2話

 気がつくと、自宅の物ではない柔らかなベッドに横たわっていた。昨晩、男と店を出てからの記憶が殆どない。身体を半分起こすと頭にズキズキとした痛みが走り、記憶をなくしてしまったのは酒を飲み過ぎたせいだと察する。
 体を起こした拍子にずり落ちた掛け布団の下に見えたのは下着の一枚も身にまとっていない生身の素肌だ。シーツにファンデーションと口紅がべっとりとくっついている。
 どうやら昨晩はヤらかしてしまったらしい。男に逃げられたばかりで人肌恋しかったとはいえ、自分が出会ったばかりのヘテロの男とシャワーも浴びずにヤってしまうとは夢にも思わなかった。男からのアフターの誘いを受け入れたのは、相手が金に余裕のあるヘテロなら、おかしなことにはならないと確信していたからだったはずなのに、とんだ計算違いだ
 深く溜息をついて、視線を横に逸らす。昨晩繋がった男は、うつ伏せの状態で眠っていた。苦しくねぇのかな、と思いながら男のむき出しの背中をまじまじと見つめる。うっすらと開いたカーテンから差し込む光に照らされた、ニキビ跡のひとつもない男のそれは、程よく引き締まっていて美しかった。
 そうして視線を下ろしていく内に、アキラは男の左手薬指に指輪がはまっていることに気がついた。小ぶりのダイヤがいくらかついた、いかにも値の張りそうな指輪だ。
 眉間に皺を寄せて、唇を噛む。昨晩それの存在に気付けなかった自分に腹が立って、悲しくもないのに鼻の奥がジンとする。
 アキラはバイセクシュアルの男が嫌いだった。特に、結婚しているくせに、男遊びをするバイの男は許せない。打算で女と結婚しておいて、セックスは男ともするだなんて、そんな都合のいい話があってたまるかと思うのだ。
 つまるところ、現在隣で眠っている男はアキラにとって許せない存在である。先程までは見惚れていた美しい背中に、今は唾を吐いてやりたいとすら思う。
 それでも客を相手にそんな真似が出来るはずもないので、アキラは肩を落とす。昨晩の疲れがどっと体に押し寄せてきて、涙が出そうになった。ファンデーションを塗りたくったままの肌が圧迫感を訴えている。仕方なくベッドから床に降り立つと、化粧を落とすためにバスルームに向かった。

 メイクを落とすついでに頭と体を洗って、ヒゲも剃った。湿気を保ったままの髪の毛を、備え付けのタオルで拭いながら、バスルームから出ると、先程までは眠っていた男が目を覚ましていて、バスローブを羽織って窓の外を眺めていた。数瞬、男の後ろ姿を見つめたアキラは小さな違和感を覚えて目を細める。男の髪の色が昨晩とは違って見えたのだ。店の照明はかなり暗めに設定されているのでなんとも言えないが、髪型も昨晩とは違う気がする。
「アンタ、誰」
 呟いてしまってから、アンタ呼ばわりはさすがに失礼だったかと思う。
 そうして振り返った男は、やはり昨晩アキラをアフターに誘った客ではなかった。しかし、男の嫌味なほどに整った顔立ちには確かに見覚えがある。十年以上も昔に、ほんの数回口をきいただけの男の名前を、アキラは覚えていた。
「跡部……」
 動揺から、掠れた声で呟くと「神尾か」と返された。相手が自分の名前を覚えているとは思ってもみなかったので、ますます動揺する。
「お前、化粧下手だな。部屋にお前が連れて来られたとき、化物かと思ったぞ」
「バケ……あれくらいやらないと知り合いに会ったときバレるだろ」
「バレて困るような相手がいるのか」
 跡部は少し意外そうに言った。ムっとしたアキラが、誰にも知られたくはないと言うと、小馬鹿にしたように笑う。
「親兄弟にもか」
「一番言えねえだろ」
 アキラと一晩を過ごしたのだから、跡部にも同性愛の気はあるのだろう。しかし、左手薬指に指輪を付けた彼が、家族へのカミングアウトを済ませているとは到底思えなかった。
「お前、女になりたいのか」
「……はあ」
 どうしてそんなことを尋ねるのか、と一瞬だけ考えて、しかし単なる興味に違いないと結論づける。女になりたいわけではないと答えると、「ゲイじゃねぇのか」と、質問を重ねられたので、今度は首を横に振る。
「意外だな」
「何がだよ」
「お前、昔は好きな女がいただろ」
 杏のことを言われているのだと察した瞬間、心臓が飛び跳ねた。そんなことまで覚えているのか。こめかみを嫌な汗が伝う。同性愛者となってしまった現在でも、杏はアキラにとって特別な存在だった。
「フラれたのか」
「関係ねぇだろ」
 かたい声を返すと、跡部の口元が歪んだ。全てを見透かすような強い瞳に見つめられたアキラは、息苦しさを覚えて俯いた。

 中学の卒業式の日、杏に告白をした。跡部に言われた様にフラれたのだが、なんとなく諦めきれなくて、その後もずっと好きでいた。その間、彼女以上の女には出会えなかったし、学校の離れた彼女とは、友人としての付き合いが続いていたものだから、恋心は重みを増して堆積していくばかりだった。
 年季の入った恋の地層が崩されたのは、大学二年生のときのことだった。杏が妊娠したのだ。当時短大の二年生だった彼女は、子どもが産まれるのは卒業した後だからと言って、相手の男との結婚を決めた。もちろん橘家の人間、特に桔平は、猛反対していたのだが、一度母になると決めた彼女の強固な態度は揺るがなかった。
 そんな彼女に呼びつけられて、「彼との子供が出来たのよ」と打ち明けられた二十歳のアキラは、当然のことながら酷く動揺した。それでも、子供のようにあどけない笑顔を浮かべた彼女を前にすると、つまらない否定の言葉を吐く気にもなれず、「おめでとう」と、祝いの言葉を口にした。それを受けた杏が、「そうやってすぐに祝ってくれたのはアキラくんとこの子のお父さんだけよ」と、言うのを聞いて、初めて、アキラは長年続いた自分の片思いがついに終わってしまったのだと察した。
「杏ちゃんの子供ならきっと可愛い」
 今度の言葉は先程のそれよりもすんなりと口にすることが出来た。笑みを深めた杏が、「この子、女の子なんだって」と、ワンピースの下の腹を撫でる。そんな狭い場所に子供が入っているのか、と意識すると、なんとなく不思議だった。アキラは、前に会ったときよりもほんの僅かに膨れた杏の腹の中で、彼女と同じ顔をした彼女の子供が、窮屈そうに顔をしかめているのを想像して、眉間に皺を寄せた。
「窮屈そうだな」
「今はまだ小さいから大丈夫よ。アキラくんも、触ってみる?」
 手招きをされて、杏の隣に腰掛けたアキラは、彼女の誘導に従って、恐る恐るそこへ触れた。手で触れた感触だけでは、そこに子供が潜んでいることを実感することは出来ない。
「まだ動いたりはしないんだけど、撫でてあげると喜んでくれる気がするの」
 そう言われてゆっくりと手を動かす。ずっと好きだった女に触れているのにいやらしい気分にならないのは、彼女が既に母となってしまったからなのだろうか。
「私、この子を妊娠したって分かったとき、少しだけ不安だったの」
「どうして」
「まだ二十歳にもなってない私が、きちんとしたお母さんになれるのかなって」
「杏ちゃんなら、」
「いいお母さんになれるって言おうとしたでしょ」
 小さく頷くと、「アキラくんは、絶対に私のことを否定しないよね」と、返される。
「それは……」
「それが悪いって思ってるわけじゃないの。アキラくんの言葉には嘘がないから、私はアキラくんと話してるとすごく勇気が湧いてくる」
 優しい声だった。子供が出来たからだろうか、今日の彼女の声は、今までとは違った風に聞こえる。アキラは彼女から生まれてくることの出来る子供を羨ましく思った。
「この子のお父さんは、私にありがとうって言った。そういうことを言うタイプの人だとは思わなかったから、少し驚いたのよ。それで、全部俺に任せておけって言ってくれた。杏の人生も、子供の人生も、俺が背負っちゃるって」
 ベタな恋愛ドラマが好きなアキラは、素直にカッコいいじゃねぇかと思ってしまった。それと同時に、その男には勝てないな、とも感じる。中学生の頃から知っている女の子のことを、そんなにも深く愛している男がいるのだと思うと、いっそ感動すら覚えた。
「籍はすぐに入れようと思っているんだけど、結婚式は卒業してからすることになると思う」
「杏ちゃんのドレス姿が見たいな」
「ふふ、じゃあ披露宴の余興は楽しみにしてるね」

 そんなやりとりをした日の晩、アキラは夢を見た。男であるはずの自分が、妊娠をして、子供を産む夢だ。男の体から産まれてきた子供の顔がやけに穏やかだったのが少し不気味だった。
 目が覚めると、体中が汗でじっとりと濡れていて、気分が悪かった。時刻は夜中の二時を過ぎた頃だったが、ベッドに再び体を埋めても上手く寝付くことが出来なかったので、汗を流しがてらシャワーを浴びることに決める。
 温いシャワーで体の熱を冷ましながら、つと鏡に映る自分の姿を見つめる。筋肉はついているが、薄っぺらな体だ。身長も特別高い方ではない。それでも子供を孕む女の体とは、根本からして違う。
 自らの下腹部に手をやって、円を描くように撫でる。夢のなかではこの中でアキラの血を分けた子供が胎動していた。
 子供が欲しい。漠然とそんなことを考えた。報われない恋はもう捨て去ったのだから、新しい恋をして、セックスをすれば子供なんて簡単に作れる。しかしアキラが欲しいのは、自分の腹の中で育てた子供だった。
 アキラは、母となった彼女に打ちのめされたのだ。
 勿論、男の体では妊娠出来ないことなど重々承知である。アキラは卵子を持たない。そのくせ無駄死にさせた精子の数は星の数なので笑えなかった。
「男とセックスでもすりゃあいいのかな」
 シャワーの音に紛れて聞こえた自分の呟きが思いの外重たかったので、アキラはゾッとした。
 アナルセックスなんて気持ち悪いだけだ。そう思いながらも、菊座に人差し指を添わせる。固く閉じられたそこに、他人のモノがねじ込まれ、熱い精液を注がれる想像をすると、気分が悪くなった。それなのに、先程までは萎えていた自身は僅かに熱を帯び始めている。
「なんでだよ……」
 掠れ声で自問自答しながら、昂ぶりに手を触れる。そうしてそれをしごいていると無性に泣けてきて、アキラは浴室に膝をついた。
 橘杏の少女めいた笑顔が脳裏をよぎった。彼女には幸せになってほしいと思う。自分だって幸せになりたい。
 しかしその後アキラが杏以外の女を好きになることはなかった。

 ある意味、橘杏はアキラの人生を破壊した元凶であるとも言える。だからと言ってアキラは彼女を恨んではいなかった。今更ヘテロに戻りたいとも思わない。結婚という区切りを迎えることは出来なくなったものの、アキラはそれなりに面白おかしく生きている。他人とは幸せの尺度が違うだけだ、そう思うことにしている。
「お前、死んだ魚みたいな目してるな。どうせつまんねぇ生き方してんだろ」
 だからこそ、他人に自分の人生を否定するようなことを言われるのは耐え難い。ムっとしたアキラが、部屋を出るために着替えに手をかけると、跡部がまた笑った。
「その顔のまま出ていく気か」
 そう言われて、ようやく自分が化粧を落としているのだという事実に気がつく。出勤時に着ていた洋服はもちろん女物だ。基本的には一般人のアキラには、ノーメイクでそれを着て外に出る勇気はなかった。
 仕方なく鞄から化粧ポーチと鏡を取り出して、サイドテーブルの脇の椅子に腰掛けてメイクを始める。時刻はまだ朝の四時を回ったばかりだ。こんな時間では流石に知り合いに会うことはないだろうと、さっさとこの場を立ち去りたい一心で普段より力を抑えて顔を作る。
 十分もかからない内に仕上げて、立ち上がると、跡部に顔を覗きこまれた。昨日よりはまだマシだな、と言われて、「うるせぇよ」と、返す。この部屋を出てしまえば二度と会うこともない男だと思うと口調は自然と乱雑になった。
「お前、いつもあの店で働いてるのか」
「あの店って、」
「昨日うちの部下に行かせた店だ」
「お前、昨日の奴の上司なのか」
「まあな」
 適当なオカマを見繕わせたら、ゲテモノを出されてガッカリしたという旨のことを跡部は言った。ふざけるな、と利き手を振り上げたが、すぐに動きを封じられて、平手打ちをするために開いた手に自分の携帯が握らされる。
「なんでお前が持ってるんだよ」
「お前に俺の人生の貴重な数分を消費する権利をやる」
「意味分かんねぇよ」
 掴まれた手を振り払って、鞄を床から拾い上げる。そのまま部屋を出てしまうと、跡部が追ってくることはなかった。
「……頭、痛ぇし」
 吐き気を堪えるために口元を抑えたアキラは、その場から逃げるようにホテルのエレベーターに乗り込んだ。



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