何故かもう聞こえない。

「お別れなんて言わないでよ…、一之瀬君のばか!」

だから、こんなにも大声で叫ぶ彼女の声が、更に大きく聞こえてしまう。

「馬鹿だよ。」

自嘲気味に言い捨てて、再び鳴き出した蝉の声を背中で聞きながら走り出した。

足元に転がる蝉に立ち止まり、来た道を振り返る。ものすごく遠くに、真っ赤な夕日に包まれている彼女が見えた。
蝉は地上に出て一週間で動けなくなってしまうけれど、俺はまだ動ける。



(また会う約束)


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