どうしたら彼女の手に触れられるだろうか。
近ごろの僕はそればかり考えて過ごしている。

彼女、苗字名前は明日香の友人で同級生で(悲しいかな、留年してしまった僕とも同級生なのだけど)、まるでふわふわと春風に揺れるたんぽぽの綿毛のようにやさしい子だ。そんな詩的な印象を感じた子は初めてで、少し興味を引いた。
今も、同じ教室で友達と語らう名前ちゃんを遠目から眺めているだけで、どうにも話しかけられずにいる。そのやわらかな笑みを浮かべる口元に添えられた指先に、ただ見入っていた。
両手で包めばすっぽりと隠れてしまうだろう彼女の手は、どういうわけか僕の心をゆらゆら揺らす。おかしいな、そんな偏愛は持ち合わせていなかったはずなのだけど。
名前ちゃんに対してはそんな観念論は通じないようだった。

「うん、それじゃあ」

はたりと意識を戻すと名前ちゃんが教室から離れようとしていた。
もうすぐ授業が始まるというのに。追いかけるべきか思案しているうちに身体はごく自然に席を立ち、教室のドアを通り越していた。

「名前ちゃん」
「あ、吹雪さん。どうしました?」

ふわりと笑みを見せるその様に、次に発すべき言葉を失う。僕はこんなに奥手だったろうか。そういえば、こうして周りに誰もいない状況で話すのは珍しい。

「君が教室から出ていくのが見えてね、どうしたんだい? もう授業が始まるよ」
「実は、教材を準備するよう頼まれていたんですが、すっかり忘れてしまっていて」
「ああ、それで」

授業態度も大変よろしい名前ちゃんは教員からの信頼も厚い。その気立てのいい性格と相まって、そんな面倒な仕事も快く承知したのだろう。
それも彼女の美点の一つだけど、利用されているようで少し面白くない。ただの友人という存在である僕が、そう口にすることはないけれど。

「だったら僕も一緒に行こう。重いものなら、君に持たせられないからね」
「そんな、私なら平気ですよ。こう見えても力ありますし」
「そう? でもほら、二人で運んだほうが早いと思うんだ」

ね? と求めれば、名前ちゃんはちらりと時計を確認して律儀に礼を述べた。
こういう素直なところがとても好ましかった。


大きいばかりで中身が詰まっていない、黒いカバーに覆われた何に使うのか見当もつかない教材を抱えて準備室を後にする。
用意するものはこれ一つらしく、しきりに申し訳なさそうな視線をくれる名前ちゃんだけれど、彼女が運んでいたら前が見えなくて転んでしまうんじゃないかな。
自分で運ぶことを諦めそうにない、名前ちゃんにそのまま伝えると、何度か目をしばたたかせて小さく抗議の言葉を返された。

「でも本当に気にしなくていいんだよ。たまには僕も役に立ちたいからね」
「……はい、ありがとうございます」
「それに少しだけ授業が遅れることを望んでいたりもするし」
「そ、そういうわけには……! 吹雪さんって、わりと不真面目ですよね」
「名前ちゃんに指摘されると苦しいな」

そう笑うと名前ちゃんも表情をゆるめたけれど、すぐに晴れない面持ちに戻ってしまう。

「それでも、やっぱり何か、お礼をさせてください」
「僕はその気持ちだけで十分なのに……それで、案はあるのかい?」
「え? そうですね、何がいいでしょう……。吹雪さんは何か困っていることありませんか?」

困っていること。
思い当たる節がないこともない。ここのところ、ずっと頭の中を占めていたこと。
答えを待つ名前ちゃんの目を離れて、そっと彼女の手を見る。
ひかえめにネイルカラーをのせた爪に細い指。同じ部位でありながら、僕の手とは違うものだと認識してしまうそれに引きつけられる。
この望みは困っていることだろうか。
名前ちゃんの手に触れてみたい、だなんて。告げてしまえば名前ちゃんは。

「特別、困っていることではないはずだけど、ひとつだけ」
「はい。なんでしょうか」
「名前ちゃんと手を繋ぎたいんだ」
「手を、ですか?」
「うん。今は両手が塞がっているから、いつかね」

当然、困惑するだろう。授業の時間が迫るなか、足を止めることはなかったけれど、その瞳は揺らいでいた。
それでもきっと、叶えられたらこの思いは解消されるはずだと思った。

「その、いつかはいつがいいですか? 放課後とか空いていますけど……」
「それじゃあ、放課後にお願いしようかな」
「はい、わかりました」
「……嫌がるかなとも思っていたけど、違ったね」
「だって、吹雪さんですし。お困りならいつでも私の手をお貸ししますよ、言葉どおり」

気恥ずかしいですけどね。そう言葉を足して名前ちゃんは照れくさそうに笑う。
いつかなんて曖昧な約束もまっすぐ受け入れてくれる。僕なら許せるという甘さまで見せて。
本当は名前ちゃんが断ってくることを考えていなかった。
惹かれているのは名前ちゃんの手だけなのか――ますます深みに向かっているような気がしたけれど、今はその心を置き去りにしよう。
都合よく授業を始める本鈴が鳴り響き、焦りを見せる名前ちゃんに合わせて足を早める。
放課後のそのときが待ち遠しかった。



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