鬼隠る | ナノ

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鬼隠る
闇友菜



 瞼の裏に、まるで生き物のように踊る焔がちらちらと焼き付いた。
 里で執り行われる『追儺(ついな)』の篝火が、山間の渓流に沿ってぽつりぽつりと灯っていく。里の中央では轟々と炎が燃え盛り、御囃子の音が残響する。
 里をぐるりと囲んで聳える青々とした峰が、宵に差し掛かる頃には影を濃くして迫ってきていた。遠く折り重なる稜線に終わりは見えず、険しい山々の向こうには、果てなく雲海が続いている。黄昏に染まる雲を突き破り、天を穿つほど鋭い山の影がちらりと掠めていた。
 夜を迎えた山間の里では冷涼な風が吹き始め、ざあざあと笹が鳴く。
 大通りでは甘く香ばしい餅の香りが漂い、道行く人に甘酒がふるまわれていた。手渡された甘酒を受け取った真澄(ますみ)は、一気にそれを呷ってから、視界の端に捉えた餅屋をなるべく意識しないように足早に歩いた。

「真澄様。そのように急がれては、危のうございます」
「別に急いでなんてないけれど」
  
 鳴りそうな腹を抑えて、真澄はつんと顎をあげて返す。
 
「餅ならば既にこの柊矢(とうや)めが手に入れてございます」
 
 真澄は恥じらいのあまり耳の裏まで赤くして、僅かに赤らんだ目で柊矢を睨みあげた。
 七年前、軒並み並ぶ屋台の前で、どうしても焼きたての餅が食べたいと駄々をこねた。屋敷の外では絶対に何か食べてはいけないと注意され、泣き喚いて柊矢を散々困らせた覚えがある。真澄にとっては忘れたいほど恥ずかしい記憶であるが、柊矢はいちいちそのことを覚えていて、もう餅を買ってあるという。

「一体いくつになったと思っているの。もう餅一つで、泣き喚いたりなんてしないわ」
「なるほど。餅屋を熱心に覗かれていたのも、別に欲しかったわけではないと」
「べ、別に覗いてなんか……食べたかったのは柊矢ではないの?」

 真澄の返答に柊矢はにこりと笑って、餅を半分に切って真澄へと差し出す。

「それは否定できませんね。ここの餅は美味しゅうございますから。真澄様もいかがですか?」
「まあ、お前がどうしても餅を食べさせたいというのなら、半分食べてあげてもいいけれど」

 満面の笑みを浮かべ、真澄は半分に割れた餅を頬張った。そんな真澄を見て柊矢は堪えきれないように吹き出した後、何事もなかったように真面目腐った顔に戻る。

「姫。よろしければ、私の分も――」
「結構。いい年して、食い意地が張っているって顔に書いてあるんだもの」
「……申し訳ありません。あまりにも嬉しそうに召し上がるものですから」
 
 むくれて背を向ける真澄に、柊矢は忍び笑いを漏らした。
 真澄は今年で十七になる。追儺の儀を鑑賞するのはこれが二度目だ。
 元は王の直系、華やぐ都の城内で生まれた真澄だが、次代の王を継ぐ候補の一人として数多の危険から身を守るために、都から離れた里に預けられていた。柊矢は真澄が生まれた時から傍仕えしており、真澄と共に里入りしたのだ。
 里には強固な結界が張り巡らされている。結界が悪鬼の侵入を阻んでいる代わりに、里長からの許しがなければ出入りも自由にままならぬ。例え王の一族とはいえ、真澄も五つの時にこの里に入ってからは一歩たりとも里の外に出たことがない。ただ、その結界のおかげで里では何百年もの間平穏が保たれ、物騒な話が囁かれることも久しい。
 結界があるからか、はたまた別の理由からか、七年に一度の周期で悪鬼を祓う『追儺』が行われる。
 舞台の上で神子が舞い、鬼に扮したものを神剣で切り伏せ追い払うのだ。
 広場には既に多くの人が集い、その視線は一様に舞台へ注がれていた。いつも閑散としているのが嘘のように賑やかである。
 人込みの中、真澄は柊矢の裾をくいっと引いた。

「草履の鼻緒が切れてしまったみたい」
「どれ、見せて下さい」

 柊矢はそう言って裾をたくし上げた真澄の足元にしゃがみ、草履を脱がせると小さな足を膝の上に乗せた。手ぬぐいの布を裂いて鼻緒を結びつけると、恭しく真澄の足に草履をはかせる。なんだかこそばゆくて、真澄はくすくすと笑った。

「失礼いたしました。取り急ぎ、これでご勘弁を。後で下駄屋に参りましょう」
「柊矢は本当に器用ね。わたくしとは大違い」

 嘆息する真澄に、柊矢は苦笑する。

「やんごとなき姫の傍仕えとしてはこの程度のこと、出来て当然です」
「そうね。お前がいなくては、わたくし、ここで生活することもままならないものね」

 真澄は素直に頷いた。
 王は神の子とされ、生まれながらにして呪力を持っている。無論、王の血族である真澄も呪力を備えており、歴代の神子の中でも屈指の力を持つと言われてきた。王に最も近い神子として扱われてきたのだ。そのせいで、時に毒を盛られ、たった五つの幼子に数百という暗殺者が送られた。
 そんな時、真澄を全力で守ってくれたのが柊矢である。
 里の人々も世話人達も皆優しく、真澄を実の娘や妹のように可愛がってくれる。自然にあふれた清らかで美しい里に預けられたことを幸運に思うし、都ではなく、この里こそ真澄の故郷なのだと感じている。
 真澄はこの美しい里と、ここで暮らす人達が大好きだった。
 それでも柊矢は特別だった。柊矢は真澄にとって兄であり父であり、ただ一人の気の置けない家族なのだ。

 舞台上の神子が舞うたびに、凛とした鈴の音が響く。その都度場が清められていくようで、真澄の背筋は自然と伸びた。
 かつて、都はどこからともなく現れた鬼によって壊滅状態に追い込まれた。鬼が通るだけで人も獣も異形のものに転じ、辛うじて異形の姿となるのを逃れたとしても、強力な呪力によって四肢を切り裂かれ、頭を潰されたという。その惨状を見かねた神々が、自らの子達を遣わせて鬼を退治した。神子達はそのまま都に居ついて、王となったと言い伝えられている。
 王は呪力によって国を守る。鬼が現れたその時には、立ち向かわなければならない。遠い先祖がそうしたように、真澄もまた、鬼を斬らねばならぬのだ。
 袖を握りしめ、真澄は小さな声でつぶやいた。

「いつかわたくしにも、その時が来るのかしら」
 
 真澄の小さな声を漏らさず拾い上げて、柊矢は苦笑して返す。

「優しい姫に、鬼を斬るのは無理でしょう。その時が来たら、この柊矢が斬って差し上げます」
「あら、そんなことないわ。わたくしだってやる時はやりますもの。でもそうね……柊矢がいてくれたら、心強いわ。なんだか、負ける気が微塵もしないもの。お前、大概容赦しないじゃない」

 それにしても、と真澄は柊矢を見上げる。
 宵闇の中に溶けるような漆黒の髪。涼し気な切れ長の目の下に、泣き黒子。まじまじとどの角度から眺めても男前である。真澄とはひと回りも年が離れていて、もうすぐ三十路だというのに万年御守に明け暮れているせいか、女の影もない。里の女達は柊矢が出歩くだけで色めき立つが、当の柊矢はまったくお構いなしなのだ。
 このまま独り身を貫くのは、あまりにも勿体ないくらいのいい男。もしかして女に興味がなく、男色の気でもあるのだろか。
 真澄の視線に気が付いた柊矢は、怪訝そうに口を開く。

「私の顔に何かついていますか?」
「別に。恋人の一人もいないお前を不憫に思っていただけよ」
 揶揄うように返せば、柊矢も負けじと言い返す。
「そういう真澄様こそ、恋の一つもしたことがないではありませんか」
「あら、わたくしのことはいいの。だって、山ほどの縁談が来ているもの」
「既にお聞き及びでしたか……」

 柊矢は苦々しく言葉を濁した。真澄は満面の笑みを浮かべて、柊矢を問い詰める。

「ねえ、好いた人はいないの? この際、男だっていいわ。隠さず教えてくれてもいいじゃない」
「人の色恋に首を突っ込んでいる場合ではないでしょう。姫が嫁き遅れたらと思うと気が気ではありません」

 すぐに真澄の方へと話しをすり替えてきた柊矢に、真澄は不満げに鼻を鳴らした。

「真面目に答えてよ」
「真澄様は、私が別の誰かに心を寄せても構わぬと本気でお考えなのですか?」

 絞り出すような柊矢の言葉に、真澄は胸を衝かれた。
 ――お前が望むなら。
 思っても、開いた唇からは吐息が漏れるだけで、言葉が出ない。
 恋人がいないのを茶化していても、いざその時が来たら動揺を隠せないだろう。今は職務に忠実に傍にいてくれるが、大事な人ができたら、きっと真澄から離れてしまうに違いないのだ。想像するだけで、淋しさで胸が張り裂けそうになる。真澄には柊矢しかいないのに。
 結局、誰にも取られたくないのだ。
 真澄は柊矢の袖の端を掴んで、のろのろと頭を振った。
 その時だ。突風が吹き荒れた。
 砂埃が目に入り、真澄が思わず目を閉じたその刹那、艶やかな女の声が降りかかる。

「柊矢。こちらへ」

 聞き覚えのない声だった。何十年と暮らしてきた山里で、真澄が知らないとなると外部の人間以外にあり得ない。この祭事の日に里長が出入りの許しを与えるとすれば、それは行商人か、里長の賓客。だが、里長が招いた人物が柊矢に近づくのもおかしい。
 嫌な予感がする。胸は早鐘を打ったようで、背中には脂汗が滲む。足元から不快な何かがじんわりと上り詰めてくるかのようだった。それなのに、真澄は目を開くことができない。これはただの突風ではない。呪力によって起こされた風だと気づいた時にはもう遅い。
 躊躇いなく柊矢が動く気配に、真澄は慌てて手を伸ばすが、その手は空を虚しく掴むだけだ。ようやく目を開けられるようになった時には、柊矢の姿はどこにもなかった。


 ◆


 篝火は遠く、人通りも少ない杉林は、風が吹き付ける度に濃い影が蠢いていた。樹齢百年以上、この里で一番大きな杉に腕を組んでもたれ掛かり、柊矢は苛立った様子の女を気だるげに見下ろす。
 
「柊矢。私がここにいるのが、どういうことか分かっておろうな?」
「……ああ」
 
 女は柊矢の足元に、鼻がもげそうなほどの異臭が漂う歪な形の包みを放り投げた。鬱蒼とした草地は瞬時にして枯れ、じわじわと赤黒い染みが広がっていく。
 無情にそれを一瞥する柊矢に、女は不機嫌そうに続ける。

「お前ができないというのなら、こちらで手を下す。最早、一刻の猶予もない」
「分かっている」 
「よもや、情が移ったなどと言うまいな。冷酷無慈悲な殺人絡繰りが。いつも通り、与えられた任を果たせ。人として欠けたるお前にできることなど、ただ斬るのみであろう?」
「いいから、手を出すな」

 鋭い眼光が女を射る。瞳はどこまでも冷たく、一切の情も見えない。女は満足げな笑みをこぼし、柊矢の襟ぐりを掴んで吐息が交わるほど近く引き寄せた。

「久しく会わぬうちに、軟弱になったと案じたが、杞憂であったな」 
「離せ譲羽(ゆずりは)。お前の匂いが移る」 
「つれないことを言う。あれほど体を重ねた仲ではないか」

 女はそのまま、柊矢の唇を食むように己のそれを重ねた。しなやかな腕が柊矢を包み、欲望を煽るような滑らかな生足が膝の間に割って入った。豊かな胸を押し当てられ、柊矢はさも不快げに眉間の皺を深めた。

「くだらぬ妄言だ」

 柊矢は凍えそうなほど冷たい視線を向け、絡まる女の手を払いのけて言い捨てる。
 その時、小枝が折れたような小気味よく乾いた音が響く。柊矢の面は咄嗟に強張った。まさかと思いすぐさま音のした方角を振り返れば、暗がりの中で狐がこちらをじっと見ている。

(……気のせいか)

 あからさまに安堵する柊矢を見て、女は片眉を跳ね上げた。
 その直後、森から一斉に鳥たちが羽ばたいていく。何かから逃れるように、何かを恐れるように。
 女は、杉林に埋もれるように蠢く小さな影を視界の端に捕らえ、唇の端を吊り上げた。

「――おや。随分と可愛らしい小狐だこと」


  ◆


 ――嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 柊矢を、取らないで。
 
 何が起こったのか理解できず、真澄は霞む目を擦り付け、薄暗い杉林の中をやみくもに駆け抜けた。
 不快なほど鼓動は逸り、指の先に至るまで脈打っている。喉に何か閊えているようで苦しくて、上手く息ができない。
 あの柊矢が、見知らぬ女と絡み合って、口づけをしていたのだ。雷を落とされたような衝撃に、震えが止まらない。
 どこにいても、離れていても、真澄は柊矢を必ず見つけられる。それは柊矢も同じだと思っていた。だがあの時、柊矢は真澄を見つけられなかった。
 追わなければよかった。見たくなかった。
 こんなに、胸が押しつぶされそうになるくらい苦しいのなら。
 すれ違う人達皆、蒼白な顔で走る真澄を案ずるように声をかけてくれるが、取り合う余裕もなく、空っぽの頭のまま走り続けた。

 耳を劈くほどの警鐘に、真澄は我に返った。
 気が付けば、界隈の端を示す注連縄が目前にある。結界の際まで来ていたのだ。
 警鐘が鳴ると言えば、よほどの大事。辺りを恐る恐る見渡すと、真澄の背後に異様な光景が広がっていた。
 天に向かって真っすぐに伸びていた杉林は酷く捻子曲がり、地面はまるで川のように波打ちうねりを上げ、全てのものを溶かすようにふつふつと沸き上がっていた。濃紺の空は鮮血のように悍ましい色に染まり、結界には亀裂が走る。里の端々で黒煙が立ち込め、焦げた臭いが風に乗って運ばれてくる。更に、そこら中に人の目玉がぎょろりと浮かび上がり、周囲を見渡していた。その目玉に射すくめられて、真澄は恐怖で身動きが取れなくなる。
 そこに、坂下の家で飼っていた子犬がおぼつかない足取りながらも逃げるように駆けてくる。真澄も可愛がっていた犬だ。真澄の傍を通り抜けたと思ったら、次の瞬間には全体を硬質な鱗のようなものに覆われて、柔らかな毛並みが失われる。更にめきめきと軋むような音を立てて、醜い牙が伸びだした。ぞっとして、真澄は思わずその場にしゃがみこんだ。
 鬼が現れたのだ。それ以外に、この異様さをどう説明できるというのだろう。
 震える唇を噛みしめて、焼けた夜空を見上げる。鬼が現れた以上、行かねばならぬ。
 真澄は意を決して立ち上がり、踵を返した。

 中央で燃え盛っていた炎の勢いは先ほどよりも増しており、方々で悲鳴が上がっている。里の中心部へ足を進める毎に、荒れた里の様をまざまざと見せつけられる。
 道脇に飛び散る血痕や首のない骸。原型を留めない姿で捨て置かれた肉塊。真澄は耐え切れずに視線を逸らした。彼らの姿は、未来の己の姿かもしれないと思うと恐怖で足が竦みそうになるが、必死に己を奮い立たせる。
 こんな時、柊矢がいてくれたらどれほど心強かっただろう。
 見知らぬ女と逢瀬を重ねていた姿を思い返し、ずきりと胸が痛む。
 一歩、進むたびに悲鳴は大きくなり、そして人の気配が薄れていく。あれほど賑やかだったはずなのに、中心部に向かうにつれて静寂が広がっていく。鼻がもげそうなほど生臭い香りが漂いはじめ、足取りは重くなった。
 開けた場所までたどり着いた真澄は、呆然と立ち尽くした。頬に生ぬるい飛沫が飛び、震えながら手の平で拭えば、鮮血がべっとりとこびり付く。
 狐の面で顔を隠した者達が、火を放ち、混乱と恐怖の中逃げ惑う里の人々を殺戮していた。彼らは、衝撃で動けない真澄を振り返り、にじり寄って得物を構える。
 その時だ。背後から腕を掴まれ、強く引き寄せられる。小さく悲鳴を上げれば、耳元でそれは低く囁いた。

「お探し申し上げました、真澄様」 
「柊、矢……?」   

 柊矢は真澄を取り囲んだ狐面の者どもを一刀両断し、真澄の手を引いて走り出す。血だまりでぬかるんだ地面に足を取られながら、真澄は懸命に走った。見知ったものが斃れていくこの惨状の中で、柊矢だけが一縷の望みだった。

「柊矢、どこへ……」

 頼りない真澄の問いかけに、柊矢は沈黙で返す。
 いつもとは明らかに様子がおかしい。どこか苛立つような、怒りさえ滲むような背中に不安がどっと押し寄せる。
 真澄は柊矢の手を振り払って立ち止まった。
 血の匂いがする。それに、僅かだが柊矢の袖には返り血が散っていた。

「柊矢、お前――」

 真澄が言い終わる前に、柊矢は、惨状から逃げるように前を走っていた女を何事もなかったかのように切り捨てた。
 真澄も随分と世話になった人だった。それを一切の躊躇いもなく斬ったのだ。
 真澄は恐怖と怒りと混乱で戦慄する。
 更に、柊矢が里一番親しく、盃を交わしあった佐吉(さきち)の腹を一刀のもとに斬り倒す。返り血を浴びながらも、全く意に介することはない。その目にはどんな感情も浮かばず、ただ淡々としていた。斬って当たり前、そんな風に次々と見知った人たちを殺していく。 
 真澄は奥歯を噛みしめ、柊矢の前に立った。そこで初めて、柊矢の無機質な瞳に真澄の姿が映り込む。

「……どういうことなの。答えて、柊矢」 
「私は、この里に関わった者たちを斬らねばなりません」
「言っていることが、よく分からないわ」
「……分かっていただく必要はございません」
「わたくしのことも、斬るというの?」
「ご名答」

 柊矢の声音はひどく冷たい。突然、見知らぬものになったかのような視線で真澄を嬲る。

「ならば何故、先ほど助けたの!」

 答える代わりに白刃が閃く。(はらわた)を抉られるような風圧が真澄を襲った。ただ刀を振り抜いただけで、この威圧感。全身総毛立つほどの殺気を浴びて、真澄は唇を噛みしめた。柊矢は本気で、真澄を殺しにかかっている。
 いつも穏やかに真澄を見つめた瞳は、今はただ鋭く、刺すように冷たい。
 真澄は小さく祝詞を唱え、全身に守護結界を張ろうとする。だが、最後の言の葉を紡ぐその前に、柊矢は地面を蹴って肉薄する。咄嗟に飛びのき呪力で防御するが、鋭い刃は真澄の髪を掠め、白い肌に一筋の血が流れる。
 間髪入れずに、雷光のような一撃が繰り出される。呪力でなんとか刀を弾いて凌ぐが、柊矢は攻撃の手を緩めなかった。身体を鞭のようにしならせて、一振り。ざっくりと肩が割れ、火を噴いたように熱い。真澄は呻き、応急的に傷口を塞いでから柊矢を見上げる。
 ひと際大きな波が地面に沸き上がり、近くの木々から煙が上がる。焦げた匂いが漂い、青白い炎が上がった。その炎は矢状に形を変え、天から一気に降り注ぐ。更に、灼熱のそれが柊矢めがけて一直線に地面を走った。低く構えて炎を切り伏せ、柊矢は鞘に刀を収めた。

「流石は真澄様。お見事です」 
「何故皆を殺した……? 裏切ったの?」
「姫。私は誰も裏切ったりなどしておりません」
「戯言を。お前は刃を向けた! それをどう申し開きするのか!」 
 
 真澄の真っすぐな視線を受けて、柊矢は微笑んだ。

「私は姫に刃を向けた。それが全てです」
「どうして……っ!」
「これ以上の問答は不要。どうか、無駄な抵抗はなさいませぬよう」

 軽い衝撃が首の後ろに走り、目の前が真っ暗になる。
 頭が痛くて、立っているのもやっとだ。頭の中には里の人々の悲鳴がいつまでも響いていた。
 真澄は体を支えきれず、そのまま地面に倒れた。


 ◆


 規則的に律を刻む水音に、真澄は目を覚ました。暗がりの中で見知らぬ岩天井が目に入り、ぎょっとして飛び起きる。じっとりとした汗が全身から吹き出し、不快感に眉を顰める。石壁に囲まれた檻の中に閉じ込められていると気づいたのは、月影が格子から差し込んだその時だった。
 闇の中から忍び笑いが起こる。次第に空間の暗さに慣れてきた真澄は、一人の女が侍っているのに気付いた。
 柊矢と口づけを交わしていた女だ。
 心臓が跳ね上がり、腹のあたりがきゅっと絞られるような感覚が真澄を襲う。

「おや、ようやくお目覚めか?」
 
 真澄は格子を握りしめ、女を睨み付けた。

「こんなことを――次代の王を預かる里を侵して、許されると思っているの?」

 怒りの籠った真澄の言葉に、女は高笑いをして返す。

「これは愉快だ! 主従ごっこに興じていた柊矢も、さぞや苦心していたことだろう」
「何を――」
「里には強固な結界が張られていた。それを侵すなど、まず不可能に近い。お分かりか? そもそも結界は鬼の侵入を阻むためのものではない。その逆だ」
「そんなわけない!」
 
 何百年もの間平穏を守ってきたあの結界が、鬼を閉じ込めるためにあったとでも言うのか。内部のものが結界を壊したとでも言うのか。
 そんなの、嘘だ。
 耳を塞ぎ、首を振る。声は震え、口が回らない。やけに乾いた唇を舐め、せり上がってくるものを無理やり飲み込んだ。

「鬼の侵入など、最初からありはしない。昔話にもあっただろう?」 
 
 ――曰く、鬼はどこからともなく現れ、全てのものを異形に変えた。

 思えば、結界の外に異形の姿はなく、全て里の中だけ異様な光景が広がっていた。外部より鬼が侵入したのだとしたら、結界の外も異形で溢れていたはずなのに。
 認めたくない。考えたくない。
 真澄は震える唇を噛みしめる。

「昔話の鬼の正体をご存じか?」

 黙して首を振る真澄に、女は続ける。

「あれは、呪力を暴走させた王の末路さ。ある日突然、己の意志とは関係なく呪力が漏れ出して周囲を侵し、結果、異形を生み出し全てを飲み込んでいく。一度制御を失えば、もう誰にも止めることはできずに死ぬまで周囲を蝕んでいく。かの鬼は賢王と称えられ、民を愛し民から愛された穏やかなお人だったが、斬るよりほか道がなかった」
「王が……鬼になったと……?」
「左様。過去の教訓を得て、我らは鬼となりえるもの――神子を監視し殺すため傍に仕えた。ただ、王が鬼であったことを記録に残すのはあまりにも忍びなく、その事実は代々口頭でのみ伝えられた」
「そんなの……っでも、柊矢は――」
「ご聡明な姫のこと。みなまで言わずとも分かろうて」

 柊矢が刃を向けた。それがどういう意味を持つのか、分からぬほど真澄も愚かではない。
 結界を無意識に侵したのは真澄なのだ。呪力を漏洩させ、次々と異形を生み出し、里を壊滅に追い込んだのも。
 膝から崩れ落ちた真澄に、女は静かに続ける。

「あれに情けを求めるだけ無駄というもの。幼少の頃より、がらんどうの心を持ち、ただ一族の使命を果たす為に生きてきたような男だ。人を斬る為に技を磨き、警戒されない為に自然な笑みを作る鍛錬を積み、姫の傍仕えをしてきた。誰にも心を開かず、誰も奴に踏み入れぬ。姫にも大して思い入れもなかろう。数々の危機からお守りしてきたのは、次代の王となるかもしれぬ方だから。しかし鬼となってしまえば、迷わず刃を向けるのは至極当然のこと」

 否定しようと開いた口をはたと閉じて、真澄は俯いた。柊矢の冷たい視線を思い返してみると、何も言えない。
 真澄より遥かに、この女は色んなことを知っている。柊矢の唇の温度も、匂いも、全部この女は知っているのだ。
 柊矢が真澄と過ごした日々のことを逐一忘れずに覚えているのも、ただ監視する都合、必要だったから。
 そうと分かっても、柊矢のことが好きだという気持ちを消すことなどできるはずもない。真澄にとって、柊矢がいることは当たり前で、そんな日常が愛おしくて仕方ない。
 黙したままの真澄を見て、女が言う。

「介錯が必要ならば、私が請け負う」

 ふと柊矢の言葉が思い浮かぶ。

 ――その時が来たら、この柊矢が斬って差し上げます

「……柊矢はどこ?」
「ここに」

 いつからいたのか、柊矢が真澄の前に進み出て、跪く。

「柊矢。約束を覚えていて? 鬼が現れたその時の」
「無論。真澄様と交わした言葉を、忘れるはずもございません」
「そう……そうよね。お前はこれまで一度も、わたくしとの約束を違えたことはないもの。ほんと、馬鹿が付くほど真面目なんだから」

 虚しいほど澄んだ柊矢の瞳に、顔をくしゃりと歪めて泣き笑いを浮かべる真澄の顔が映り込む。柊矢は眉一つ動かさずに、じっと真澄の言葉を待っているようだった。そこからはどんな感情も読み取れず、まるで絡繰りそのものだった。
 縋るように、柊矢のやけに冷えた顔に触れる。僅かに目を見開いた柊矢の額に己のそれを重ね、真澄は掠れる声で囁いた。

「――さあ、約束でしょう? (わたくし)を斬って」

 鞘から抜かれた刀身は、月明りに照らされて冷ややかに輝いた。刹那、神子の剣舞のごとく、凛とした美しい一撃が真澄に下された。
  


 ◆


 明け行く薄紫の空に、縮れた雲が浮かぶ。 
 蜜色の光に照らされた華奢な躯は、まるで深い眠りについているかのように美しい。
 まろやかな青白い輪郭に、ふっくらとした花のように赤く瑞々しい唇。黒檀の髪を指で梳けば、絹のような肌触りで、指の間をすり抜けていく。白磁のように滑らかで細い四肢は既に冷たい。瞳は固く閉じたまま。だというのに、星々の煌きのような瞳が脳裏を閃き、その幻が鮮やかに柊矢を射て、いずれ目を覚まして微笑むのではないかという錯覚に陥る。

『――柊矢』

 唇を指でなぞる。この名を呼んだその声は、どんな音よりも心地よく、美しかった。今でも柊矢の中で残響するその声は、次第に遠く、薄れていく。
 
 ――ああ、そうか。

「――貴女はもう二度と、その声で私を呼ばぬのか」

 言葉にした刹那、一粒のしずくが手の甲にぽたりと落ちる。柊矢はそれが何か分からずに驚き、戸惑う。そして自制もできず、堰を切ったように次々としずくが溢れて落ちる。
 物言わぬ少女を抱きしめて、深く、深く。
 
 やがて、少女の骸を抱いた男の姿は、朝焼けの野に溶けていった。  
 

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