駅までの並木道で、かっちりしたステンカラーのコートの男性とすれ違う。整髪料のにおいが鼻をかすめる。条件反射であの人が頭をよぎって視線を落とせば、今度は上等な革靴の群れが飛び込んできてぼんやりしていた像がはっきりした線を結ぶ。にび色の空はあの人の髪を、通り抜けざま触れたスーツの質感は指をかけた肩を想起させる。オフィス街のあちこちで時折上がる、似ても似つかない低い笑い声すら。私の五感はもうすっかりあの人のものだ。


にょきにょき伸びるビルの間に挟まれたオープンテラスのカフェで待ち合わせていた。テラスに人影はないけれど、サンシェードの向こうの室内からは談笑の暖かさが漏れている。つるりとしたバーを押して店内に入ると、黒いエプロンの店員がするりとやってくる。「いらっしゃいませ、おひとりですか? 」気にしませんよとばかりの笑顔を前にして、私は初めて店内を見回した。テーブルは合わせて8つでそのうち5つは埋まっていたけれど、壁沿いの4人席にも窓際の2人席にもあの人はいないので、後から1人来ますと言って入り口から数えて3つ目の2人席に座った。メニューを見ながら携帯を確認すると、ちょうど待ち合わせの1時30分だった。こうして昼間であっても待ちぼうけを食わされたこともあるので、バッグにいれっぱなしだった読みさしの新書を取り出して待つ。本の趣味や性格まであの人に変えられてしまった。決して喜ばしいとは思えない。

注文したカプチーノが半分になるころ、あの人はやってきた。ドアベルの音に何気なく顔をあげると、私を探すあの人と目が合う。DAKSのコート。たぶん日本じゃ売ってない。片手をスッと上げてこちらに歩いてくる間、浮かれた顔を見られないように新書をしまうふりして俯く。向かい側に座った気配がして、整髪料と香水の混ざった気取ったにおいに顔を上げた。


「すまなかったな」


コートを脱いで乱雑に置いた銀さんは、スーツの内ポケットから煙草を取り出す。真似するように私も机の上に放り出したままのキャスターをくわえた。前はラッキーストライクを吸ってたけど、銀さんが見咎めてこっちにしとけと言うので変えたのだ。私の全てはこの人の望むままだ。
銀さんはブレンドを頼んだ。この店のコーヒーが美味いと教えてくれたのも銀さん。お前も何か頼むかと聞かれたけど静かに首を振る。


「そろそろ冬も終わりそうだな」
「ああ、あったかくなってきましたね」


すぐに運ばれてきたコーヒーに口をつけながら、銀さんは微笑む。穏やかな目つきに、私はなにも言えずつられるように冷めたカプチーノを一口飲んだ。エスプレッソの黒い苦さが際立つ。柔らかい茶色を覗き込みながら、会ったばかりなのに今度はいつになるだろうかとそればかりが頭を離れない。机の上に置かれた2つの携帯電話が今にも震えそうで、不安でたまらない。


「…お仕事、順調ですか」


こんな聞き方は卑怯だとわかっている。銀さんは事も無げにそうだな、春までは忙しくなるだろうと言った。じゃあ春まではもう会えないのか。今日だっていつお呼びがかかるかわからない、明日の朝まで一緒にいられるかどうかも確かじゃない。そんなほんの数時間のために、メイクもファッションもあなたに釣り合うものをと一生懸命な私のことを、銀さんは満足そうに眺めていた。


「寂しいか?」
「そりゃあもう」


冗談めかして肩をすくめる。この人は、例えばちょっと道を歩いているだけで私を思い出すことがあるだろうか。ないんじゃないかな。そう思いながら私は会えなかった3カ月の話をした。仕事で成功したこと、ミスしたこと、最近見た映画。銀さんはそのいちいちに相槌を打ってくれる。そうしてあらかた話し終えて、銀さんは?と聞こうとした瞬間、銀さんの仕事用の携帯が震えた。おっと、そう言いながら席を立ちながら携帯に手を伸ばす。それを追うように私は前のめりになってその手を捕まえていた。銀さんの手はいつも冷たいですね、なんて話したのはいつだっけ。ああそうだ、去年の夏だ。


「ヨシカ?」
「…ごめんなさい、なんでもないです」


なんでもなくないことを見抜いてくれたらいいのに。そう思いながら私はゆっくりと腰を下ろす。どうぞの代わりに手のひらを差し出すと、銀さんは携帯を開いてそして閉じた。素早くコートを着込みポケットに携帯をしまうと、阿呆みたいに差し出しっぱなしだった私の手をとる。


「どうした? ほら、行くぞ」


慌てて脇に置いていたコートと鞄とをひっつかみ、引かれるままに店を後にした。会計は銀さんがさっと済ませてしまった。だってそんなことよりも触れた手のかさついた感じがたまらなかったから。


「あの、電話いいんですか」
「…ハハッ、なんだ。出てほしいってのか」
「だって大事な電話だったら」
「構わねえさ。それで、お前はどこに行きたい?」


答えならもう決まっている。あなたの行きたい所ならどこへでも。