2

 ここ最近花宮は理想と現実の違いについてよく考える。理想というのは考えられるうちで最高のことだ。理想と現実の違いを明らかにするためには自分にとっての理想を定義する必要があるが、これがなかなか難しい。
 今の花宮には何がどうなれば自分にとって最高なのかが分からない。億万長者なんて馬鹿馬鹿しい。いくら金があったところで豪遊する趣味はない。幸せな家庭――と考えてみたりもしたが、どうなれば幸せなのかもよく分からない。結婚は人生の墓場だという話もよく耳にしていた。
 理想とは逆に現実は示しやすい。ありのままのことを挙げていけばいいだけだ。
 現在花宮は自宅であるアパートの一室で缶ビール片手にさして面白くもないバラエティ番組を見ている。そんな花宮の傍らには木吉鉄平が座っている。男も花宮と同じように缶ビールを握っている。この缶ビールを花宮の家に持ち込んだのは二時間ほど前にこの家に訪れた木吉だ。
 ハッテン場で衝撃的な再会をして以来、木吉は頻繁に花宮の家を訪れるようになった。あの日家を知られてしまったことがまずかったのだ。花宮は木吉が宅を訪れるたび苦い表情を浮かべるが、男は土産だと言って必ず酒とツマミを持参するので「帰れ」とも言いづらい。
 なにより、木吉と二人で過ごす時間はそう悪いものでもない。バスケに対してひたむきだったこの男のことを昔は理由もなく嫌っていたが、今の職業不定な木吉のことはさほど悪くもないと思っている。
 しかしながら花宮の現実はこの小さなアパートの一室には留まらない。美しい顔をした恋人と二人で過ごす時間も確かに彼の現実なのだ。女と楽しくもない会話をして、セックスで欲を放つ現実と、ゲイの男とアパートの一室で酒を飲みながらぼんやりと過ごす現実、どちらが理想に近いのかと考えてみるが、どちらも最高という形には遠すぎるのでうまくいかない。
 木吉はあの晩以来花宮に触れてこない。まだ若いこともあってか男はそれなりにモテるらしいので、ヘテロだかゲイだかはっきりしない花宮に手を出す必要もないのだろう。二人きりでいる相手がゲイだとしてもおかしな触れられ方をするようなことがなければ普通の男友達と過ごすのと変わりないと花宮は思っている。
 とはいえ自分と木吉が友達だなどという平和的くくりで縛られていることには違和感を抱かないでもない。そもそも木吉は何を思って花宮の家に入り浸っているのだろうか。花宮は木吉が家を訪れたところで気を遣う必要もないと考えているので殆ど口を開くこともない。木吉も同じだ。男は酒に酔うと口数が減る体質らしく、酒を飲み進めていくにつれて無口になっていく。今だってちょっと恐ろしくも感じられる程に表情をなくして部屋の壁を見つめているのだ。

「なあ、木吉」
「――なんだ」

 壁に向けられていた木吉の視線が花宮の方を向く。

「そろそろ帰れよ」
「雨が降ってる」
「傘貸してやるから帰れって」

 傘を貸してしまえばそれを返すために再び男が現れることは分かっていたが、そんなことはどうでもよかった。あと1時間もしないうちに日付が変わる。木吉は近所に住んでいるらしいので終電の時間を気遣う必要はないが、明日も仕事のある花宮はさっさとシャワーを浴びて眠ってしまいたかった。なにより酔った男の素面のときには想像もつかないくらいに鋭い視線は花宮の心から落ち着きを奪う。
 普段はクローゼットの中にしまいこんでいる折り畳み傘を出してやるために立ち上がった花宮の手首を木吉が掴んだ。そのままフローリングの床に押し倒されて、息を飲む。

「折り畳み傘じゃお前には小さすぎるか」

 現実逃避するように呟くと男の顔が迫ってきた。驚いた花宮は瞳を閉じてしまう。どう考えても判断ミスだ。避けることも出来なくなった男の顔が首元に押し付けられる。熱く湿ったなにかが花宮の肌を這った。

「今なにした?」
「舐めた」
「……お前もう俺にはなにもしないんじゃなかったのかよ」
「そんなこと言ってないだろ」

 たしかに言ってないが、もう随分と長いこと艶っぽいことなど起きていなかったのだ。この先は何もされないのだと思う方が自然だろう。

「とりあえず出せればいいから」

 恐ろしく即物的なことを言った木吉が花宮のそれに自分の腰を押し付けている。既に兆し始めている木吉のそれに驚いた花宮は思わず腰を引こうとしたが、気が付けば体を起き上がらせていた男に骨盤を掴まれてしまい叶わない。

「いてぇ……ッ腰、痛ぇって」
「悪かった」

 悪びれた様子もなく言った木吉は花宮のそれを開放すると彼のシャツのボタンに手をかけた。太い指で恐ろしく手際よくボタンを外した木吉は花宮の突起を指で弾いた。痛みに耐えるように唇を噛む花宮に「もう固くなってるぞ」などと言う。羞恥心に顔を熱くした花宮は、自分が抵抗らしい抵抗もしていないことに気がつくと、申し訳程度の力で木吉の肩を押す。ぴちゃぴちゃと音を立てながら花宮の突起を嬲っていた木吉は、そこから舌を離し顔を上げると小さく笑った。

「……まずいんじゃねぇか、俺」

 何が、とは尋ねられなかった。木吉の大きな手が花宮のスラックスに伸びる。間接的にそれに触れられて、花宮は生唾を飲み込んだ。花宮のそれも男のそれと同じようにすでに熱を持ち始めている。熱い呼気を吐き出した花宮は手の甲で自らの視界を覆うと苦笑を浮かべた。


*

 まずいことになったと思った。既に認めざるを得ない。花宮真は恐らくバイセクシュアルだ。
 昨晩木吉は結局花宮の家に泊まって帰った。花宮が起きたときにはもう姿を消してしまっていたが、今後昨日の様なことが通例化するのではないかと思うと気が重い。
 木吉のことを本気で拒絶することが出来るのなら何も問題はないのだ。もうここには来るなと言って家から締め出せばいい。しかし花宮は木吉の行為に対して悪い感情を抱くことが出来なかった。気持ちが良ければそれでいい、そんな風に思ってしまったのだ。
 自販機で買った不味いコーヒーを飲みながら渋い表情を浮かべる。今彼の頭を悩ませているのは木吉のことだけではなかった。
 つい二時間ほど前、花宮は恋人と昼食をとった。そのときに彼女の発した言葉が彼の低空飛行していたテンションをどん底にまで落としたのだ。会社からほど近い場所に建つイタリアンの店で、自分の注文したパスタを器用にフォークで巻いていた彼女は、花宮に「今度うちの両親と会ってくれない?」と言った。私達結婚を前提に付き合ってるんだから当然よね、その言葉にはたしかにこんな含みが存在していた。機会があれば、と言ってその場は茶を濁した花宮だったが、その後は胃が重たく食事の続きを楽しむ気にもなれなかった。
 女と付き合うというのはこういうことだ。勿論分かっていた。考えないようにしていただけだ。花宮には彼女と結婚するつもりなどこれっぽっちもない。それは彼女に問題があるわけではない。男を無作為に10人集めればその内9人の男は彼女と結婚してもいいと考えるだろう。それなのに、彼女と交際している花宮は残った1人の男だ。
 そもそも花宮は彼女に限らずどんな女とも結婚する気はない。結婚は人生の墓場だなどと言った先人の言葉を真に受けているわけではないが、自分が結婚して上手くやっていけるはずがないと思っている。花宮は女を愛することが出来ないのだ。無論男なら愛せるのかと問われれば言葉に詰まるので、自分はバイセクシュアルなのだろうと殆ど確信してもわざわざ男を選ぶ必要もないだろうと思っていたのだが、彼女の言葉によって事情が変わってしまった。
 異性間の交際には結婚というゴールがある。そのゴールを避け続けることは殆どの場合では許されない。

「面倒くせぇなぁ」

 思わず本音を漏らしてしまった花宮は空になったコーヒーの缶を捨てるために立ち上がった。パソコンに向かってキーボードを叩いている彼女と視線がかち合う。笑顔を浮かべた彼女に対して、自分も笑顔を返そうとしたが頬がひきつって上手くいかなかった。

(……潮時かもな)

 不思議げに首を傾げた彼女から視線を逸らしながらそう思った。


*

「お前のせいだ」
「何がだ?」

 日本酒の入ったグラスに口をつけようとしていた木吉が動きを止めた。その隙に花宮は男からグラスを奪い取る。怪訝な表情を浮かべた木吉に「酔ったら喋らなくなるだろ、お前」と言って奪い取ったグラスをローテーブルの片隅に置く。

「彼女と別れた」
「俺は関係ないだろ」

 花宮は両親と会ってほしいと切りだされて一週間も経たないうちに彼女と別れた。向こうの親に会ってしまったら最後逃げられなくなると思ったからだ。一見すると木吉は関係ないようにも思えるが、花宮は男が今回の件に全くもって関係がないとは思えなかった。
 いくら結婚を避けたがっていたとしても、自分がヘテロであることに何の疑いも抱いていなかった頃の花宮ならこうも簡単に彼女と別れたりはしなかっただろう。それが、木吉の手によって自分はバイセクシュアルなのだと気付かされたせいで、男が相手なら結婚だのなんだの面倒なことにはならないだなどと考えさせられてしまったせいで深く考えもせずに彼女と別れてしまったのだ。

「この前お前があんなことしたせいだ」
「一緒に扱いただけだろ。あれくらいゲイじゃなくても、」
「するわけねぇだろバァカ」
「そうか」
「そうだろ」

 はっきり言ってやると、木吉はなにやら考え込むように黙り込んだ。花宮の顔を見つめながらしきりに頷いている。

「花宮はやっぱりゲイだったんだな」
「……女ともヤれるんだからバイだろ」
「ノンケじゃないってことだろ」

 まあその通りだ。更に言えば今の花宮は女と付き合う意欲が恐ろしく低下している。

「女が相手だと面倒なこと考えないといけねぇだろ。結婚とかうざったいんだよ」
「相手と結婚してるのと殆ど変わらないように生活してるゲイもいる」
「お前そういう風に暮らす気あるのかよ」
「考えたこともないな」

 思った通りだった。木吉は花宮にどこか似たところがある。おそらくは男に対して執着したことも殆どないのだろう。理想的だ、そう思った。

「これからも来いよ」

 気がつくとそう口走っていた。どこに、と問われて「うちに」と返す。どうして、とは聞かれなかった。木吉の大きな手が花宮に向かって伸びてきた。もう肩に触れられたくらいでは動揺もしない。

「お前俺のこと憎くねえの?」
「そうか、お前――忘れてたな」

 あんなこと忘れられるはずがないだろうに、木吉は本当に今思い出した様な口調で言って笑った。空いた手でかつて負傷した膝を撫でる。木吉がどうでもいい様なフリをしているので、花宮もそれにのってやることにする。

「お前くらいが調度いい」

 そう言った花宮は自らの肩に触れる木吉の手に自分のそれを重ねた。既に熱を伴った木吉の瞳を見つめながら自分はどこまでならこの男に許せるだろうかと考えてみる。アナルセックスはまだ荷が重い。そもそも木吉が男側なのか女側なのかすら分からない。

「この前は溜まってたんだ」

 花宮の鎖骨にかじり付いた木吉が呟く。そこにきてようやく花宮はあの晩木吉が雨が降っているからと帰るのを渋った理由を察した。ヤりたくて仕方なかったのに雨が降っていたからハッテン場に寄るわけにもいかず悶々としていたのだろう。
 花宮は男のそういうところが自分には合っていると思った。ヤる相手はお前だけだと限定されるのは煩わしい。花宮は自分がセックスした相手に対していちいち責任を持てるような男ではないのだ。相手が自由にやってくれていたら自分も自由に出来るのだからその方がいい。相手に好意を向けられて嬉しいと感じたこともない。

「花宮は、どっちがいい」
「どっちって、なんだよ」
「タチかウケ」
「……まだそこまでは出来ねえよ」
「タチなら入れるだけだから女相手にするのと変わらないだろ」

 それはどうかと思う。自分が男が相手でも勃つらしいということは先日分かったが、肛門にナニを突っ込むというのはなかなかにハードルが高い。

「ウケなら流石にいきなり最後までするのは厳しいな。初めは指だけで慣らしていく」
「俺はお前に入れるのは嫌だ」
「初心者は大体入れられるよりは入れる方がいいって言うんだぞ」
「初心者があれこれ動く方がきついだろ」

 入れる方がいいという人間は相手に挿入する側に回ることによってせめてノーマルな自分を守ろうとするのだろうが、花宮は入れろうが入れられまいが相手が男だという事実は変わらないのだからマグロでいられる女側の方がまだマシだと思う。
 口角を持ち上げた木吉が「お前は冷静だな」と言う。言われてみれば花宮は冷静過ぎるのかもしれない。欲情した男に相対してこうも冷静でいられる自分が不思議で花宮は黙りこくった。

「面倒くさくなくていい」

 そう言った木吉に唇を奪われながら、内心で「たしかにそうだ」と頷いた。



back

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -