視線を感じたとか、野生の勘だとか、そういうのでは決して無くて、ただ気紛れに、窓側に目を遣った。午後の授業、昼食後、睡魔と手を取り合うには都合が良い条件が揃う中、私は眠らないよう必死だった。教師の声が子守唄のように、上の空の脳に響く。誰かが机に突っ伏して立てる寝息と混じって、それらは段々と遠くなっていく。脳から、小さな音さえもがすっかり消えた頃、私は自分が見ているものが何なのか、やっと理解した。一之瀬くんの黒い瞳、だ。
伸びた雲が薄い空色に溶けて消えそうになっている。同じようにして微睡みに溶けていく瞳に、じっと此方を見つめる一之瀬くんが映る。薄く開いた一之瀬くんの唇がぱくぱく動いて、何かを私に伝えようとしている。ゆらゆらと揺らぎながら沈んでいく瞼に閉じ込められて、口角を少しだけ上げて微笑む一之瀬くんは、見えなくなっていった。
こんにちは、そう言って睡魔がにこりと笑っている。
「みょうじ」
腕が感覚を無くしてだるくなってきた。目を開くと、いつの間にか教師が居なくなっていて、何故か生徒も消えた教室に、私を呼ぶ声がした。緩慢な動作で顔を上げると、眠りに落ちる前と同じようで違う光景が目に入った。同じなのは、人物とそれの表情。違うのは距離。私の前の席に腰掛けた一之瀬くんは、また私を呼んだ。次は大声で。
「みょうじなまえー!」
「…聞こえてます、というかクラスメートの皆さんはいずこ」
「ああ、移動教室だね」
にこやかに答える一之瀬くんに、靄が掛かったようにぼんやりとしていた頭が晴れていく。移動教室、確か次は理科の実験だった筈。どうやら寝過ごしたらしい。何故誰一人として起こしてくれなかったのだろう。一之瀬くんも、居たのなら起こしてくれたら良かったのに。
「…サボり?」
「みょうじが居るから」
にこやかに、更に砂糖みたいな甘さも加えて一之瀬くんは私が居るからサボるのだと言った。人のせいにしないでほしい。
一之瀬くんと私以外の生徒が消えた教室は、どことなく寂しさが漂う。見回しても誰も座ってない椅子が並ぶばかり。たまに机上に置き去りにされた教科書が、誰かがそこに居たということを想像させる。今は丁度陽の当たらない時間で、静かな教室に薄暗さが一層映えた。
「ふ、わあああ」
背筋を伸ばして大きく息を吸う。ついでに伸ばした手足がほぐれて気持ち良い。一之瀬くんを見ると、楽しげな笑顔。
「あは、変な声」
「失礼な」
目を細めて笑う一之瀬くんにすかさず言い放って、また机に伏す。寝ちゃうの、と言って口を尖らす一之瀬くんは、同じように私の机に頭を置く。必然的に間近くなる顔は、言うならばまさに目と鼻の先。一之瀬くんの天を向く長い睫毛がまばたきで震える一瞬さえ見える。
「何故私と同じ机に」
「気にしない気にしない」
音を立てて椅子を引き、完全に眠る体勢になった一之瀬くんは、そっと目を閉じる。本気で私と同じ机で寝る気のようだ。私は、気にしない、けれど。
目尻に流れる一之瀬くんの黒い睫毛を視線で撫でる。少女の寝顔のようにも見えて、しかしそこらの女の子よりも可愛らしい。こんな人と鼻を突き合わせて寝るなんて、夢にも思わなかった。実際には先程見ていた夢は、綺麗さっぱり忘れてしまった。人の記憶力なんて所詮この程度、特に夢に関しては全く働いてくれないも同然だ。
そこで、もう寝たのだと私が勝手に思っていた一之瀬くんの滑らかな瞼が、微かに動いた。彼は薄く瞼を持ち上げて私を視認すると、また閉じて、代わりに口角を上げた。
「みょうじ、」
ぼそりと囁く一之瀬くんに、私は続きを促すような適当な返事をする。顔が近いので、自然と内緒話等をするような声の音量になった。
指通りの良さそうな一之瀬くんの焦げ茶色の髪の毛が、重力に倣って彼の瞼に掛かる。くすぐったいらしく、彼は頭の下に引いた腕で顔を擦った。右に左にと一之瀬くんの頭が揺れて、漸く此方を向いた時には少し潤んだ目が開かれていた。そして口を小さく動かしてこう言う。
「寝てる間にキスとかしても良いから」
後ろに、寧ろしてくれると嬉しいな、などと一之瀬くんが付け加えるが、私にはそれは聞こえなかった。もし聞こえていたとしても、忘れてしまったかもしれない。
ただ私は、一体どういう目的があって一之瀬くんがそう言ったのか、それだけを考えていた。頭が混乱する。そうだ、目的云々は関係無く、彼にしては軽い冗談だったのかもしれない。そう冗談だ、違いない。それにしても悪い冗談だ。
そんなことを私が考えている内に、当の本人は肩をゆっくり上下させ始めた。私だけを困らせて自分だけすやすやと寝るなんて、一之瀬くんはまったく酷い人だ。彼の頬をつねって、爪を立てて、痕がつくくらい強く押したい衝動に駆られる。
「何だか、私の癪に障ってしまったみたいですよ、一之瀬くん」
寝息に掻き消されてしまいそうな程小さな声で呟いて、一之瀬くんの頬に指で触れた。しかし私は、つねったりも爪を立てたりも、ましてや痕がつくくらい強く押すなんてこともせずにそのまま指を滑らせる。
不意に、一之瀬くんを困らせたい、と思った。冗談で言ったとしか思えないさっきの一之瀬くんの言葉、本当に私が実行したら彼はどんな反応をするだろう。
興味と悪戯心が九割、残りの一割は私の計り知れない感情で、静かに顔を近付ける。心臓が大きく跳ね回って、喉から出てきそうだ。何故私が緊張するのか理解出来ない。
ええい、と一気に距離を詰めて唇を押し当てると、温かくて柔らかい感触。ちなみに私はこれが初めてだ。よもや初めてが自分からで、まさか相手が寝ているときで、しかもその相手が一之瀬くんだとは、夢にも思わなかった。
それにしても、唇にしたのはやり過ぎ、だったろうか。でも一之瀬くんはキス、と言ったし、ああでもそれは冗談で、私は一体、何をしているのだろう。
影の落ちた教室内に、私の思考が漏れ出して漂う。黒板に跳ね返って床に落ちたり、ふわふわと廊下に出ていったり。
そうして悶々としていたら、ふと何かが腹に落ちてきた。
「あ、…なるほど」
というよりもそれは溢れ出す思考の中で、唯一最後まで残っていたものだ。なるほど、得心。
「一割は願望、だったみたいですよ」
雲が透けて向こうの空色が見える。一之瀬くんの目が、嬉しそうに弧を描いたような気がした。
091121/めぐり
一貫性とネーミングセンスが欲しいです