ぴちゃん、ぴちゃん。薄暗い部屋に絶えず響く水音。不気味な程静かなこの部屋に、その水音はひどく異常で僕はぎゅっと目を瞑ったまま息を殺した。
清潔で殺風景な部屋にたった一つだけの音。それはまるで世界にたった一つの音のように感じ、ひときわ孤独を際立たせる。
なんだか寒い。気持ちが悪い。嫌だ。早くここから出たい。鼻をひくひくとさせればすぐに鉄臭い香りがぶわりとこみ上げてきたため僕は体育座りをしてぎゅっとズボンを握った。

「…あ」

外からは狼の遠吠えが聞こえ、赤いまんまるい月には無数の影がかぶさるのが見える。
あぁ、一年に一度のパーティ。皆は存分に満喫しているようだった。異端な存在が堂々と現に姿を現すなど今日しか出来ぬこと。
ハッピーハロウィンの魔法が見せる一夜だけの幻なのだから、出来れば僕もそこに参加したかった。

「あれ、苗木まだすませてないの?」

そんなことを考えていたらぎい、とドアが軋む音と共に男の声が鳴り響く。どうやら帰ってきたらしい。この部屋の主が。
直ぐ様筋肉が緊張してかたくなってくるのを感じながら僕は恐る恐る声の方を見た。

「えの、しまくん…」
「お腹すいたんじゃないの?」
「ッ、すいて、ない」
「嘘ばっか。もう三日三晩食べてないじゃん。胃も、喉も、脳も、欲しているはずだよ」

近寄ってきて江ノ島くんの綺麗な指先が僕の頬を撫でる。繊細な手つきで撫で上げられぞくりとしたものが背筋を襲ってくるが、その奥底に眠っているものは快楽でも悦楽でもない。
…食欲。三日三晩食わずにいた僕の体は人の体温にひどく敏感であるようだ。36度程の温度を脳が感知した瞬間胃がざわつき始めた。

―――――これはまずい。ぶるぶると身を震わせ湧き出てくる食欲を忘れようとする。

だがそんな僕を江ノ島くんは愉快そうに見ていて、ぐいと手首を引っ張ってきた。

「うわっ」
「お腹すいたんだろ?はいはい、おいで」

江ノ島くんにしてはひどく優しげな声。彼に似つかわしくない声音に強烈な違和感を感じる。
一体どういうつもりか、訝しげに彼の背中を眺めていたが、向かう先を見てその企みを理解した。

「…っ!!」
「うわ、何いきなり暴れだしてんの」
「い、嫌だ、そっちは行きたくない!」

江ノ島くんは今、あそこに向かおうしている。先ほどから香るこの匂いの元凶のところへと。
それを察した僕は手を振りほどこうと暴れたのだが江ノ島くんの力はそれを上回りずるずると引きずっていく。
寧ろ僕が嫌がって叫べば叫ぶほど嬉々とした表情を浮かべ「悲痛な叫びをBGMってのも粋なもんだ」と笑ったが、何が粋なものか。彼は粋という日本語を間違って覚えている。

「やだよっ江ノ島く、やだっ!」
「なあ、知ってるか。なんかの本で読んだんだけど、赤って食欲をそそる色らしいぜ。残酷な程真理だと思わないか。特にお前らにとっては」
「ッ」
「獣に理性なんて必要ねえんだよ、苗木」

含みを秘めた言い方。とたとたと廊下を歩く僕たちの足音でさえ消しきれぬ呟きに僕は気付かぬふりをする。聞きたくない。
いっそのこと耳を両手で覆ってしまいたかったが片手をしっかり掴まれている今それは叶わぬ願い。
徐々に濃くなる匂いに僕はくらりとしためまいを感じながら素直にぐぎゅりと鳴る胃をなで上げた。頼む、我慢してくれ。










「ほら」



だけど、あぁ。江ノ島くんは素晴らしい絶望を僕の前にお披露目してくれた。


連れてこられた場所は、先ほど僕がいた部屋とはまた違う部屋。同じように清潔で殺風景な部屋が広がっていたが、決定的に違うものが一つあった。




宙にぶら下がる体、みっつ。


ぷらんぷらん、まるで呼吸をするかのように揺れる体から濃厚な香りが鼻をさす。


ぴちょん、ぴちょん。聞き覚えのある音もそこから聞こえた。みっつの体の下、散らばる肉片と共にくすんだ色が液体としてそこにある。



――――――あぁ。



くらくら、くらくら、やはり来るべきではなかった。こんなもの、こんな、こんなひどい光景。

「さぁ、苗木のために用意したんだ。お食べ」

…胃が、我慢できるわけがない。窓から覗く赤い満月と同じよう眼が濁っていくのを自分でも分かりながら、為すすべもなく享受し僕は喉を掻き毟った。
耐えていた渇きが、今すぐそこにある。じりじりと焼かれるかのような痒みも同時に襲ってきたので、僕はそれこそ抵抗できる間もなく床にある液体に舌を這わせてしまった。あぁ、美味しい。
すぐ後ろで江ノ島くんが獣と化した僕を恍惚とした表情で眺めていることなど気づかずに、僕は喉の渇きを癒すためにひたすら真っ赤な液体に脳をぶん殴られているのであった。


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