そしてふたりは目を閉じる | ナノ

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そしてふたりは目を閉じる
さいふぁ



 かつてふたりは、誰よりも近しい存在だった。

 ゆらゆらとゆれる枝を踏みつけ、明かりが灯る道を歩く。きしりと軋む音に、そろそろこの枝も朽ちるだろう、とノアは考えた。
 ふと視線を落とせば、黒々とした闇が口を開けている。
 底の方でちらちらと輝くものが手招いているように見え、ノアは黙って視線を逸らした。いつの間にか止まっていた歩みを再開し、枝の上をゆく。
 そうしてたどり着いた先は、今日も光にあふれていた。
 幾重にもからみあう枝と、その上に降り積もった腐葉土。枝葉を透かしてこぼれ落ちる光が、芽吹いたばかりの草葉をきらめかせる。雨が降っていたのだろうか。長い時を経てはぐくまれた揺りかごは、しっとりと湿っていた。
 その中央に、一人の少女がいる。
 彼女はぽつんと座り込んでいた。肩からすべり落ちる髪は地面に散らばり、芽吹いた緑の中に溶けている。投げ出された腕は細く、霧のように白かった。
 かすかな足音に、少女の身体が身じろいだ。力なくうつむいていた頭が持ち上がり、伏せられていた睫毛が震える。ゆるやかに姿を現した双眸は、茂る葉の中でもひときわ濃い、むせかえるほど鮮やかな緑だった。
 少女はノアを見上げ、ふわりと笑む。
「――――」
 あわく色づいた唇が、ノア、と紡いだ。声は出ない。代わりのように唇からあふれるのは、色とりどりの花々だ。うす紅、だいだい、黄色。少女の膝に、髪に落ちたそれが、緑に侵された世界を彩っている。
「ねえ」
 彼女の前で膝を折り、手を伸ばす。
「なに笑っているの」
 折れそうに細い首に指を回し、力を込めた。やわらかな皮膚の感触と、その下に流れる血潮のさざめき。笑みを形づくっていたおもざしが歪み、やがて苦痛をにじませる。ノア、と名を呼ぶたびに、唇から花がこぼれ落ちた。
 かぐわしい花の香り。しっとりとした、むせかえるほど濃密な緑。
 芽吹く命の、におい。
 ああ、
「……イヴ」
 かつて愛おしく感じたそれが、今はこんなにもいとわしい。

***

 イヴと呼ばれる少女がはじめて芽吹きの兆候を見せたのは、十歳を迎える少し前のことだった。
 ノアの目の前で、ほろ、と。花の涙を流してみせたのだ。
 きれいなはしばみ色をしていた瞳は、その時から、濃密な緑に色を変えた。
 五歳を迎える日に、人はみな、種を呑む。親指の爪ほどの大きさの、むせかえるほど濃密な緑を閉じこめた、都市樹(としじゅ)の種だ。
 かつてあったとされる文明が滅び、汚染された世界で、都市樹は闇色の水面に、液状化した大地に根づいた。枝葉と腐葉土の土地を与え、吸い上げた水を濾過して断たれた枝から滴らせ、新たな植物が芽吹くことを許した。不必要な枝葉を降らして住みかを作り、種を芽吹かせて新たな土地を与え、栄養価の高い果実をたわわに実らせさえした。
 巨大な樹である都市樹は分厚い皮に覆われ、死を招く風から人を守る。うろとなった内側では、幾重にも伸びてからみあう枝や腐葉土が、土地や道を作っていた。
 しかし、生きとし生けるものは、すべからく朽ちる。
 最初の枝が枯れたのは、百年と少し前だった。
 都市樹の底の方で、一番広い大地を支えていた枝が、乾いた音と共に折れた。傾いだ大地と共に数百人が汚染された大地へと放り出され、液状化した大地に呑み込まれていったそうだ。
 次の枝が折れたのは、ちょうど百年前だ。ふたつの枝がいっぺんに折れ、傾いでいた大地は完全に呑み込まれた。
 都市樹なくして、人は生きられない。
 樹の寿命を悟った人々は、新たな都市樹を育てることにした。

 ――都市樹は、人の身体から芽吹く。

 内側から根を張り、侵食し、やがて呑み込んで大樹となる。苗床となった人は、目が、髪が、爪が、身体を構成するものが、徐々に緑に侵されてゆく。食事を受けつけず、眠ることも必要とせず、やがて四肢から植物が芽吹いて動けなくなる。
 そうして眠るように息絶え、植物に囲われて、新たな礎となるのだ。
 都市樹が芽吹く確率は、驚くほど低い。今までに何千、何万人もが都市樹の種を呑んだが、芽吹いたのはたったひとりだけだという。それでも人々は新たな土地を、生きる場所を探して種を呑む。
 芽吹きの兆候を見せ得たイヴは始まりの名前を与えられ、「緑の子」として大切に育てられることになった。
 芽吹いた都市樹がどれほどの早さで成長するのかは、個体差がある。数年後か、数十年後か。それとも、数百年の時を要するのか。それすら分からなかったが、新たな緑の子の誕生は、人々の希望だった。
「イヴ、ねえ、イヴったら」
 ほろほろと花の涙を流し続ける少女の、小さくやわい手を握りしめ、ノアは頬を紅潮させる。
「すごいね、イヴ。目が、きれいなみどりだ」
 その言葉に、少女が顔を上げる。緑に変貌した瞳の中で、彼女とそっくり同じつくりの顔と、そっくり同じ長さの髪を持つノアが、満面の笑みで映り込んでいた。
「おめでとう」
 都市樹に住まう人たちの希望。緑の子の誕生。
 彼女はこの樹に住まうものたちの中で、なによりも尊く、大切で、優れた存在になったのだ。
「……うん」
 その言葉に、イヴとなった少女は目を細める。
「ありがとう」
 そうして、うつくしく笑んでみせた。

***

 イヴから声が失われたのは、緑の子となってから三年と少し、十三歳になった頃だった。
「イヴ」
 まっすぐに差し伸べられた枝を駆け上がり、ノアはイヴの暮らす屋敷へ顔を出した。
 緑の子となったその日から、イヴは都市樹の一番高い場所にある、大きな屋敷で暮らしている。家族や、親につけられた名前、人の間で生活することは都市樹をはぐくむ上で不要であり、無駄なものだった。
 本当は、こうして会いに来ることも、悪いことなのだという。ノアが大人たちに黙認されているのは、それがイヴたっての願いだからだ。
「ノア」
 屋敷の奥、いちばん日当たりのよい部屋の扉を開けると、イヴが顔を上げる。やさしい声音と共にこぼれ落ちた花が、はらはらと床に散った。
 読みかけの本をぱたりと閉じて、イヴは花開くように微笑んだ。
「いらっしゃい」
 白くたよりない腕を持ち上げ、ノアへと広げる。いにしえの遺産である透明な屋根越しに差し込んだ光が、緑に染まる髪を黄金に輝かせていた。
「イヴ」
 ひんやりとした手を取り、ノアはかたわらに腰を下ろした。ふと違和感に気づいて彼女の手を見つめると、数日前まではうす紅色をしていた爪が、若葉のような緑色に染まっている。
 また、都市樹が成長したのだ。
「ノア、外の話を聞かせて」
 視線に気づいたのだろう。さりげなく手を引いて爪を隠し、イヴがねだる。いつの頃からか、彼女に外の様子を話して聞かせるのはノアの役目になっていた。
「……今は暖かい時期だから、たくさん作物が育ってて」
「うん」
「みんなで、収穫してる」
「ノアは手伝わないの?」
「イヴと一緒にいる方が、大切だから」
 その言葉に、イヴがなにかを思案するように瞳を閉じた。伏せられた睫毛までもが緑に染まっていることに気づき、視線が吸い寄せられる。
 新たな都市樹は、イヴを苗床として育つ。黄金色をしていたイヴの髪は二年でうつくしい緑に染まり、その半年後にはほとんど食事を必要としなくなった。いにしえの言葉でテラリウム、と呼ばれるこの部屋から動かず、頭上から差し込む光と、突き出た都市樹の枝からしたたる水を糧に生きている。
 さながら、植物のように。
「イヴ」
 彼女へと手を伸ばし、やわらかな線を描く頬に触れる。人肌の温かさが、じわりと手のひらに伝わってきた。
 緑の双眸がゆっくりとノアを映し、不思議そうな光を宿す。
「ノ、――」
 ふいにイヴが口元を押さえた。白い顔が歪められ、細い肩が震える。手のひらから花がこぼれ落ち、床に散った。
 身体を丸め、えづくように花をあふれさせるイヴの背に手を添え、ノアはぎくりとする。

 イヴの背に、植物が生えていた。

 肩胛骨の間から、瑞々しい緑が芽を出している。天井を透かして差し込む光を浴び、つややかに輝いていた。皮膚を食い破って出てきたそれは命にあふれ、禍々しいほどの存在感をただよわせている。
 無意識に伸ばした手が、芽に触れた。厚みのある葉の弾力が指先から伝わり、これがまぎれもなく本物であることを伝える。
「イ、 ヴ……」
 新たな都市樹はイヴの身体を苗床として芽吹く。花の涙を流したり口から花を散らしたりするのはその証で、彼女の身体の中に都市樹が根づいていることの現れだ。
 だから、イヴの身体から植物が生えるのは、なんらおかしいことではない。むしろ喜ぶべきことであり、吉報であり、すばらしいことだ。
「…………イヴ」
 指先をゆるく曲げ、かすかに力を込める。
 イヴが身体をひねり、おもむろにノアの手首を掴んだ。はっとして彼女を見下ろす。緑の瞳がきつい光を宿して、ノアを見上げていた。
「――――」
 だめ、とくちびるを動かして、彼女は首を振る。
 自分がなにをしようとしていたのか理解し、ノアは慌てて彼女から手を離した。信じられない思いで自分の手のひらを見下ろす。爪先をかすかに濡らす緑のにおいに、さあっと身体中から血の気がひいた。
 あろうことか、ノアは彼女の背に芽生えたばかりの都市樹を、摘み取ろうとしていたのだ。
 頭がくらくらとする。指先が冷たい。胸の鼓動がうるさい。
 ノア、とイヴがくちびるを動かす。ノア、だめ、ノア。
 声は出ない。代わりのように、今まで以上に、鮮やかな花々があふれ出てくる。
 イヴが首を傾げ、ノアの顔をのぞき込んだ。濃密な命の気配を閉じこめた緑の瞳。かつては同じ色だった、緑の髪。重ねられた手のひらの冷たさ、色ちがいの爪。
 背に芽吹いた、都市樹。
 その瞬間、ノアの中で、なにかが音を立てた。ぱきん、と音を立ててひび割れ、崩壊していく。
 そうしてあふれた感情が、身体を突き動かした。
「――イヴ」
 緑の筋が、床に広がっている。床に押し倒され、ノアにのしかかられた彼女は、ひどく驚いた顔をしていた。
「イヴ、……イヴ、イヴ――――」
 緑の爪が、腕に食い込んだ。苦しげに歪められた顔を、唇からこぼれる花を見たくなくて、きつく目を閉じる。そうすると花のにおいをよりいっそう強く感じて、吐き気すら感じた。
「イヴ……」
 がたがたと震えながら、彼女の首に回した指に力を込める。やわらかな皮膚と、血潮のさざめき。自分と同じぬくもりが、ここにある。
 だから。
「――――死んで、イヴ」
 あなたが人である間に、殺してあげる。

***

 イヴが都市樹の中をさまよい、一番高い枝を上っていったのは、彼女が十五を迎えてすぐのことだった。
 十日以上戻らない彼女を探した人々は、小さな大地の中央に根を張った彼女を発見し、歓喜に湧いた。
 幾重にもからみあう枝を踏みつけて、ノアは彼女の元へ向かう。
 近頃では枝が次々と枯れはじめたので、道は細く頼りない。ゆるやかな傾斜を上がった時、足元できしきしと音がした。
 この数年、新たな枝は生えていない。いつの間にか、イヴを導くようにできあがっていたこの道は、古い枝が力なく垂れ、あるいは数年前に生えた枝が伸びて作り上げたものだった。
「……イヴ」
 道の先、彼女の屋敷よりもさらに高い位置に作られた土地へ足を踏み入れると、イヴがゆっくりと頭をめぐらせる。
 小さな空間の中央に、彼女はひとり、座り込んでいた。
 身じろぎにあわせ、緑の髪がゆれる。どこかうつろな瞳がノアの姿を映した瞬間、はっきりとした光を宿した。
 ノア、と。
 唇の動きにあわせて、花がこぼれ落ちる。
 半年ぶりに相まみえた彼女は、おだやかに笑んでいた。ノアが幾度にもわたって首を絞めたにも関わらず、瞳に喜びを浮かべ、細い腕を持ち上げて歓迎を表す。二年前にその背で芽吹いた都市樹は成長し、今やその背を覆っていた。根は背を伝って地に届いている。
 周囲を囲う緑は、彼女からこぼれ落ちた花々が根づいたものだ。都市樹にわずかに残された命を吸い上げるよう、急速に芽吹き、種をつけては散っていく花は、血のように鮮やかな紅だった。
 頭上から落ちかかる光が、彼女の髪を黄金色に輝かせている。
 伸ばされた腕の、たおやかな手の甲には、花が咲いていた。びっしりと腕を這う緑の蔓は、なかば皮膚に食い込んでいる。しかしイヴの身体からは、一滴の血液も流れていなかった。
「イヴ」
 棘でも、あったのだろうか。
 彼女の腕を払いのけた拍子に、指先に血がにじんだ。かまわずに手を伸ばし、イヴの首に手をかける。きつく目を閉じ、いつものように力を込めた。
 やわらかな皮膚。血潮のさざめき。
 けれどもう、ぬくもりは感じられない。

 彼女は、もう、ほとんど、人ではなくなってしまった。

 イヴの指先が、腕に触れた。はっとして目を開いた瞬間に緑の瞳と見つめあってしまい、腕から力が抜けていく。
 こうして殺せずに、逃げるように彼女の前から去っていくのは、何度目のことなのだろう。もう、数えることをやめてしまった。
「死んで、イヴ。……殺させて」
 すがるような声音に、イヴは困ったように笑むだけだった。

***


 残された最後の土地を支える枝が枯れたのは、イヴの身体から芽生えた若木が根を張ってから一月後のことだった。
 都市樹の恩恵なくして、人は生きることがかなわない。人は救いを求め、その矛先をイヴに向けた。
 ゆらゆらとゆれる枝の上を歩き、ノアは足を進める。
 真夜中の都市樹は暗かった。ところどころに灯る明かりが、辛うじて足元を照らしている。視線を落とせば、傾いだ大地と、そのはるか下に広がる闇が飛び込んでくる。

 ――数日の間に、あそこは、イヴの墓場となる。

 都市樹は人の身体から芽吹き、闇色の水面に、液状化した大地に根づく。そうして、巨大な樹へと成長を遂げる。
 だからイヴは、死に満ちたあの底へと、落とされる。
 きしりと足元が音を立てたことに気づき、ノアは枝の上を駆け抜けた。太い枝までたどり着いたところで振り向くと、先ほどまで立っていた場所がなくなっている。枝が折れたのだ。
 都市樹は、もう、ほとんど死にかけている。今まで使えた道はほとんど枯れ落ち、今では道と呼べるものも少なくなってきた。移動には、縄や梯子が必須となりつつある。
 一月ぶりに辿る道はところどころ朽ち、何度も迂回することになった。青白い光が差しはじめたころ、ようやく目的の場所が見える。朝が近い。急がなければ。早く、早く。
 縄梯子を登ってたどり着いた先は、今日も光にあふれていた。
 むせかえるような緑の中に、イヴはひとり、静かに存在していた。力なくうつむいていた頭が持ち上がり、伏せられていた睫毛が震える。ゆるやかに姿を現した双眸がノアを映し、穏やかに細められた。
 あわく色づいた唇が、ノア、と紡ぐ。
 彼女の前で膝を折り、ノアはその首に手を伸ばした。
「ねえ、イヴ」
 折れそうに細い首に指を回す。やわらかな皮膚の感触と、その下に流れる血潮のさざめきを感じた。
 かぐわしい花の香りと、むせかえるほど濃密な緑の、芽吹く命のにおい。
 ああ、かつて愛おしく感じたそれが、今はこんなにも。
「……死んでよ」
 何度も紡いだ願いを口にして、手に力を込める。
 目は閉じなかった。
 逸らすことも、しなかった。
 だから苦痛に歪む顔も、やめてと紡ぐ唇も、すべて見ていた。
「イヴ」
 殺させて。
 震える声音が、涼やかな朝の空気に溶けてゆく。
 ぶちりという音と共に、イヴの腕が持ち上がった。指先まで緑に侵された手のひらが、かすめるようにノアの頬に触れる。
 緑の蔦に覆われたそれは、人のものとは思えなかった。
 イヴはもう、なにもかもが違うのだ。
 ノア、とイヴのくちびるが動いた。ノア、ノア。緑に侵された両腕が、ノアを包み込む。
「……わたしは」
 ささやかな声音が、空気を震わせた。なつかしい、やさしい声音。

「樹に、なって。……あなたの、居場所になりたい」

 はっとして顔を上げると、イヴはとろけるような笑みを浮かべている。
 ふいに土地がゆれた。みしみしという音と共に平行感覚が狂い、世界が傾いでいく。
 緑の腕がノアを抱きしめたのと、土地が落下を始めたのは、ほぼ同時だった。
 耳元で、ごうごうと風が鳴いている。ああ間に合わなかったのだと、妙に冷静な頭の片隅で考えた。
 ほろほろと、視界で花が舞っている。イヴの瞳からあふれた花が、落ちてゆくふたりを包んでいた。
「イヴ」
 飛ぶように過ぎる景色を、彼女の肩越しに眺める。ああ、彼女は見てしまったのだろう。
 いくつもの土地を失った都市樹は、もう、ほとんど機能していなかった。折れた枝のほとんどは皮が剥がれ、人の骸が積み重なっている。きれいに骨ばかりになっているのは、それが食物として屠殺(ヽヽ)されたからだった。
 都市樹の実りが減り、人は飢えるようになった。食物を巡る争いは、彼女が緑の子となってから程なくして起き、激化の一途をたどった。
 人が争えば、勝者と敗者が現れる。
 勝者は口減らしと称して、敗者を殺した。そうしてもたらされた肉を口にして、生きながらえている。イヴの前ではさも無害そうに、平和そうにふるまって、その裏で家畜(ひと)を殺して。
 その彼らを生かすために、イヴは、都市樹にされるのだ。
「そんなのいらない、イヴ」
 きつく抱きしめられた瞬間、肺に刺すような痛みが走った。とっさに息を止めた瞬間、激しい衝撃が身体を襲う。落下が止まったことに気づいた時、どろりとして冷たいものが足に触れた。
 おそるおそる目を開けた瞬間に激痛が走り、生理的な涙があふれる。
 液状化した大地と、汚染された水のおかげだろう。落下の衝撃はごく少なかった。
 かすむ視界に、都市樹が喜びに身体を震わせているのが見えた。イヴの身体を食い破り、四肢から枝を芽吹かせている。かつてない早さで、成長している。
 ああ、早く。
 彼女が人である間に、イヴを殺さなくては。
 腕がただれ、皮がむけた。汚染されたこの世界で、人は生きられない。だからノアも、すぐに死ぬ。
 ノア、と彼女の唇が動いた。
 ノア。ノア、ノア。やめて、ノア。
「イ、ヴ」
 彼女が都市樹になる必要などない。
 そのくらいなら、今、ここで、殺す。
 なぜなら、彼女は。
 大切な。
「姉、さん」
 双子の、かたわれなのだから。

 かつて、彼女がイヴではなく、ただの少女であった時。
 ノアと彼女は、誰よりも近しい存在だった。
 そっくり同じ顔、そっくり同じ声。
 髪の長さも、首を傾ける角度も、踏み出す足も、なにもかもが同じで、ずっと同じだと思っていたのに。

 緑の子となったイヴが、はじめはただ誇らしかった。心の底から祝福した。名誉なことだと信じて疑わなかった。
 けれども。
 イヴは変わっていった。食事も睡眠も不要になり、そろいの色をしていた髪も色を変え、身体が少しずつ緑に侵され。
 かつてノアと誰よりも近しかった存在が、人でないものに変わってゆく。
 それはひどく恐ろしくて、おぞましいことだった。
 だから、愛する姉が人である間に、彼女が彼女である間に殺そうと、ノアは決めたのだ。
「……ヴ。…………」
 イヴ。わたしに、殺されて。
 すぐに、追いかけるから。
 声はもう、まともに出なかった。代わりにあふれた鮮血をぬぐい、イヴが顔を歪める。
 ノア。色を失いつつある唇が、言葉を紡いだ。
 それが、ノアの願いなら。
 わたしはあなたの、あなたはわたしの死に場所になりましょう。
 ぎこちなく笑み、ノアはよりきつく、目の前の細首を絞めた。
 動かなくなった骸から、ずるりと、都市樹が抜ける。


 かつて彼女たちは、誰よりも近しい存在だった。
 そうして今、ふたりそろって、目を閉じる。



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