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黒子達と店で会った翌日の朝、出勤のために目を覚ました花宮はベッドの下で腹を出して眠る男の存在に気がつくと肩を落とした。ベッドを降り、床に転がる空のビール缶を蹴飛ばしながら洗面所に向かう。蛇口から勢い良く流れ出る水で顔を洗い、正面を向くと疲れきった顔をした男が鏡に映っていた。普段なら澄んでいる眼球の白い表層は赤く充血しているし、瞼も腫れぼったい。男との初めてのセックスで喘ぎ過ぎたせいか喉が酷く痛んだ。足を一歩踏み出すだけでも億劫なくらいに体がだるいが、セックス疲れで仕事を休むわけにはいかなかった。
洗面所から出ると先ほどまで床に転がっていた男が眠たげな表情を浮かべながらも体を起こしていた。水が欲しいと言われたので仕方なく自分が飲むものと合わせて二杯のグラスに水を注ぎ、差し出す。
「酷い顔だな」
「お前がなかなか出さなかったせいで寝不足なんだよ」
「何故かずっと入っていたかったんだ。温度的にも調度よかった」
「風呂みたく言うな」
木吉のセックスはまあ大方の想像通りしつこかった。前戯が長ければ挿入して射精するまでも長いのだ。とてつもなく長い時間揺さぶられれ続けた花宮は、男のせいで枯れ果てたガラガラ声で出勤しなければならないと思うと気が重かった。
「隣の部屋の人、怒ってるかもな」
「はあ、なんでだよ」
「気が付かなかったのか、途中何度か壁叩かれてたぞ」
「……気づかなかった、最悪だな」
真夜中に男の喘ぎ声を散々聞かされたのだから苛立って壁を叩く気持ちは十分に理解出来る。もしも花宮が同じ状況に立たされていたら壁を叩くだけでは済まさず、隣の部屋のドアを叩きに出ただろう。
「次からはここではヤらねぇ」
「次があるのか」
小さく笑った木吉がそんなことを言うので、花宮は自分の失言に気がついた。そんなもんねぇよ、と言いかけて口をつぐむ。
木吉とのセックスは恐ろしく体力を使う。それは与えられる快楽が大きいからだ。仕事の前日に行なっていいようなものではないと思うが、次がないというのは惜しい気がした。
「休みの前日なら」
「そうくるか」
木吉は珍しく驚いた様な表情を浮かべていた。普段はつんけんとした態度ばかりとっている花宮がそんなことを言うとは思わなかったのだろう。
「お前の家行きたい」
さらりとそんなことを言ってしまったが、花宮は木吉の家の場所を知らない。招かれたこともなかった。男はプライベートな空間に他人を踏み入らせるのを嫌うタイプに見える。
案の定、木吉は花宮の言葉に対して返答しなかった。黙りこくったまま自分を見つめる男から視線を逸らした花宮はスーツのかけられたハンガーに手を伸ばす。この男がここを訪れることはもうないかもしれない、なんとなくそう思った。
*
軽い気持ちでゲイの道に片足突っ込んだのが悪かったのかもしれない、会社の昼休み、食欲も湧かず机に突っ伏す花宮は考えていた。
男を食い散らかすのはそれなりに楽しい。しかしときたま冷静になって自分の行動を振り返ってみるとこれがまともな人間のすることか、と頭を抱えたくなるのだった。今がまさにそのときだ。風邪っぴきの花宮はふつふつと上昇していく体温に抵抗しようと冷静な思考回路を保とうとしている。
こほん、と咳を一つして、マスクを買ってくるべきだったと今更ながらに後悔した。そんな花宮の肩を誰かが叩く。重たい上半身を起こして振り返ると、三ヶ月前に別れた恋人と目があった。
どうかしたのか、と尋ねようとするのだが喉がひきつれて声が出ない。水分をとるべきだと思うのに、そのために立ち上がるのは億劫だった。
「大丈夫?」
眉を下げた彼女がそう尋ねてくる。花宮は小さく首を縦に振った。大丈夫ではないのだが、こう尋ねられると否定しづらい。
「お茶買ってきたから」
ペットボトルの緑茶が差し出された。もう別れて随分経つのだからそこまでされる義理はないと思ったが、断るのもいやらしいので受け取り、すぐさまキャップを取る。自分の好きなメーカーのものとは異なるそれで喉を潤しながら、花宮は自分が彼女の前ではあまり酒を飲まないようにしていたことを思い出した。
「風邪、そんなに酷いなら早退させてもらったら?」
「そこまでじゃ、」
「酷いと思うけど」
有無を言わせぬ口調で彼女は言った。他の人に伝染るかもしれないし、と付け足す。
瞬きをした花宮は改めて彼女の顔を見つめた。化粧の仕方が変わったのだろうか、前よりも顔立ちがきつくなった気がする。話し方だって数ヶ月前まではもっと柔らかかった。
もしかすると彼女は花宮が自分を振ったことに怒っているのかもしれない。あれはタイミングが悪かった、と今更ながらに花宮は思う。彼女に別れを告げたのは、彼女が花宮に両親に会ってほしいと言ってからすぐのことだった。あれでは結婚する気がないから別れを告げたと思われても仕方がない。
「怒ってるのか」
花宮が尋ねると彼女は唇を震わせた。怒っているのだか悲しんでいるのだかよく分からないような表情を浮かべて「あなたって嫌な男ね」と言う。
「私はただ心配だっただけよ」
踵を返して去っていく女の後ろ姿を見つめた。スーツのスカートから伸びるストッキングに包まれた足は相変わらず形が良い。数ヶ月前まではたしかに性的欲求を掻き立てられていたその美しい足を見つめても、なんとも思えなくなってしまった自分に気がついた花宮は苦笑いを浮かべて立ち上がった。今日は彼女の助言に従うことに決めたのだ。
*
昼の内に自宅へ撤退した花宮がベッドに横たわっていると「今晩店に来れない?」というメールが届いた。相手はバーテンだ。二丁目にある彼の店には昨晩訪れたばかりだった。行かねえよ、と返信し、しかし流石にそっけなさすぎたかと思い男からの返事が届くよりも先に「風邪ひいてる」と打ち直す。それから二分も経たない内に送られてきたメールには「見舞い行ってやろうか」と書いてあった。
「……家知らねぇくせに」
それ以上のやりとりを続ける気力も湧かずに携帯を放った花宮は額を枕に押しつけた。
首筋を伝う汗を拭いながら、つとバーテンの素の姿はどこにあるのだろうと考える。店の外で見せるオネェ言葉を捨てた姿が彼の素だと考えるのが自然なのだろうが、店の中での客を相手にオネェ言葉でべらべらと喋る男はいきいきして見えるのであれが偽りの姿だとも思えなかった。
ベッドの中での男らしいバーテンと、カウンターをばしばし叩きながらオネェ言葉を操るバーテン、どちらも本物の男なのかもしれない。人間の置かれる状況は常に一定ではないのだ。一人の人間が二つの心を持っていてもおかしくないだろう。
自分はどうだろうか、と花宮は寝返りをうつ。会社の人間や今吉などを相手どったときの平々凡々な自分と、酒を飲んで男の熱を欲する自分、どちらが本物の花宮真なのだろうか。どちらも本物だ、それでいいはずなのに考えこんでしまう。
床に転がったビールの缶が視界の端に映る。それを飲んだ男の顔が脳裏に浮かんだ。思えば花宮が初めに体を許そうとした相手は木吉だった。どうせ女を愛することは出来ない身だ、こいつに抱かれてやるのも悪くない、そんな風に木吉を意識し始めてから、実際男自身に抱かれるまでには結構な時間がかかった。しかし体の関係がなくとも花宮は木吉とふたりきりで過ごす時間はそう悪くないものだと捉えていたのだ。花宮は少なくとも木吉の前では自然体でいられた。
そこまで考えて、ふ、笑いを漏らす。木吉はきっともうこの家には来ない、今朝方想像したことを反復した。
お前の家行きたい、花宮のその言葉に木吉はとうとう最後まで返事をかえさなかった。珍しく気まずげな表情を浮かべて黙りこんでしまった男の背中を見送った風邪っぴきの花宮は「ああ、ついに終わったのか」と溜息をついた。あの溜息が男から離れられるという安堵感に由来したものだったのかどうかはあれから半日が過ぎた今も判断がつかない。
花宮は自分の気持ちが分からなかった。普通に考えれば木吉と離れられることは嬉しいはずだ。花宮は元々他人にプライベートな空間を侵されることが好きではないし、木吉鉄平という奔放すぎる男には振り回されてばかりいた。それなのに、熱にうかされながらベッドに横たわる花宮は、面倒事が消えて清々したと素直に思うことが出来ない。ふたりきりでいてもリラックスした状態で酒を飲める相手を失うのは惜しかったし、
(惜しかったし、なんだ)
寂しいとでも思っているのだろうか。花宮はいつの間にか長く伸びていた人差し指の爪でシーツを引っ掻いた。ローテーブルの上に放られた爪切りに視線を向けて唇を噛む。
あの爪切りは昨晩木吉が使ったものだ。久しくタチ側にまわっていなかった男の爪はバスケをしていた頃では考えられないくらいに伸びきっていて、花宮の腹に浅い傷を付けた。これじゃあ指で慣らすことも出来ないな、と苦笑した男が行為を中断して素裸のまま爪を切り始める姿はなかなか笑えたが、これから爪を切るたびに木吉のことを思い出すことになるのだと思うと気が重い。
ここまでくると認めざるをえなかった。花宮は木吉との関係を断ちきりたくなかったのだ。
シーツを引っ掻いていた指で木吉に付けられた傷を引っ掻いて、薄いかさぶたを剥ぎ取る。うっすらとにじみ始めた血を見つめていると息が苦しくなった。今は風邪をひいて体が弱っているから心細くなっているだけなのだと、そう思い込もうとしても一度胸に潜みこんだ寂寥感は簡単には拭いきれない。
花宮は深い溜息をついて、瞳を閉じる。殆ど初めて味わった寂しいという感情と、体を襲う恐ろしいまでの気だるさからとにかく早く逃げ出してしまいたかった。
*
腹を撫でられる感触で意識が覚醒する。何事かと思い目を開くと、寝間着にしているスウェットを木吉の大きな手がたくし上げていた。
「……なにしてんだよ」
もう顔を合わせることもないだろうと思っていた男が自分の横たわっているベッドに張り付いているという状況に花宮は戸惑いを隠すことが出来ずにいた。しかし彼の言葉を受けた男の方は、平素と変わらぬしれっとした表情を浮かべて「傷を見てた」などと言う。
力の入らない利き手で、木吉の手を無理矢理に払いのけた花宮は男を睨んだ。
「どうして来たんだ」
「偶然店でお前が寝込んでるって話を聞いたんだ」
「店で? 男引っ掛けてからここまで来たってことか。お前元気だな」
「話を聞いてすぐ来たよ。今日は誰にも声はかけなかった」
「なんで」
「なんでって俺のせいで体調崩したんだろ」
「……お前はもう来ないと思ってた」
花宮が大人のくせして拗ねたような口調で呟くと、木吉が不思議げな表情を浮かべた。どうしてだ、と尋ねられて一瞬口ごもる。
「お前も他人に自分のプライベートな部分に踏み入られたくないんだろ」
「まあ、そうだな
「同じ相手と何度も寝るのも好きじゃない」
「相手が俺に対して情を持ってないならかまわない」
「情ならある。たぶんな」
それが恋なんて呼べるほど浮かれたものなのかどうかは定かではなかったが、花宮はたしかに木吉に対してなんらかの情を持っていた。木吉はそれを読み取れないような男ではないはずだ。
「そうか」
それだけ呟いた木吉が花宮の頬を撫でた。熱いな、と笑われて眉間に皺を寄せる。
「伝染るぞ」
「いいよ、どうせ明日は休みだ」
「家まで帰れなくなったらうちの床で寝込むはめになるだろ」
「花宮が詰めればベッドで二人で寝れるだろ」
「寝れるわけねぇだろ。お前自分のでかさ分かってねえのか」
「分かってる、けど二日続けて床で寝るのは嫌だ。日中少し体が痛かった」
「それなら今帰ればいいだろ」
「今帰ったらもうここには来れない気がする。俺の気持ちの問題だけどな」
木吉はそう言うが、花宮には男に人間らしい感情が備わっているとは思えなかった。
「ワケ分かんねぇ」
「お前は面倒だ。感情が表に現れやすすぎる、昔はそうじゃなかったのにな」
「悪かったな」
「だけど俺は今のお前のことが嫌いじゃない。お前を見てるとなにかと考えさせられる。なにを言ったら怒るかとか、なにをしたら驚くかとか、とにかく色々だ。そういうのを考えるのが面倒臭い」
これはなんなんだろうな、と木吉は言う。男の真っ直ぐな視線に撃ちぬかれた花宮の顔にカアッと熱がのぼった。こんなのはキャラじゃない、そう思うのに頬にこもる熱は冷めない。風邪のせいではないことは流石に分かりきっていた。
「情だろ」
恐る恐る切りだすと、木吉は「やっぱりそうか」と息をつき、笑った。
「お前がよその男といるとつまらなかったし、よっぽどのことがない限りやらないタチにまわるのも悪くないと思った」
「……んなこと言われても返す言葉がねえよ」
「それなら今日はなにも言わなくていい。体、しんどいんだろ」
今まで聞いたこともないような優しい声で木吉はそんなことを言った。少し気持ち悪いと思ってしまったのは秘密だ。いや、秘密にする必要もない。腰のあたりまでおりていた布団を口元まで引き上げた花宮は「きもいんだよ」と呟いて瞳を閉じた。男の手に頭を撫でられて、ぎょっとした。この男は誰なのだろうか、とちょっと真面目に考えてしまう。花宮の知る木吉鉄平という男はいい加減で適当で優しくはない。今の木吉はいい加減で適当だが少し優しい気がする。
「今朝、お前に家に行きたいって言われたとき、少し困ったんだ」
「……なんでだよ」
「こいつなら家に入れてもいいかもしれないと思ったから困った。そんなことを思ったのは初めてだったから、こんなあっさりと家に迎えていいのかって」
「尻軽のくせに処女みたいなこと言うな、気持ち悪い」
「たしかに気持ち悪いな」
そう言って笑ったきり木吉は黙りこんでしまった。しかし男の大きな手は花宮の髪の毛を弄び続けている。
頬や額だけでなく、胸の奥にまでじんわりとした熱がこもっている気がする。これは男に対する行き場のない感情が生み出した熱だ。花宮は自分の心を支配しているこの感情に名前を付けられずにいた。これを恋とは呼びたくない。恋を知らない自分が、同じく恋を知らないこの男に恋をしているだなんて洒落にならない。しかしそれ以上に熱を生み出すこの感情に相応しい名前を花宮は知らないのだった。
胸の中に芽吹いた木の枝に最後までしがみついていた意地という名の葉が風に揺られてはらりと落ちてゆく。強情を張るのもここまでにしよう。花宮は存外あっさりと白旗をあげた。
唇を舐めて舌を動かす、喉がカラカラに乾いているのはきっと風邪をひいているせいではない。
「好きだ」
枯れた声で呟くが、木吉からの返事はない。相手の情はその類のものではなかったのだろうかと不安に思った花宮は、男の顔色をうかがうために恐る恐る瞳を開く。男は鋭くも柔らかくもない視線を花宮に向けていた。
「――俺も花宮のことが好きなんだろうな」
視線がかち合った瞬間そう告げられた。言葉を失った花宮の唇に木吉のそれが触れる。
「伝染るぞ」
「その台詞、さっきも聞いたぞ。まあ伝染ったら明日は看病してくれ」
「俺のが治ってなかったらどうするんだよ」
「二人で並んで寝てたらいつか治るだろ」
「どんどん悪化していきそうだな」
花宮がそう言った瞬間、床に座っていた木吉がベッドにあがりこんできた。壁際に押しやられた花宮が図々しい男を睨むと「たしかに狭いな」と笑われる。花宮のベッドは一人用なので当然だった。
それなのに花宮は木吉を床に蹴落とす気にはなれなかった。風邪をひいているせいで体が思うように動かなかったし、男と密着して眠るのも悪くないと思える。
「そういえばバーテンが今年のクリスマスはうちの店で過ごさないかって言ってたぞ。イベントがあるらしい」
「イベント終わったあとヤるつもりだろ。行かねぇよ。……お前は?」
「俺にだって多少の倫理観は備わってる」
花宮がいる間は他の男とは寝ないと言いたいらしい。木吉は誇らしげにしていたが、そんなことは当然だと花宮は言いたい。
「クリスマスは例年通りうちで過ごす」
「少しいい酒が飲みたいな」
「誘ってねえよ」
「誘われてきたことなんてないだろ」
「それもそうだな」
呆れ声で言った瞬間、花宮はとあることに気がついた。好きだの、好きなんだろうななど言い合ったくせして花宮と木吉は相変わらず互いの連絡先を知らない。今後関係を続けていくうえでそれはさすがに問題だろうと思った。
「なあ、携帯、」
そこで言葉が途切れる。自分の隣に横たわっている男が寝息を立て始めたからだ。眠るのも、家に来るのも、恋を自覚するのも、なにもかもが突然な男だ。呆れた花宮は溜息をついたのち、口元を緩めた。連絡先の交換など明日でも出来る。そんな風に考えることの出来る余裕が出来た自分に満足しながら瞳を閉じた。
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