アカギさんはきっと全部知っている。例えばわたしの脈絡のないひとりごとがどこから来てどうして口から飛び出したのか、わたしの知らないことまで全部知っている。
頭でっかちのわたしには知識しかない。徳川家全部の将軍の名前とか人体が何で構成されているかとか、微分積分とか。そんなことしか教えてくれなかった学校を昔は大層憎んでいたけれど、今は少しだけ恨んでいる。



もう春なのに雨は冷たい。薄い窓ガラスを通して冷気が這うように六畳一間の床を満たす。先週こたつとストーブをしまったのでほんのり青白くなったつま先を暖めるものが何もなく、わたしは毛布で足をぐるぐる巻きにして掛け布団を頭からかぶって震えていた。貧乏な学生はテレビなんて贅沢品を持っていないので、仕方なくラジオの垂れ流すジャズを聞くともなしに聞きながら、吐く息で湿気のこもった布団の穴ぐらで本を読んだ。なんかこれ作家みたい、とくだらないことを考えた瞬間、錠の回る音がして心臓が急に拍動を強め一気に顔が火照るのを感じた。東京はこわいところだから、と口を酸っぱくして言い続けた母の言葉をわたしは忠実に守っていて、鍵を開けられるのはわたし以外に一人しかいないからだ。そんな馬鹿みたいにあさはかな思いまで瞬時に知ってしまう人。


「なにやってんの」


静かで濡れたような声をもっとちゃんと聞きたくて顔だけ出すと、白い髪をつややかに湿らせたアカギさんが雫を滴らせて玄関に立っていた。慌てて布団の海に本を沈めて立ち上がったわたしは部屋の角のタンスからタオルを引っ張り出した。アカギさんはそれを受け取ってわしわしと頭だけ拭いて、ありがとう、とそれで充分だとばかりにわたしに返した。狭い部屋を横切るアカギさんの足跡が日に焼けた畳にうっすら残る。途中で靴下をわずらわしそうに脱ぎ捨て、アカギさんは窓を開けた。それを拾い上げてタオルと一緒に洗濯物かごに放り投げ、ベランダに足を投げ出してサッシに座るアカギさんの後ろに立つと、ひゅうと吹き込んできた風で体がぶるりとひとつ大きく震えた。骨ばった足のつま先がわたしよりも青白いのに、アカギさんはちっとも寒そうにしない。いつもどおりに煙草を吸っている。


「寒いなら中入ってなよ」
「寒くないです」


誰のためかもよくわからない強がりを吐くとアカギさんは喉の奥で笑った。ほんとに寒くないんです、と白い渦を巻くつむじを強い視線で見つめて言っても、そう、とどうでもよさそうな相づちが返ってくる。何度も言うとそうじゃなくても嘘に聞こえるのでわたしは口をつぐんだ。こういうときは白状したくなる。ごめんなさい嘘です、ほんとはすごく寒いです。そして本当は煙草をはさむうつくしい指先に触れたいだとか青いシャツの背中にさわりたいだとか思うけれど、その衝動はアカギさんにぶつかる前にわたしの体の内側にぶつかって脆くも消滅する。自覚した瞬間その気持ちは妙に芝居じみてくる。わたしはそれに耐えられなくて、いつだってアカギさんにさわれない。どうにかしてかたちにしてしまいたいのに、やり方が全然わからない。
アカギさんはわたしをちらりと見上げて、短くなった煙草をベランダのコンクリートに押しつけた。すっと立ち上がってこっちを向いたアカギさんはいつもの顔で、わたしの頭をとても慣れていない雑さでわしゃわしゃなでて、わたしを追いこして布団のわだかまりを枕に横になった。わたしはしばらく立ち尽くして、ない頭で一生懸命に考えたけれど、やっぱりわからなくて、振り向いたらアカギさんは目をつぶって静かな寝息を立てていた。濡れたままの服を見て、風邪を引くかもしれないと思い至り枕にならなかった毛布をかけてあげた。わたしもこっそりそこに足だけお邪魔させてもらうことにして。アカギさんの体温がこもった中は暖かくて、吐いた息が隠しようもなく震えた。