1話
指の腹にはリキッドファンデ、これでもかという程にこってりと塗りこめて、仕事用の顔を作る。分厚く塗られたファンデーションの下には、今朝方家を出ていったばかりの男に殴られて出来た青アザが潜んでいた。商売道具になにしてくれるのよ、と出勤一時間前から早くも仕事モードに入ったアキラは眉間に皺を寄せた。
真っ赤な口紅を、リップブラシを使ってオーバーライン気味に引き、チークとノーズシャドウを入れると、鏡の中にけばけばしい商売女の像が浮かんだ。もはや原型をとどめていない鏡の中の自分に向かって笑顔を向けたアキラは、化粧ポーチから安物のジェルライナーを取り出し、それを瞼の上にこれでもかという程幅広く塗りたくる。仕上げにこれまた安っぽい金髪のウィッグを被ってしまえば、鏡に映る人間はもう神尾アキラではなくなってしまう。
それだけのことが嬉しくて出掛け支度を整えていると、クローゼットの片隅に古ぼけたノートが落ちているのに気がついた。拾い上げてみると、表紙に別れたばかりの男の筆跡で「日記」と書いてあったので思わず吹き出した。
「 普通表紙に書くかぁ」
自分が一人でいることも忘れて、思わず呆れ声をあげる。ノートの表紙に分かりやすくそう記した当時の男の思考が手に取るように分かった。奴はきっと、それを書いておかなければ、これが自分の用意した日記帳であるということを忘れてしまうと危惧したのだろう。
馬鹿な男だとは思っていたが、ここまでだとは思わなかった。しかし、そんな男と三年もの間付き合い続けていた自分も大概馬鹿男だ。
一人苦笑するアキラの携帯が、机の上でバイブする。液晶に表示されているのは、会社の上司の名前だ。休日にかけてくんなよ、と舌打ちしながらも、無視するわけにもいかないので渋々とる。
もしもし、お疲れ様です、はい、はい。一応は丁寧な口調を保ちつつも、気持ちは既に夜の仕事の方へ向いている。
テニス少年として爽やかな汗を流していたのも過去の話、二十七歳の神尾アキラは、サラリーマンとして働く傍ら、休日の夜はオカマバーでコンパニオンのアルバイトをしていた。しかしそんなことは会社は勿論、親兄弟にも知られるわけにはいかないので、店に出るときには最新の注意を払い、原型を留めない程に濃い化粧を施す。
休日出勤しているらしい上司との会話を続けながら、片手でテーブルに置いた男の日記を開こうとしたアキラは、すんでのところでとどまってノートから指を離した。こんなもの、読んだところで後悔するだけだ。そう確信していた。
アキラが三年間を共に過ごした男は、一言で言い表すと“ろくでなし”だった。殴る蹴るの暴力は日常茶飯事、稼いだ金は全て酒代とパチンコ代に使ってしまうので、生活費の殆どはアキラが出してやっていた。それでも、今朝方顔面をぶん殴られて家を去られるまではそんな男のことを好きだと思っていたアキラは、やはりどこかおかしいのかもしれない。
日記は読まない。そう決めたのに、それをすぐさまゴミ箱に放る気にはなれず、アキラは、テーブルの上のそれを再びクローゼットの隅に戻した。それと殆ど同時に上司との通話が打ち切られ、携帯電話を女物のハンドバッグに仕舞いこむ。
あとはその日の気分で選んだ香水を体に振りかけ、細身のコートを羽織ってしまえば、出勤前の準備は終わったも同然だった。
「あーら、アキ子ちゃん、今日の唇ちょっと赤すぎるんじゃないの」
「ママはオバンだから知らないだろうけど、今年は赤すぎるくらいの色が流行ってんのよ」
入店後すぐに声をかけてきたママに、適当な言葉を返す。ゲテモノオネェのアキラは、メイクの流行なんて少しも気にしたことはないのだが、オバンという言葉に弱いママは「あら、そうなの」と瞳を輝かせた。その口紅ちょっと貸しなさいよ、と猫なで声を出しながらアキラの肩を撫でる。そんなママの攻撃を「今度ねぇ」の一言でかわしたアキラは、店内に見慣れない客の姿を確認すると、その隣にどっかりと座り込んだ。普通のキャバクラでこんなことをすれば大目玉をくらってしまいそうだが、この店では図々しくなければ客を取れない。
この界隈に来ること自体が初めてだというその男は、初めの三十分は店内いたるところに視線を彷徨わせながら戸惑いの表情を浮かべていた。しかしアキラが酒を勧めてやる内に緊張もほぐれてきたらしく、表情を緩ませる。おねぇさん、よく見りゃ美人だね、とお世辞にしか聞こえない言葉をかけられたアキラは営業スマイルでそれに応じた。
「アキ子ちゃんはいつからここで働いてるの」
「二十歳を過ぎたころから」
「それって何年くらい前?」
「やだーそうやって女の年齢を聞き出そうとするのって、失礼よ」
現在務めている会社に入社するよりも二年は早くからこの店で働いている。オネェ言葉と客のあしらい方はしっかりと板についていて、しかしそんな自分を情けなくも思う。
コンパニオンの仕事は楽しい。女性化願望はないものの、ゲイであるアキラは酒を飲みながら客や同僚と面白おかしく過ごす時間を毎週楽しみにしていた。しかしそれは、これが生活をかけた仕事ではないからなのだということもきちんと理解している。会社勤めでいくらストレスが溜まろうとも、昼の仕事を辞めてこちらの仕事を専業にしようと考えたことはない。サラリーマンであるアキラにとって、店での労働は、仕事というよりは趣味に近いものなのだ。
「店から上がったあと、どこかに遊びにいかない?」
「はあ」
薄めに作ったウーロンハイをちびちび飲みながら、適当な話をしているとそんなことを言われた。アフターの誘いなど、久しくされていなかったので、喫驚して目を丸くする。初訪問の客は「アキ子ちゃんのことがすごく気に入ったんだ」などと調子のいいことを言った。
「だけど、お客さんノンケでしょ」
「あれ、分かるのかい」
「そりゃあ分かるわよ。生まれたときからゲイやってんだから」
今のは完全に嘘だった。アキラは生粋の同性愛者ではない。彼が男に恋をするようになったのは、この店で働き始めてからのことである。そんな半端物のオカマでも、酒を飲ませて会話をしてみれば、相手が同族なのか否かくらいは充分に分かる。
「たしかに僕はヘテロだけど、君のことは本当に気に入ったよ。ほら、もっと飲めばいい。高い酒を注文してもかまわないよ」
そう言ってアキラの肩を抱いた男は、よくよく見るとなかなかの男前だった。着ているスーツやネクタイの質もいいし、多少酒に酔ってはいても品の良さは崩れない。
店を上がったあと、この男に付き合ってみるのもいいかもしれない。そんなことを考えたアキラは、グラスに残ったウーロンハイを飲み干し、念押しのために店で一番高い酒のボトルを注文した。普通の客なら、注文した瞬間に桁が一つ違うだろうと怒りだしてしまってもおかしくないようなシロモノである。しかしアキラをお持ち帰りしようというその男は、それが実際自分の座っている卓に置かれても柔和な笑みを崩さなかった。決まりだな、と覚悟を決めたアキラは、男に向かってにっこりと微笑んだ。
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