偽りと花嫁 吉川蒼 六月も終わりに近づいた、ある日のことだった。 妹が婚約者を連れてくる。二週間後に。 その話を聞いた まず、家政婦と一緒に屋敷の隅々まで掃除をした。それこそ屋根の上から床下まで全部だ。手が届かないところは業者を呼び、とにかく徹底的に綺麗にした。 また、若干自然に任せ過ぎていた庭も、庭師を呼んでさっぱりとさせた。池には色鮮やかな鯉を新たに何匹か仲間入りさせた。 次に一時間ほど車を走らせて街まで出ると久しく行っていなかった美容院に向かう。真っすぐな黒髪を肩のあたりで切り揃えてトリートメントをしてもらうと、ぼさぼさで傷んでいた髪もいくらか輝きを取り戻したような気がした。 その後はデパートに行って店員を一人拘束して洋服を十着ほど買った。これでスーツか部屋着しかない箪笥の中もましになるはずだった。 そうして二週間が慌ただしく過ぎていった。 当日、昼食の仕込みを終えると、澪は買ったばかりの紺色のワンピースに着替えて念入りに化粧をした。 鏡の向こうの見慣れない自分ににっこりと笑って見せる。少しぎこちない感じはあったが、まあ及第点だろうと評価する。 そこからは何をするでもなく、玄関のあたりをうろうろと歩き回っている。 姉として、妹の婚約者に悪い印象を与えるわけにはいかない。 もう一度鏡を覗くと、普段は気にも留めない前髪を直す。 そこに聞き慣れたエンジン音が戻ってきた。 慌てて鏡をしまうと、正座をして背筋を伸ばす。そして深呼吸をして笑みを浮かべる。と、ちょうど引き戸が開いた。 ただいま、と妹である 「おかえりなさ……」 その後ろから続けて入ってきた婚約者と目があった瞬間、言葉を失った。 「こんにちは、 この上なく爽やかな笑みを浮かべている。その整った顔立ちにはいやと言うほど見覚えがあった。 彼は、かつて澪が追いかけていた男だった。 「何の真似だ」 澪は徹の胸倉を掴んで蔵の壁に押し付ける。今にも殴りかかりそうな勢いだった。かろうじて声のトーンは落としていたが、激しい感情は抑えきれていなかった。 徹は焦った様子もなく、涼しい顔のまま口を開いた。 「何のことでしょう。お義姉さん」 「ふざけるな、わたしがお前を間違えるはずが無い。詐欺師狭山」 徹はひとつため息をつくと不敵に笑った。 「お久しぶりですね、 「元、だ。もう刑事ではない」 徹の言葉を遮るように告げる。 「では、相原元刑事でお義姉さん。こんなところを凪に見られたらまずいのではないですか」 ふたりがいる場所は端とはいえ敷地内だった。誰に見られるかはわからない。 澪はしぶしぶと言った様子で手を離す。一歩引いて距離を取った。 「この家に何の用だ。凪に近付いた目的は」 「ただ出会って将来の約束をした、それだけのことですよ」 両手を広げて淡々と言ってのける徹は、心外だとも言いたげな様子だ。 その様子に澪は舌打ちした。 「すぐに化けの皮を剥いでやる」 思いきり指を差して言い捨てると、振り切るように大股で家の中へと戻っていく。 嘘を言わない詐欺師。そう呼ばれるこの男は、澪が現役だった頃に何度も捜査線上に浮かんでいた男だった。しかし逮捕されることは一度も無く、現在に至っている。 そんな慎重で用意周到な男が何もなく元刑事の妹の婚約者になるはずがない。必ず何らかの目的があって凪に近付いているはずだ。 澪は爪が食い込むほど、強く拳を握りしめた。 玄関の引き戸を開けると香ばしくて甘いにおいがした。台所をのぞくとエプロン姿の凪がいた。 「あ、お姉ちゃん。用意ありがとね。いろいろあって助かっちゃった」 テーブルには所狭しとさまざまな料理が並んでいた。そこには凪の得意なふわふわの卵焼きも並んでいた。 「ただいま運びますので、あちらでお待ちくださいませ」 長年勤めている家政婦がお盆に料理を載せながら凪をまぶしそうに見つめている。彼女は仕事を取り上げられた形になるが、うれしくてしょうがないと言った様子だった。 おとなしくて内に引きこもりがちな妹、そんな彼女が恋人のために張りきって料理を作っている。こんな微笑ましい光景はない。 しかし、なぜよりにもよってあの男なのだろう。澪は目の前が真っ暗になるようだった。 テーブルに肘をついて頭を抱えている横で家政婦がどんどん料理を並べていく。中には澪が作ったものもあり、数時間前に手間暇かけて用意していた自分を思うと余計に腹立たしい。 家政婦と入れ替わりに凪と徹が姿を現した。徹は並べられた料理を見ると大げさに声を上げる。 「おいしそうだな、凪が作ったのか」 凪がこくりとうなずく。 「卵焼きも作ったんだよ」 腰を下ろして微笑み合うふたりは、どこからどう見ても幸せな婚約者たちだった。 二つ下の妹は双子に間違われるほどに瓜二つだ。 自分と同じ顔が宿敵と笑い合っている。澪は不思議な感覚に陥った。 「さ、食べよっか」 凪の声に三人同時に手を合わせる。 徹が最初に手を伸ばしたのは意外にも澪の作った豚の角煮だった。口に入れると一瞬だけ意味ありげな視線をよこす。 誰が作ったかなんてわかるはずがない。澪は無視しながら卵焼きに手を伸ばした。 ちらりと凪を伺い見るが、彼女は気にした様子もなく味噌汁をすすっていた。 やましい関係ではないが、どこかうしろめたい。 いかに凪が傷付かないようにこの男を凪の前から消すか、それなりに難易度の高い課題だった。 「そう言えばお姉ちゃん。お父さんたちは?」 「おばあさまのところよ」 「やっぱりそっかあ。最近多いね」 また水の相に変化があったのだろうと澪は予想している。両親の慌ただしい様子に状況があまりよくないだろうということは容易に想像ができた。 「うちはね、泉の管理をしているの。重要なお仕事だからこうして急にいなくなったりしちゃって……ごめんなさい」 凪が徹に謝罪する。本来はこの場で両親に挨拶をする予定だったのだ。 「気にしてないよ。さすがは名家の相原家だね」 「古いだけの普通の家よ」 掠めとるだけのお金があると思われたらたまらない。澪は即座に否定した。 「凪、あなたたちはどういう風に出会ったの」 徹の目的を探らなくてはいけない。澪は努めて冷静に話題を変えた。 「えっと、お買い物に出かけた時に途中で具合が悪くなっちゃって、うずくまってたところを助けてくれたの」 凪が恥ずかしそうに語る。 隣の徹は相変わらず読めない表情でお茶を飲んでいる。 「へえ、いつぐらいの話? 全然そんな素振り見せないから気付かなかったわ」 「お姉ちゃんがこの家に帰ってきた少し後くらい、かな」 つまり、半年程前ということだ。 「お義姉さんは東京でお勤めされてたとか」 それまで静かに微笑んでいるだけだった徹が口を開いた。 澪は顔を引き攣らせながらも笑顔を作った。 「ええ、公務員をやっていたわ」 「それは立派ですね」 「そんなんでもないわ」 澪の脳裏に退職間際のやり取りが浮かぶ。 諭すような上司の言葉。 不安そうに見つめる同僚。 自ら進んで針の筵に座っていた自分。 そこへ届いた両親からの手紙。 視界が黒いスプレーが吹きつけられたようになり、途端にぐるぐると歪み始める。 まただ、と思った。こうなるとしばらくは治らない。 「凪、狭山さん。申し訳ないけど失礼するわ。実は朝から体調が良くないの」 そっと箸を置く。 「え、大丈夫? お医者様呼ぼうか?」 凪が心配そうに見つめる。 「そこまでじゃないわ。きっと急に暑くなったせいね。寝ていれば治ると思う。あなたたちも気を付けて」 そう言うと立ち上がり、障子に手をかけた。 「夜も寝ているようだったら放っておいてちょうだい」 返事を待たずに凪と徹を早々に視界から締め出すと、本格的に痛み出した頭を抱えて自室へと戻っていった。 次に澪が目を覚ました頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。手元のスマホを手繰り寄せると二十二時を過ぎたところだった。 昼から一度も目を覚まさなかったことに愕然とする。 退職して以来、読書と散歩くらいしかしていなかったために体が急激に衰えていた。 この二週間の間にちょっと掃除や買い物をしたくらいの気持ちでいたが、だいぶ疲労がたまっていたのかもしれない。 加えて、あの男の存在。今日は精神的にもかなり緊張していたはずだ。 無意識のうちに大きなため息が漏れる。 とりあえず水でも飲もうと、澪は障子を開けて廊下に出た。 雲一つない空には、白く輝く満月が出ていた。熱を含んだ風が澪の髪を揺らす。 「おや、相原刑事。具合はいかがですか」 暗がりから突如聞こえた声に、体が勝手に戦闘態勢に入る。 「なぜおまえがここにいるんだ」 近付いてきた男は浴衣姿になっていた。髪がしっとりと濡れている。 「ああ、ご両親がここに滞在することを勧めてくださったんですよ。お義姉さんは夕食の場にいらっしゃらなかったから……」 「お義姉さんはやめろ」 低く唸るような澪の言い草に徹はくすりと笑った。 わずかな時間、視線が交差する。 ふと、徹が真剣な顔つきになった。 「相原刑事、なぜ警察を辞められたんですか?」 「なんだっていいだろう」 「僕を追い詰めることができたのは、あなただけだったのに」 「うるさい」 「家のことと何か関係が?」 「……おまえには関係ない」 黒い靄がかかり、視界が回りはじめる。 言葉を吐くほどに酸欠になっていくように息苦しい。 それを悟られないようにきつく睨みつける。 徹がふっと息を吐いた。 「とにかく、よろしくお願いしますね。お義姉さん」 徹が隣をすり抜ける際にふわりと甘い香りが漂った。それは凪と同じものだった。 澪は無性に腹立たしくて、唇を噛みしめながらしばらくその場に立ち尽くしていた。 翌朝、澪が気分転換にと台所で朝食を用意していると凪がやってきた。エプロンをつけると隣に並ぶ。 鼻歌交じりで味噌汁をよそっている。 「こうしてふたりでやるの、久しぶりだね」 「そうね」 澪は実家に戻って以来、そのほとんどの時間を自室で過ごしていた。 「体調はもういいの?」 「ええ、単純に疲れていたみたい」 「そっか、よかったあ」 凪が安心したように笑う。 その真っすぐな笑顔に昨日の夜のことが思い出される。 澪は自分の動揺をごまかすように、そう言えば、と切り出す。 「いつ、籍を入れるの?」 「んん、一か月後くらいかな。式は挙げずにお食事会をして、写真を撮って、その時に」 「随分と急な話ね」 澪は驚きを隠さずに言った。 「実はこっそりいろいろと準備してたの」 無邪気に打ち明けるように話す凪。澪しか知らない真実に心が痛む。 「だからね、お姉ちゃん」 凪が澪のエプロンの端を掴む。 「それまで、いなくならないでね」 先ほどまでとは違う不安げな表情の中で凪の瞳が揺れている。 「わかったわ。夏の終わりに、と考えていたから大丈夫よ」 やったあと声を上げて抱き付く凪を慌てて受け止める。 腕の中にいる妹が震えていることに気付くと、後悔の念が広がっていく。 妹に結婚を急がせたのは自分かもしれない。 いつ別れを告げるかと澪が思い悩む一方で、凪も置いていかれる身として悩んでいたのだろう。 「じゃあ、これ運ぶね!」 そう言ってお盆を手に取った凪は台所を出ていった。 お盆を持つ手が震える。凪は喜びを隠しきれない表情で廊下を歩いていた。 一か月後まで姉はこの家にいると約束してくれた。それだけで十分だった。 ふと、廊下の奥のほうに違和感を覚えた。何気なくそちらに目をやると、ぼうっと人の形をした影があった。 背中に嫌な汗が伝う。縫い止められたように足が動かない。 先ほどまでの高揚感は恐怖の感情で一気に塗り替えられてしまった。 影がゆらめく。 それが見えた瞬間、きつく目を閉じる。そして心に強く想う美しい人の姿を思い浮かべた。 「凪? どうした」 焦ったような声に目を開けると、廊下の向こうから徹が走ってくるのが見えた。 「すごい汗だ。また、何か見たのか?」 徹が肩に手をおいて視界を遮るように覗き込む。 彼しか見えなくなったことで、呪縛が解けたように体を動かすことができた。 徹はいまだに震えが止まらない凪の手からお盆を取るとそっと床に置いた。 そして凪の背をさすりながら縁側に腰かけるようにうながした。 先ほどまでやんでいた風が、さあと吹き抜ける。 新鮮な空気を吸い込むと正常な感覚が戻ってくるような感じがした。 「この庭、きれいだな」 徹がぽつりと呟く。 「そうでしょ。お姉ちゃんが好きなの」 「へえ、意外だ」 目を細める徹の様子に、凪がわずかに微笑んだ。 「ねえ、少しだけ寄りかかってもいい?」 「ああ」 凪は徹の肩に頭を乗せる。 そこへ残りの食事を持った澪が通りかかった。 行く先で寄り添うふたりの姿を認めると、音を立てないようにそっと引き返していった。 夕方、澪は縁側で正座をして庭を眺めていた。傍らの麦茶のグラスは大量に汗をかいており、とっくにぬるくなっている。 風に揺れる葉や自由に伸びた枝ぶりを見つめていると、余計なことが頭から抜けて心が落ち着くのだった。 そうしてまた、覚悟を持つことができた。 そこへ近付く足音があった。 視線を向けると不機嫌な顔をした徹が向かってきている。その手には小さな段ボール箱を抱えていた。 「お義姉さん、これはさすがにプライバシーの侵害ではないでしょうか」 中には盗聴器や隠しカメラがいくつも入っていた。すべて澪が仕掛けたものだった。 「わたしの家で何をしようが、わたしの勝手だろう」 「そうですね。ですが、それのおかげで凪にキスひとつもできていませんよ」 抗議するような徹の言い方に、一気に頭に血が上った。 「おまえに凪は渡さない」 「相原刑事」 ため息交じりに紡がれる懐かしい音。 そう呼ばれるたびに、澪の中で遠くに追いやった何かに火が灯るような感じがした。 「懐かしいですね。あなただけがいつもそうやって僕を見つめていた」 徹がくすくすと笑いながら澪の前に跪き、彼女の右腕を掴む。 いつか夜の街の中で対峙した時と同じ構図だった。 あの時も徹は笑っていて、澪は睨んでいた。 「離せ。気色悪い言い方をするな」 「“僕はあなたにだけ追いかけられたい”」 抵抗しない澪に徹はさらに近付き耳元で囁いた。 「忘れないでください」 澪は一瞬固まった後に無言のまま思いきり振りほどくと、走ってその場を後にした。 自室に辿り着いてもなお、あの日の再現に心臓が痛いくらいに鳴っている。 うまく息ができない。 ずるずると崩れ落ちて、そのまま倒れ込むようにして横になった。 間もなく、視界いっぱいに広がった畳がぼやけ始める。 激しく痛む頭によみがえるのは、執拗にあの男を追う自分を諭すように諫める上司の言葉。 それを不安そうに見つめる同僚たち。 そうして組織の中にいられなくなった自分。 思い出すだけで涙と吐き気が込み上げてくる。 澪が警察を辞めたのは、あの男に捕えられる自分に気付いたからでもあった。 わずかに月の光が差し込むだけの部屋に凪の姿があった。 彼女は衣桁にかけられた花嫁衣裳を眺めている。真っ白なそれはわずかな光を受けてほのかに輝いて見えた。 胸の前で手を握り恍惚とした表情を浮かべている。 「こんな時間にどうしたんだ」 音もなくやってきた徹が声をかける。凪は特に驚いた様子もなく振り返った。 「もうすぐだなって思ったらうれしくなっちゃって」 たとえ望まれているのが姉だとしても、花嫁になるのは自分だ。凪は心の中でそう強く思っていた。 「そうだな」 隣に立った徹も柔らかく微笑む。 「そういえば、今日お姉ちゃんとけんかしてたね?」 「見てたのか」 「うん」 やってしまったという表情になった徹を見て、凪はわざとらしく腰に手を当てて笑った。 「まあ、許してあげます。ちゃんとお嫁さんにしてくれるなら。それでお姉ちゃんとも仲良くしてくれるなら」 「それはもちろん。約束するよ」 差し出された徹の小指に、凪が自らのそれを絡める。 そうしてふたりはかたく誓い合った。 翌日、澪が目を覚ますととっくに日が昇り切っていた。頭がやけにぼんやりする。 重たい体を引きずるようにして身支度を整え、離れに向かった。人が寄り付かないそこは静かに庭を愛でるには絶好の場所だった。 心が乱れた時はこの縁側で横になって葉擦れの音を聞いて眠るのだった。 この二日間でかなり疲れた。正直、何も考えたくなかった。 全く目的のわからない詐欺師の行動と、幸せそうな妹の姿。自分が何をすべきなのかが分からなくなってきていた。 こんな自分に何ができるのか。 そう考えると世界が足元から崩れていくような心許ない気分になった。 ふと、部屋の襖がかすかに開いているのに気が付いた。 何気なく中を覗くと、花嫁衣装が無くなっていた。 一気に脳が覚醒する。 確かに衣桁にかけられていたはずなのにまるではじめから無かったかのようだった。 どくどくと血が流れる音がして、足が震え始める。 澪は転がるようにして母屋へ戻っていった。 父と母は今日もいない。家政婦もまだ来ていない。 廊下を走り、部屋の襖をすべて開け放つ。 ――誰もいない。 いつもならどこかで笑い声を上げているはずの凪と徹の気配もしていない。 ぐらりと体勢を崩し、柱に手をつく。重たい頭を支えながら荒い息を整える。 なぜ、ふたりが 嫌な想像に思い至った澪はある場所へと向かった。 徹と凪は泉の淵に立っていた。 まわりには鬱蒼と木が茂っているが、不思議と泉の上空に伸びる枝はなかった。 半径五メートルほどの大きさの泉の中には水以外の何も存在していない。深さがどれほどなのかも見当がつかない。 太陽の光を浴びながらも、深い青色をした水面は暗く冷たい雰囲気を醸し出している。 その異様な光景に徹は恐ろしさを感じた。 しかし、隣に立つ凪は落ち着いた様子で微笑みさえ浮かべている。 「ここが例の泉か」 「そうだよ。相原家が代々守ってきた、このあたり一帯の水のもと。美しい水神様のおわすところ」 凪が歌うように言った。 「そして、お姉ちゃんが花嫁さんとして来るはずだった場所」 徹は白無垢を着た凪の手を取る。 「きれいだよ。今日だけっていうのがもったいないくらいだな」 「ありがとう、徹さん。うれしい」 満面の笑みで応える凪。しかし、すぐにその表情が曇る。 「お姉ちゃん、怒るかな」 「まあ、怒るだろうな」 「悲しむかな」 「そうだな」 これ、と凪が差し出したのは白い封筒だった。 「お姉ちゃんに渡してくれる?」 「ああ、わかった」 徹が受け取った封筒を上着の内ポケットへとしまうのを見て、凪は安心したように息を吐いた。 「わたしは、人の世にはそぐわなかったけれど、」 目を伏せて独り言のように呟く。 「これは自分で選んだ道」 そうして泉へと視線を戻す。水面が風も無いのにゆらゆらと揺れ始めた。 凪がはっとしたように口元を押さえる。 「お迎えに、来て、くださった」 徹には何も見えなかったが、凪はある一点を見つめて涙を浮かべている。 「じゃあ、これでお別れだ」 そう言うと、徹は一歩を踏み出した凪の背中をそっと押した。 水しぶきも上がることなく吸い込まれていき、凪の姿はあっという間に見えなくなる。 一瞬の出来事だった。 「凪!」 そこへ髪を振り乱し、葉をいくつもつけた澪が現れた。徹には目もくれず泉に駆け寄る。 その手が水に届く前に徹が後ろから羽交い絞めにする。 「っ! 離せ」 澪は徹を投げ飛ばそうとするが、焦りもあってうまく力が入らない。 中途半端な状態でもつれるようにして倒れ込んだ。そのまま両手をまとめて地面に縫い止められて、上にのしかかられる格好になる。 澪は完全に抑え込まれて身を起こすことができなくなった。 「離せ。凪を!」 「もう無理ですよ。相原刑事もご存知でしょう。一度泉に入った水神の花嫁は二度と戻らない」 「なぜ、おまえがそのことを……」 一瞬だけ澪が怯んだ。 徹は自身の口に何かを放り込むと深く唇を重ねる。 視界いっぱいに広がる徹の影に澪はひどく混乱した。 全身で抵抗するが、角度を変えながら続く口付けはなかなか終わらない。 澪のすべてを奪うような激しさだった。 しばらくして、ようやく体を起こした徹の表情はわずかに歪んでいた。 澪はひどく咳き込んでいる。 彼の舌が唇の端に浮かんだ赤い雫をなめとる。 「痛いじゃないですか」 淡々と抗議する徹に、澪は濡れた瞳で睨みつけた。 「何を飲ませた。早く離せ!」 「嫌です。離したらあなたまで泉に飛び込むでしょう」 徹はその力を緩めることは無かった。 最初こそ力の限り暴れていた澪だったが、少しずつその動きが弱くなっていった。悪態をつく言葉もだんだんと不明瞭になっていく。 目の端から幾筋もの涙が伝っていく。 最後はひたすらに妹の名を呼んでいた。なぎ、なぎ、ごめん、と。 瞼が彼女の意思に反して下がってくる。何度も上がり下がりを繰り返しながら、確実に閉じられていく。 凪、と涙が頬を伝う。最後まで必死に抵抗していた顔がだらりと横を向く。 そうしてついに深い眠りに落ちた。 徹は澪が完全に眠ったのを確認すると、拘束していた手を外した。赤くなっている手首が痛々しい。 澪の上から退くとそっと彼女の体を抱え起こした。 「相原刑事」 流れた涙の跡をぬぐうと、温かい頬を包み込むように触れる。 そうして再び徹の影が澪を覆った。 そろそろ意識が戻る頃だろうか。 徹はバイクを走らせながら屋敷に置いてきた澪のことを思った。 澪を自室へ戻した後、すぐにまとめてあった荷物を背負い隠してあったバイクへ跨った。 そして今、遠く離れた高速道路の上にいる。夕暮れの中でぽつぽつとライトが点灯し始めていた。 燃えるような瞳の聡明な女刑事。初めて心の底からほしいと思ったものだった。一度失った時は絶望しかなかった。 澪が警察を辞めたことを突き止め、彼女の実家に向かう途中で凪と出会ったのは本当に偶然だった。 水神の花嫁になる運命の姉、それをうらやましがっている妹。 使える、そう考えた徹は即座に計画を練った。 死を待つだけの時間の中で静かに病んでいく澪を救いたいという点では、凪は心強い同志で完璧な共犯者だった。 内ポケットには澪に渡すように頼まれた手紙が入っている。この中にはおそらく徹にとっては不都合な内容が綴られている。 これがある限り彼女は必ず自分を追いかけてくる。 凪をそそのかして泉に飛び込ませた詐欺師。澪の中ではそうあるはずだった。 いつか澪と対峙する日を想像すると、頭がおかしくなるほどの喜びが全身を駆け巡る。 半ば無意識のうちにアクセルを回すと、重苦しい空気の中を猛スピードで駆け抜けていった。 戻る |