代打ちの仕事を終えて幸雄が帰宅するのはたいてい昼前だ。昨日の夜ちらっと見たときよりくたびれてしなびた前髪を垂らし、ぐったりした様子で帰ってくる。その仕事絶対向いてないよ、その姿を見るたび思うけれど、そこを突くとぼろぼろ泣きだすかヒステリックに怒り出すだろうから私はいつも何も言わない。


「おかえりー幸雄ー」
「お前なぁ、ソファで寝るなって何度も言ってるだろ」


会社帰りにふらっと寄った無印で手触りに惚れて購入した毛布にくるまって、昨日仕事から帰ってきてそのままの格好でいる私に、幸雄はサングラス越しに呆れた視線をよこしてくる。相変わらず、眉間にちょっと皺を寄せて軽蔑するような上品な仕草がよく似合う。化粧も落としてないせいでまぶたのあたりがカピカピするし、スーツは皺くちゃだ。んー、とだらしないまま気のない返事をした私の様子にもっと脱力したのか、幸雄は珍しくジャケットを雑にダイニングテーブルの椅子の背にかけてサングラスも机の上に放った。


「ねえ幸雄、お腹すいた」
「会社は?」
「休みです、二週間ぶりの」
「…コーヒー入れといてやるから顔洗って着替えてこい」


はーい、と手をだらんと掲げ、私は重い腰を上げた。やっぱりソファで寝たせいかちっとも首・肩・腰の疲れが取れていない。関節という関節をバキバキやりながら、私はキッチンを横切り洗面所へ向かった。





幸雄のスウェットとトランクスを勝手に拝借して戻ってくると、幸雄は冷蔵庫から玉ねぎとピーマンを出していて、さてはナポリタンだなとニヤニヤする。神経質で細かいこともおろそかにしない性質だから、調味料からなにからきちんとはかって丁寧に作られる幸雄の料理はその方面で就職考えた方がいいくらい美味しいことを、私の舌と胃はよく知っている。それに、疲れているのは一緒なのにお腹がすいたと言えばぶちぶち文句を言いながらもご飯を作ってくれることも。なんて甘やかされていることだろうと思うとたまらなくなった。
濃いめに入れられたコーヒーがサーバーに落ちていくゴロゴロという音が微かにしている。後ろからこっそり近寄った。真っ赤なシャツの襟ぐりから、なまっちろいうなじがのぞいている。整えられた白い髪の生え際とわからないくらい。腕まくりをした肘から先は、繊細なくせにがっちりと筋が浮いている。すとんと落ちた腰のあたりにだぶつくワイシャツ。サウナの中に入る瞬間みたいに、熱気がぶわりと私の中に広がった。


「うわっ…!危ないだろっ!」


私は幸雄の腰に腕を回していた。首筋に鼻をこすりつけると、煙草と香水の混じった場末っぽい匂いがした。くすぐったいのか幸雄は体を固くしている。右腕だけ離して、ワイシャツの襟を引っ張る。傘みたいにぴんと張った肩に続く筋。幸雄の痛がる顔、見たい。やめろよ、って言ってほしい。愛しいなんかよりずっと凶暴な熱気に、くらくらする。
その瞬間、私は力加減なしに、幸雄の肩に噛みついていた。


「なっ、にすんだっ…!」


喉の奥で噛み殺し損ねたみたいな悲鳴を上げた幸雄は、持っていた包丁をシンクの中に落とした。がちゃん、とけたたましい音がして、私は叱られた犬みたいにぱっと口を離す。幸雄の肩に、私の歯型がでこぼこと波打って、そのくぼみが真っ赤になっている。特に犬歯のところなんか今にもぷつりと破けそうなほどめりこんでいて、とても痛そう。幸雄の顔はなぜか真っ赤だった。


「あ、ごめん。つい」
「つい、で済むかよっ…!」


ったく、とかなんとかぶつぶつ言いながら幸雄はシンクに落ちた包丁を洗い始めた。振り向くと、二人分のコーヒーがいつのまにかサーバーに溜まっていた。その横に温められたカップが二つ並んでいる。几帳面すぎて可笑しくなって喉の奥でふわふわ笑うと、何を勘違いしたのか笑うなよっ、と幸雄の鋭い声が飛んできて、私はついに大笑いした。