甘味と苦味
こんこん。小さなノック音が部屋に響く。12時を周りしーんとした空間で、眠気が襲っていたときにその音はちょうどいい目覚ましになり、傾けていた首を持ち上げた。
危ない危ない。あと少しで爆睡するところだったな。深い眠りにつく前で良かった。ほっとしてから「どうぞ」と一言、ノックしてきた者に入室の許可を示す。
「失礼するわ」
ぎい、入ってきたのはスーツ姿の霧切さん。こんな時間に珍しいな、と思いながら椅子の向きを変え「霧切さん」彼女の名前を呼んだ。
彼女はその声に答えることなく代わりにドアを閉め、ゆっくりと近付いてくる。その片手に握っているものがちらちらと視界に入ったが、あえて聞くことはしなかった。
しかし湧いてくる期待はじわじわと染み渡り、口元を緩ませる。目覚ましついでに彼女はとんでもないものを持ってきたようだ。でれ、とも言うべきなのだろうか。
こつこつと良い音を響かせながら僕の部屋をゆっくり見回す霧切さんの表情にいつもと変わりはなく、つんとした澄ました表情。
クールで人を寄せ付けぬその表情と手元にあるもののギャップがひどく強烈で、だがこちらからそれを問うのはつまらない。彼女の言葉をひたすら待った。
「…最近、遅くまで起きてるのね」
暫くして口を開いた彼女の言葉はそんなものだった。緊張も熱も篭っていないその声だが、何故だか視線を僕に合わせない。
じい、と切れ長の目を壁に立て掛けられた絵画を向けその横顔を僕の目に映している。綺麗だな。ぼんやりと思いつつ僕も口を開く。
「仕事が中々終わらなくてね」
「まだ慣れないの?」
「あはは、まあ、うん」
「相変わらずね」
刺々しい言葉。いい加減この書類作業にも慣れろと言わんばかりの言葉だが、そんなものはもう慣れっこ。
彼女のこの刺々しさに悪気はなく、いつだって相手のことを考える心優しい人なのだ。よく誤解もされずが長年の付き合いである僕はそれを知っている。
くすりとつい笑みが出てしまうのを隠しきれずにいると、直ぐ様霧切さんの「何笑っているの」という怪訝そうな声が飛んできた。
「いや、別に」
「…私はなにか笑われるようなことしたかしら?」
「違うんだ。ちょっと、嬉しくてね」
「嬉しい?」
今度は怪訝そうな声だけでなく顔もこちらに向く。わけが分からぬといった風な顔。その顔にまたくすくすと笑いが出てしまう。
彼女は自分でも気付いていないのだろう。その優しさ、僕にだけ向ける感情の違い、勘違いではないであろう特別的なナニカ。
本人すら自覚していないそのものに僕が先に気付いたのは何故か、と問われれば自分は小難しい顔で黙ってしまうはずだ。
実質上確信を持てる態度や言葉をはっきりと示されたわけでもないのだから自分の思い違いという可能性も万が一にもある、のに、そうではないと言い切れるのは、本当に何故か。
他人からしたら笑われそうだが、僕は霧切さんを見る。彼女と目線がばちりと合った。綺麗な目。深い深い紫色。しかし、すぐにふいっと背けられた。
そのことにまたじわじわとしたものが滲むのを感じつつ僕はそろそろ我慢出来ず、霧切さんの手に持ってあるものに再度視線を送った。
「…ね、その手にあるもの」
「…」
「それ、僕のために持ってきてくれたの?」
「…」
「ねえ、霧切さん」
彼女が僕のために用意してくれたのだ、その手にある、湯気を揺らめかすもの。
…、ココア。
その事実だけでとても満たされ得意げな気分になってしまう。言葉はない。それらしい態度もない。でも彼女がこうして動くことって、結構貴重なこと。
あぁだめだ口元がだらしなく緩んでしまう。こんなことぐらいで馬鹿だな自分は。つくづく思う。霧切さんもそう思っているらしく、冷えた眼差しを送ってくる。
温度差を感じなければいけない場面なのだろうけど、その眼差しの奥に隠された色に目ざとく気付いてしまった僕はどうも笑みが止まらない。
「…いらないのなら私が飲むけど」
「えっいらないなんて言ってないよ!欲しい!」
「…持ってこなければ良かったわ」
「な、なんで」
「そのだらしない顔」
ふう、とため息と共に言われた言葉につい顔面に手を持っていく。自分はそんなにだらしない顔をしていただろうか。緩んでいたとは思うが、なんだか心外である。
そのままぺたぺた触っても分からず、一人困惑していると目の前でふっと霧切さんが口元を和らげた。冷えた眼差しの奥に隠れていたものが、溢れて溢れて、
「まぁ、今に始まったことじゃないわね」
そうして僕の近くの机にコトン、マグカップを置く。ココアの波が何度か往復を繰り返し湯気をほわほわと浮かばすココアは実に美味しそうである。
飲んでいいのかな。僕のために持ってきてくれたのだろうけど、一応彼女を盗み見る。するとばっちり視線のすれ違った彼女が「どうぞ」と笑みを浮かべたまま言ってくれた。
そのことにほっとし、ココアにそっと手を伸ばす。じんわりとした温度が心地良く、鼻腔に届くココアの香りがとても香しい。
「それ飲んだら、また再開ね」
仕事、と白紙の書類を指さされ思わずココアを吹く。そう言えばそうだった、まだやり終えていない仕事があるのだった。
一気に現実に戻されたような気がして視線を床に落とせば、頭上で霧切さんのくすりとした笑い声が聞こえてくる。
笑ってる。あぁ、まったく、うん、いいさ、霧切さんがココア入れてくれたんだし、それで元気は充分補充出来る、とやけくそ気分でマグカップを傾けココアを一気に流し込んだ。
霧切さんが入れてくれたココア。それは今まで飲んだどのココアとは違いとっても甘美で幸せな味がしたのは気のせいだろうか。
でもこのあとに仕事が待っているのかと思うと、後味が少し苦かったのも気のせいだろうか。気のせいだと有難い、な。
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(後書き&お返事)
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