ひんやりとした石造りの床は自身の体温を確実に奪っていく。呼吸さえもか細くなる中、苗木は小さく身震いした。
到底耐えれぬであろう喉の渇き、目は満月に照らされ本性を露にし、胃の粘液すら確固たる食料を求めているようでぐるぐると巡る。
辛い。思わず呟けばそんな僕の様子を黙って見ていた男がぎしり、と椅子を鳴らし声を発した

「ツマラナイ」

それは何に対しての言葉なのか。今の僕の姿か、心中に渦巻く思いに向かってか、それともまったく関係のないことか。
ぼーとしながらゆっくりと顔を動かし彼を見上げれば、椅子に据わっている彼の目と僕の目がすれ違う。
僕と同じ赤い目。血を一滴二滴、静かに零したかのような透き通る目の色に一瞬目を奪わえる。が、すぐに彼が目を閉じてしまったので瞼の奥底に沈んでしまった。

「貴方は、ツマラナイ」

男はもう一度言う。今度は何に対してなのかを明確にして。全身の気だるさに苦痛を感じながらわけが分からないので眉間にしわを寄せる。
ツマラナイというのは僕のことだったのか。しかしそんなことを言われても今胃の中に何も入っていないので死にかけているも同然。
床に転がって何も出来ないのは致し方がないことだろう、と思ったがどうやらそうではなく彼は更に続けた。

「貴方はとてもツマラナイ人だ」
「…っは、あ…」
「闇の中にひっそりと生き、誰にも知られずに命を失くす定めに生まれたケモノ」

存在自体の否定ということだろうか。淡々と語っていく男の言葉はどうやらそういうことらしく、それこそ興味のない瞳で僕を見ている。また赤い目。

「きっと放っておいたらその定め通り貴方は消えてなくなるのでしょう」
「…」

彼の言葉に僕は唇を噛み締める。そうだろうな、どうしようもないこの倦怠感と目眩、ひりひりとする皮膚は恐らく危険信号。
異端な存在である僕が死を示す消滅まではあと少しのはず。冷たい床にがり、と爪を立てなんとか立ち上がろうとしたがそれすらも必ずただ爪先に傷をつけるだけだった。
血を求め徘徊するケモノの存在など世に知られたらそれこそ滅亡の危機。どれだけ特殊な力を持とうとも、人類の文明の発達には叶わぬこと。
ひっそりと今まで生きてきた僕がどうしてこんな目に合わなければならないのか。
虚しいような悔しいような想いが目尻を熱くさせ下唇が震えてきた。こんなところで、誰にも知られずに、僕は消えてなくなってしまうのか。
その事実だけが心を貫き今の僕をひたすらに追い詰めていった。

「ッ、う、う」
「それでも希望に縋ろうとするのですね」
「…僕は、っ、死ねない」
「死にますよ。今のままなら確実に」

男の辛辣な言葉に心が折れそうになる。涙が溢れそうになる。しかし、それでも僕は何度も爪先で床をがりがりと掻いた。

「っは、あ、う、」

人の死は心臓が止まっている状態を指す。体は残り、人々に見送られ葬られるのが正式の形だ。
綺麗な花々に囲まれ涙する者に見送られるというのはどれだけ幸福のことか。惜しまれる存在というものに憧れを感じてしまう。
けれど僕は違う。体は灰と化し花々や涙に見送られることなく存在ごとの消失。それはどんな死の形より残酷なことだと僕は思う。
だからこそ、そんな死に方は嫌なのだ。餓えて死ぬなど滑稽すぎて自分でも笑ってしまう。

「ッ、嫌、だ…!」

消えたくない。人々の記憶に残らずそこに最初から何もなかったかのように世界が有り続けるなど、そんなことは嫌だ。

今の自分はきっと惨めだろう。死を恐れ必死に床を引っ掻く姿など客観的に見たら哀れむものだ。
プライドなどない。命あるべき存在として小さな灯火に手を何度も何度も伸ばす。孤独なケモノとしての最後の願い。

「…」
「っひ、う、あ、あ」
「…貴方は」
「はぁ、は、ふう」
「…」

暫く僕を眺めていた男だが、何故か突如こつこつと靴音を鳴り響かせながら僕に近づいてきて、片足を床につけた。
至近距離にある赤い目はケモノの僕の目とはまったく違い、陰りのある色だとようやくここで分かった。
まるで何もかも色を通していない、世界と自分を別個と考えているかのような目。不思議な目だ、思わずじいと見続ければ男も同じように僕の目を見続けた。

「…どうも、解せませんね」

そのまま独り言かのように言葉を呟き、すっと手を伸ばしてくる。
大きな手のひらがこちらに向かってくるのを感じ反射的に目をぎゅっと瞑れば、ふと鼻腔が何か香ばしい匂いを嗅ぎとる。くん、くん。

「…え」

この匂いは。瞑っていた目をそっと開けば、視界いっぱいに広がるそれに驚いて目を見開く。

「…どうして」
「…」
「…血を、くれるの」

震える声になりながらなんとか疑問を口に出せた。その言葉通り、男は今僕に向かって親指を差し出しておりそこにはぷっつりと血が溢れてきている。
濃厚で美味しそうな匂い。くらり、ぐらり、目眩が襲ってくるがなんとか意識を保ちながら僕は彼を見た。

「別に、大した理由はありません。ただ僕はこの違和感の名前を知りたいだけなのです」
「いわ、かん?」
「はい。貴方を見ていると湧き出てくるこの違和感。苦しいような切ないような、非常に曖昧なもの」
「…」
「貴方が死んでしまったらそれこそ永遠にその名前を知ることが出来ないでしょう」

抑揚もなく紡がれる言葉は意味が分からなかった。僕を見ると沸く違和感。それは一体どういうものなのか。
勿論当人ではない自分にその感情の名前など分かるわけもないし、そんな感情を持たせた覚えもない。
荒くなる呼吸で静かに聞いていたが、彼はもう話はないと言わんばかりに親指を僕の口元まで持っていく。

「どうぞ」

短い言葉。とろりと流れ出てくる鮮血は自身の大好物であり今自分が一番欲していたもの。我慢など出来るわけもなかった。
この命が繋ぐのならば、と僕はうっすら唇を開きその親指を向かい入れた。瞬間舌先に転がる味わいに快感に近いものが全身を這い心臓を思わず掻き毟りながら親指にむしゃぶりついた。
子供が母親の指を舐めるように僕はちゅうちゅうとその甘美な味に酔う。きゅううんと心を締め付けられながら満たされるものに僕は耐え切れず頬に涙を伝わせた。あぁ、美味しい。

「…柔らかい」

男はそんな僕を見て一言、そんな感想を漏らすと窓に視線をうつす。赤くまんまるい月が二人の目のように光っていて、それはまるで幻想の世界のようで。
ざわつくこの違和感に胸を痛ませながら無性にこのケモノの頭を撫でたくなる衝動を抑えた。
名前も分からぬ感情といのは一番困るのだ。特に、このようにむず痒くてイトシイというものに似た、違和感は。

「、ツマラナイ」

そう、きっとこの違和感もツマラナイもの。それでもその正体を見極めたいと思ったのは何故か。
じわりと体温が上がっていくのを感じながら男はひたすら自問自答を繰り返すのであった。



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