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 幸村を追い出してから一週間が過ぎた。この七日間何度も妻に連絡を取ろうとしたのだが、携帯を開き、いざ電話をかけようとすると指が動かなくなる。ソファに横たわっていた幸村の残像が消えない。妻と娘に対する罪悪感と、自分が追い出した男への未練が交互に顔をだす。妻に全てを話すべきなのだ。不倫の相手は幸村なのだと、彼とこの家で二人で生活していたのだと話さなければいけない。許されなくてもかまわない。妻に憎まれても娘の幸せのために――そこまで考えてし呼応が停止する。つと、娘の姿を思い浮かべた。自分のような父親と暮らすことが彼女の幸せに結びつくのだろうか。娘が自分を必要としているのではなく、自分が娘を必要としているのではないか。考え始めるときりがない。背中にじんわりと汗がうく。
 対面式のキッチンに視線をやる。いやに真剣な表情を浮かべた幸村の姿が脳裏に浮かんで心臓がえぐられた。元々あの場所に立っていたのは妻だ。涼しい顔をしてキッチンに立つ彼女はどんなときでも手の込んだ振る舞ってくれた。それなのに今はもう意識しなければ彼女の姿を思い出すことはない。真田は胸に焼き付いた幸村の残像を消すために娘を利用しようとしているのかもしれなかった。最低の父親だ。こんな男とやり直して妻が幸せになれるはずがない。
 ソファに体をうずめて瞳を閉じる。男の面影を頭から追いだそうとするが逆効果だった。視覚を封じると思い出の中の男がより一層鮮明さを増していく。幸村に初めて出会ったのは四歳のときだった。真田は二十年あまりも昔のその日のことを今でもはっきりと思い出すことが出来る。幸村はとても愛らしい子供だった。真田の母親は幸村を見るたび彼の母親に「精市くんは本当に可愛いわねえ」と溜息をつくように漏らしていた。しかし幸村は愛らしいだけの子供ではなかった。テニスコートに立つと子供だとは思えない程に凛々しい顔になる。いつしか幸村は神の子と呼ばれるようになった。幸村は孤独だったのかもしれない。彼は神の子だなどと持ち上げられて、人と区別されることを気分がいいと感じる様な男ではなかった。そんな幸村を地上に引きずり下ろしたのが越前リョーマだった。立海三連覇を成し遂げられなかった幸村は涙を流していたが、再びテニスを楽しめる様になった。
 青学に越前リョーマを置いた神の采配に真田は感謝している。しかしそれと同時に幸村を開放してやったのが、自分でなく越前であったことを悔しくも感じた。あのとき幸村を負かせたのが越前でなく真田であったなら、二人の関係は今とはまた違ったものになっていたかもしれない。真田は結婚することもなく、もっと早くに幸村を受け入れていただろうし、幸村があそこまでねじ曲がることもなかっただろう。過ぎたことを今さら言っても仕方がないが、そんな風に思う。
 愛してる、それがここ数ヶ月の幸村の口癖だった。見え見えの感情を抑え込み続けた十数年間を後悔しているようにも見えた。あの言葉に真田はなんと答えればよかったのだろうか。俺もお前を愛している、そう言ってやることは簡単だったが、幸村がそれで満足し幸福な気分になれたとも思えない。
 きっともう手遅れだったのだ。真田が結婚してしまった時点で幸村は気持ちを決めていたはずだ。真田を心から信じ込むつもりなどなかったのだろう。そう考えるとやるせない。妻と結婚したことを、娘を作ったことを後悔してしまいそうになる。真田の心はきっと初めから幸村のものだった。認めたくはなかったが、この虚無感がそれを証明している。
 妻のことは愛していた。娘のことは愛している。しかし幸村はそれとはまた別だ。愛しているなどと生ぬるい言葉で片付けられる存在ではない。真田は幸村の傍にいると苦しかった。彼は真田に酷い焦燥感を与えた。幸村もまた真田と共に過ごすことに苦しみを覚えていたのかもしれない。学生時代、幸村はときたま今にも泣き出しそうな顔をして真田を見つめていた。そのたびに真田はなんとかしてやらなければいけないと思い、しかし一度彼を受け入れれば後戻りは出来なくなると分かっていたので彼を無視し続けた。あのときの真田は間違っていなかった。現に真田は今、後戻りの出来ない場所まで来ている。
 声変わりを済ませてなお高く澄んでいた幸村の声が頭の中で反響する。入院中、幸村はよく「苦労をかける」と言っていた。今となっては馬鹿馬鹿しい言葉だ。あのときかけられた苦労など霞むくらいに、今の真田は幸村の存在に苦労させられている。
 妻と娘を幸せにしてやりたい。しかし今はそれ以上に幸村の体に触れたい。おかしな話だ。幸せに出来ないのなら仕方がないと彼を追い出したのは真田自身だと言うのに。
 真田は不器用な男だ。嘘をつくのも得意ではない。妻に許される自信はない。許されないのなら、それはそれでかまわないのだ。妻と離婚することになれば、この家はくれてやろうと思う。残ったローンはもちろん真田が負担する。それくらいしか真田が妻と娘にしてやれることはないのだ。
 深い溜息をついて目を開いた。部屋の照明が僅かに眩しい。気が付けば随分と長い時間が過ぎている。眠りの世界に片足をつっこんでいたのかもしれない。肩が凝っている。頭が痛い。
 後頭部をやんわりと押さえたとき、ローテーブルに載せていた携帯が鳴り始めた。液晶に妻の名前が表示されている。生唾を飲み込んだ。頭痛は簡単には治まりそうにない。

「もしもし」
『久しぶりね』

 妻の声は思いの外柔らかかった。反射的に「すまない」と呟けば笑われる。

『寝起きみたいな声ね』
「眠っていたのかもしれない」
『はっきりしないわね。今日はあなたに言いたいことがあって電話したの』

 妻が何を言おうとしているのか想像することは容易だった。真田は息をつめる。

『どうして電話してくれなかったの』
「……すまなかった」
『そればっかりね。昔のあなたはそうじゃなかった。もっとはっきりとした素敵な人だったわ』
「歳をとったんだ」
『そうね、そうだと思うわ。私もあなたも歳をとっていく。やり直すなら若い内の方がいいと思う』

 彼女の気持ちはもうはっきりと離婚という決断に向かっている。それでもやり直したいと思うのならチャンスは今しかない。彼女に本当のことを話して、もう一度直接会って話したいと告げて――分かっているはずなのに声が出ない。諦めにも似た開放感が身を包む。

「あなたから援助を受けようとは思ってないわ」
「何を言っているんだ。この先どうやって、」
「再婚しようと思う」

 流石に予想もしていなかった言葉に、驚きのあまり黙りこむと、彼女がつらつらと語りだす。

「私も女だから、弱いところにつけこまれるとコロっといっちゃたりして……弦一郎のことを嫌いになったわけじゃないけど、もうあなたのことは愛せない。あなたももう私のことなんて愛してないでしょ」

 そんなことはない。真田は今でも彼女のことを愛している。しかし幸村と彼女を天秤にかければ幸村の比重の方が重たい。

「否定しないのね。あなたは昔から嘘のつけない人だった。私はあなたのそういうところが好きだったけど、この歳になると本音ばかりじゃ疲れるの。私達似たもの同士だったからよくなかったんだと思うわ」
「……そうかもしれないな」
「私、あなたの裏切りを許すわ。私だって離婚もしない内から他の人に気を移してるんだもの。あなたを責める気にはなれない。だけどもうあなたの援助は受けたくない。あなたは自分の生活を切り詰めてでも私達に楽させてやりたいって思うようなタイプの男なんだろうけど、私はもうあなたと関わりを持ちたくないの。だからもう私には何も気を遣わなくてもいいわ。あなたは離婚届に判だけ押してくれればいい。あの子に面会したいなら、」
「いや……かまわない」
「そう。冷たい親だとは思わないわ。あなたどうせ娘に合わせる顔がないだとかそういうこと考えてるんでしょ。私昔はあなたのそういうところが好きだったけど今は大嫌いよ。それじゃあ、離婚届のことよろしくね」
「ああ」

 通話が打ち切られる。全てが終わってしまった。真田のもとに残ったのは、妻と子供に渡そうと思っていたローンの残った一人暮らしには広すぎるマイホームだけだ。



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