日常はモルヒネだ。末期の癌患者みたいに夢心地で安楽死するため用意された甘いくすりは、どんどん量を増やさないとすぐに目が覚めてしまう。そうしてその薬が原因で、一番恐れていたはずの死に向かうのだ。はっと気がついた時には死んでいたなんて、冗談じゃない。だけどああ死ぬんだ、死ぬ、死ぬ、なんて思いながら眠りにつくように死ぬのも未練がましくて、いやだ。もっと大きな力でさらっていってほしい。劇が終わるみたいな唐突さと強引さで。ときどきふらっと立ち入り禁止の札を越えてしまうのは、その願望からなのかもしれない。
人が当たり前にこなすことすらうまくできないこの体は、劣等であることに価値を見出すより他に生きる術を持たない。だけどわたしはもうそんなみじめさに疲れてしまった。重度の中毒患者たちの中で、はっと目を覚まして、みんなと同じ薬じゃもう麻痺しない神経に気がついて、夢の国から追放されるのはもういやだ。とっくに気が付いている。わたしはたしかに死ぬ。杭のように胸のド真ん中を突き刺すそれはふとした瞬間強烈に痛んで、ポンコツの体と相まって、わたしから気力を根こそぎ奪っていく。

ぎりりと歯を食いしばって歩くわたしの歩調は鈍い。スーツのサラリーマンたちが、ピカピカの革靴を鳴らして横を追いぬいていく。痛んで広がった金髪に煮たまごみたいな顔面のギャルたちとすれ違う。その視線のビームにやっつけられて、このまま立ち止まってしまいたいのをこらえて、わたしはごく小さい歩幅とおばあちゃんみたいな速度でどうにか歩き続けた。今日の分の講義を全て受け終えた脳みそと体は疲弊していたけれど、わたしの足は持ち主とは違って躊躇わずにそこへ向かっていた。いるとは限らない人に会いに行くために。
赤木さんは幽霊のような人だった。卓を囲んで話していても、ふと目を離したらいなくなっていそうな人。それからそれを見ていた人に、いま誰と話していたの?なんて聞かれてしまい、わたしはきょとんと目を丸くして首をかしげる。それくらいに遠いところにいる人だ。初めて会ったときに直感した。わたしたちの誰もが焦がれてやまないけれど、どれだけ手を伸ばしたって届かない、非日常を生きる人だって。
古ぼけたビルの狭い階段をのぼって、天井の低い通路を通り、裏路地にあるスナックみたいなちゃちな木の扉を開ける。


「ロン。親ッパネだ」


夜の川の音みたいにしんとした声がわたしの脳天を貫いた。タバコに火をつけた赤木さんは、点棒を卓の横に各々ついているケースにしまうために伏せていた目を上げて、わたしを見るなり笑った。


「よお。また来たのか」


はい、とだけ答える声が上ずったりしないよう、喉を力いっぱい締め上げる。赤木さんはおそらく途中だろう卓をほったらかしにしてするりと立ち上がると、多すぎる札をカウンターに置いて、わたしの背後の扉を開ける。肩越しに視線がかち合い、慌ててまわれ右すると、それで合っていたのか赤木さんはクク、と笑ってわたしの手首をつかんだ。扉が閉まるより早く歩き出した赤木さんの後ろを大人しくひきずられていく。こんなことは初めてでどうしていいのかわからない、なんてカマトトぶる頭の中が腹立たしい。また焦って、うまくできなくて、嫌というほど叩きつけられた現実に息すらできなくなりそうだ。
赤木さんは人気のない路地裏で足を止めて、わたしの手を解放した。たいして高くもないビルとビルの隙間はそれでも薄暗くて圧迫感がたまらない。体ごとわたしに向き直った赤木さんの、枯れ木の皮みたいな首筋に見とれていると、そこに無骨な形のまま乾いた廃墟のような手がかぶさる。


「なあ、ヨシカよ。俺は、死のうと思う」


口がまるのかたちに開いて、そこから何も出てこないとわかると、すぐに閉じた。赤木さんがようやく触れられる場所まで近づいたようで、その目を見つめて突き落とされた。赤木さんはたしかにわたしを見ている。それなのに今度はわたしが幽霊になったしまったようだ。


「どうしてですか」
「もう勝負ができない体になっちまった」
「違いますよ、そんな話じゃなくて…」


どんどん自分が透明になっていくようで、言葉を焦る。赤木さんはそんなわたしを根気強く見守っている。ミステリーの結末を早く知るためページを急いでめくるように、気ばかりはやる。


「そんなことで、死ねるんですか」
「俺にとっては、それがすべてだった」
「こわくないんですか」
「こわいさ」


この人とこんなにも真っ直ぐ向き合ったのは初めてで、その重たさに心がぺしゃんこになりそうだった。それは圧倒的な覚悟の差だ。だけどここから逃げ出すことだけはすっかり諦め癖のついたわたしにも赦せなかった。両足をしっかり踏みしめて、そのどこまでも逃げ出したくなる視線を真正面から受け止める。きっとこれが最後になる。


「死、ってのは理不尽だなあ、ヨシカ。でもな、お前、そんなに恐れることじゃねえのさ」
「なんでですか」
「その理不尽こそ、不条理こそ、人生だからだ」


赤木さんは晴れやかな笑みを見せた。本当に、しあわせだけじゃない、もっとたくさんのことを知って、痛みも何もかも抱えて、ゆっくり染み込ませるように噛みしめてきた人の笑い方だった。そのうつくしさに涙が出た。軽やかな指先がそれをそっとぬぐってくれて、こんなことができるほど赤木さんはしあわせだったのだと悟った。

赤木さんは死んだ。わたしは初めて二人称の死というものを知って、わたしの中でも何かが死んだ。膿んで腐ったそこは触れずともずきずき痛んだけれど、その痛みがいとおしい。劣等であることも、何一つ成せないことも、そのすべてを許せないままでも抱えて、わたしもいつか死ぬのだろう。