◇8(1/7)
 木枯らしに肩をすくませつつ、コートの襟を立て、アパートの階段に足をかける。

 なんなく、四階にある部屋にたどり着く筈だった。
 
 たん、たん、と足音が重なる。
 
 頭上から落ちてくる影。
 
 踊り場ですれ違う、予定だった。が――
 
 肩を掴まれ、背骨は鉄柵に叩きつけられる。
 
 何事かと思う前に、あたしの唇は塞がれていた。
 
 髭を、じゃりじゃり、なすりつけられ、アルコール漂う唾液、押し寄せる生臭さ。
 
 それは見知らぬ、男。それも、……下半身裸、
 
「ひっ……」引き絞られた声が出る。必死に、手に持つかばんを振る。
 
 途端、解放されて勢い余り、
 
 ――こういうときほど、視界がクリアになる。
 
 目前に迫る階段、棒きれのように落ちてく自分。
 
 最終的には、一番下で止まった。手で庇ったが遅く、頬に冷え冷えとした灰色コンクリート。
 
 痛さはあとからやって来た。息をするだけで増幅する。喉が詰まり、指先を動かせない。
 
 聴覚のみがいやに働き、あたしは再度足音を拾う。
 
 呆然と、見ていた。
 
 ズボン慌てて引きあげて、逃げ去る男の背中。
 
 40、50代だろうか、若くない。腹も出ている。
 
 這いつくばった虫けらのごとく、なにも出来ず、見送っていた。


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