声をかけるより先に手が出た。急に肩を掴まれたヨシカはむっとした顔で振り返ったが、顎でしゃくって目の前の電柱を教えてやると、もともと八の字ぎみの眉をもっと垂れて笑いながら謝った。一見照れくさげに見えるその笑い方は、むしろいつまでもぼんやりしたところが直らないことへのちょっとした嘲笑だ。同じように笑うところを何度も見た。警戒心の強い小リスみたいなヨシカがふいに無防備になるのは、たいてい何かに夢中なとき。


「今度は何を見てたんだ?」
「満月。ほら」


振り仰いだ右斜め上の方で、コンパスで描いたような正しい円が浮いている。特に感想が浮かばないのでヨシカの顔を見ると、そのつまらないものに飽きもせず心奪われていた。初めて外に出た子供みたいな目だ。小さなテリトリーから飛び出した瞬間、視界いっぱいに広がったぴかぴかに真新しい世界を、細部まで見逃さないようにと目をこらす幼子だ。まさか月を見るのが初めてというわけでもあるまい。つられるようにもう一度月を見たが、何も不思議なことはなく、いつもと変わらぬただの満月だった。


「夏目漱石って知ってる?」
「……いや」
「ふぅん、じゃあいいや」


そこで初めてヨシカは俺を見つめる。何かを言いたかったのだろうがお互いに然して執着があるわけでもなく、俺が肩を離してやるとへたくそな鼻歌を歌いながらさっさと歩き始めた。そういえばもう9月か、といまさらのように思いだし、そうなるとむき出しの腕を撫でた風の冷たさが気になって、風呂に入りてえな、と思った。








「あれは、いつだった?」
「アンタがタバコ切らしたから、夜中にばあさんの煙草屋に盗みに入ったとき」
「ああ、そうだそうだ」


窓辺でタバコを吸うヨシカの目はあの日と同じように満月を見つめていて、皺が増えて張りを失った顔の中で眼差しだけは変わらないものだからつい可笑しくなって笑みが漏れた。あの時ヨシカはお代を置いていくべきだとしつこく主張したから、たかが20円ぽっちじゃねえかと思いながら小銭受けに置いて帰ったのだ。その帰り道のことだったか。
すっかり準備を終えて椅子に座る俺を、ヨシカは決して見ようとしない。じりじりと短くなっていくタバコの分だけ時間が減っていくようでも、焦りはない。こいつを置いていくことに何のためらいもない。必死にあがいたところで、どこかでこうなることをお互い知っていた。俺たちが繋がっていたのは、思えばそこだけだった。そこだけでよかった。俺にとって、それ以上のことは何もない。


「美味そうだな、それ」
「…机の上にあるけど」
「いや、それがいい」


普段から年寄りのわがままはみっともないと俺に言い聞かせ続けてきた効果がまったくなかったからか、ヨシカは体がしぼみそうなほどたっぷり息を吐くと、俺の唇に吸いかけの煙草を咥えさせた。乾いた皮膚同士が触れ合う。


「ありがとよ」
「ねえ、」


夏目漱石って、知ってる?
あの日を繰り返す質問に、今度は首肯する。小難しい本なんか手に取ったこともなかったが、ふとした拍子に誰かに尋ねたような気がする。そんな臭い和訳をあのヨシカが言おうとしていたのか、と驚いたせいで誰に聞いたのかはちっとも覚えていない。だが、口が裂けても言えやしない、そんな大味な言葉じゃほんの端っこも表しきれない、そんな大層なもんじゃない、とそう思うヨシカの叫びだけはわかる。ましてや死にゆく人間に、この俺に、そんな台詞を吐いてお互いを縛りつけるのはいまさらってもんだろう。だからそれだけ持っていけるよう、目をつぶる。血液のように無念が指先まで広がる、なんて心地いい。



「月が綺麗ですね」