5
まだ日も昇らないうちに目を覚ました。昨日飲んだ酒が抜けていないのか気だるい体を起こすと、隣の布団で眠っている幸村が身動ぎをする。
数週間前、この男と二度目のキスをした。それ以来、以前は妻と娘と三人で眠っていた寝室で彼と布団を並べて眠っている。
二度目のセックスはまだしていないが、キスは毎日の様にしている。求められれば拒めないのだ。妻子ある男だとは思えない体たらくだった。
娘が生まれてからというもの、妻とは滅多に体を重ねなくなった。お互いまだ若かったが性に関しては淡白な方だったのだ。子供を生んでから妻は女ではなく母になった。真田の意識が変わったわけではない、彼女は自分から望んで母になったのだ。
娘が生まれた日、妻は言った。
“これからはあなたじゃなく、この娘が私の一番よ”
おおよその家庭において母の愛は子供に一番に注がれるものなのだろうが、それをはっきり口に出す女も珍しいだろう。真田は彼女のはっきりとした性格を愛していたが、そのときばかりは正直過ぎる女を憎んだ。腹を痛めて子供を産み落とした彼女と違い、彼は生まれたばかりの猿の様な顔をした娘に妻に向ける以上の愛情を抱くことが出来なかった。
しかしそれからひと月も経つと、彼は妻の気持ちが理解出来るようになった。自分が名前を付けてやった小さな娘が愛しくて愛しくて仕方がなかったのだ。妻が女ではなく母になった様に、彼も家庭の中では男から父になった。娘以上に大切なものなどなかった。
しかし隣に眠る男は、幸村は、家庭の中では父でしかなかった真田を男として見続けていのだ。彼が家を訪れるたび、居心地の悪い気分になったのはそのせいなのかもしれない。真田は父として家庭に馴染んだ自分を揺らがされるのが恐ろしかったのだ。
それでも幸村を遠ざけることが出来なかったのは彼のいない人生を想像出来なかったからだった。妻と出会う十数年も前から真田の人生には幸村が寄り添っていた。
今もそうだ。妻も娘の出て行ってしまった。それなのに幸村は傍にいる。無論彼女たちが出ていってしまうこととなった原因を作ったのは幸村なのだと忘れたわけではないが、家庭を修復することも絶望的になった今、彼を憎む気にもなれない。
元に戻っただけなのだ。漠然とそんな風に考える。学生時代、自分と誰よりも近いところにいたのは当時の恋人ではなく幸村だった。だからいいのだ。これでいい。
幸村は真田がこんな思考に陥ることを予想していたのだろうか。本気で真田を陥落させるためにこの家での籠城を始めたのだろうか。そこまで考えて、首を横に振る。こと真田のことになると幸村は卑屈屋になった。真田が妻なり新しい女なりに寄り添うまでの間だけ彼を独占すれば彼の傍から消えてしまうつもりだったに違いない。
幸村はそういう男だ。真田が幸村をそういう風にした。幸村はもう二十年以上もなびくだけで決して自分のものにならない男に寄り添い、耐えてきたのだ。
両親の愛は兄と二等分していた。妻の愛は娘に向いていた。そして娘の愛は離れている内に薄れてゆく一方だろう。
幸村だけなのだ。今までも、これからも真田を一番に愛してくれる人間は幸村だけだ。そう気付いた瞬間、この体と心を彼にくれてやってもいいような気になった。
いびきの一つもかかずに眠る幸村を眺める。平素から年齢を感じさせない男だが、眠っていると未成年の様にも見えた。
横髪のかかった滑らかな頬に触れてみる。幸村が目を覚ます気配はない。
愛している、幸村の口癖に返事をする勇気はまだない。永遠を約束してやることもきっと出来ない。それでもこの男は自分の傍から離れていくことはないのだろう。そう思うと酷く安心した。
*
高校生のときに付き合っていた恋人から、次の日曜日に会いたいというメールが届いたのは、真田が妻との離婚を本格的に考え始めたころだった。離婚届けは夏の暑い内に届くと思っていた。それなのに今、かつての恋人と待ち合わせている店に向かう真田の首筋を撫でる風はほんのりと冷たい。
妻は悩んでいるのかもしれない。娘を何よりも愛している彼女のことだ、幼い娘のために、自分を殺して夫とやり直すべきだと考えている可能性もある。絶望視していた家族の修復、それを成し遂げることが出来るのかもしれない。
しかし真田は彼女とやり直す自信がなかった。幸村は今も真田の家にいる。彼を投げ出すことは出来ない。この漠然とした男の愛に報いてやらねばならないという義務感が、妻と娘を捨てるほどに強いものなのかは現状分からないがこんな中途半端な気持ちで妻とやり直すことは出来ない。
昔の恋人に会うのも幸村が関わっている。彼女のメールには幸村のことで話があると書いていた。どんな用件なのかは分からないが、無視することは出来ない。
彼女が待ち合わせ場所として指定してきたのはパスタが美味いと噂のイタリアンの店だった。自宅からもそう遠くない。店の前で真田を待っていた彼女も近所に住んでいるのだろうと思った。
メニューの中から適当な品を選んだ真田は、先日の夕食に幸村が作ったいやに辛いペペロンチーノのことを思い出した。塩っ気が強すぎたのだ。自分で作っておきながら、渋い表情で「不味い」と溢した幸村がおかしかった。
向かいの席に座った彼女は白いブラウスを着ていた。とても三十路前には見えない。この服じゃミートソースは無理かもね、と洩らしながら笑っている。彼女とは大学も一緒だったが面と向かって会話をするのは随分と久しぶりだ。
「幸村くんとは六月に同窓会で会ったの」
彼女と幸村はたしか高校の三年のときのクラスが一緒だった。あの頃はまだ真田の家に妻も子供もいて、幸村は友人として頻繁に家を訪れてきていたが、彼から同窓会の話を聞いた記憶はない。
「幸村くん、私の隣に座ったのよ。それでお酒を飲んでいる内に酔っぱらっちゃって、」
「幸村も酒を飲んだのか」
「ううん、幸村くんはウーロン茶を飲んでたわ。彼、お酒に弱いみたいね」
「……強くはないな」
幸村が同窓会で酒を飲んで他人に迷惑をかけたわけではないのだと分かり安堵の溜息を漏らす。すると真田の顔を見つめていた彼女も溜息をついた。
「真田くん変わらないね」
「そうだろうか」
真田自身は自分は随分変わってしまったと思っている。自分で言うのも難だが、昔はもっと男らしくはっきりとした性格だったと思う。少なくとも男に流されて家庭を手放すような男ではなかった。妻にも「昔はもっといい男だった」と何度か言われたことがある。
「正直もっとおじさんになっちゃってるかと思ってたの。結婚してるって聞いてたし、昔から老けてたでしょ? だけど実際会ってみたら学生時代と殆ど変わらないんだもん、驚いちゃった」
「お前もそう変わらんだろう。若く見える」
「そう? 私は独身だからだと思うわ」
「結婚しているものだとばかり思っていた」
奔放な性格だった彼女は真田と別れてからも半年ごとに恋人を変えていた。今も充分にモテそうだ。
「あれでも私引きずってたのよ、真田くんのこと」
「そうは思えんな」
そもそも付き合っていても楽しくないという理由で真田を振ったのは彼女の方だった。振られた真田が彼女に対して未練を持っていたわけではないが、それは彼女も同様だろう。
「真田くんて特別というか、変わってたでしょ? なんか気難しくてさ……それが原因で別れたんだけど、その後普通の人と付き合っててもなんか違うなあって」
「勝手な話だな」
「相変わらず厳しいね。それで同窓会の日、酔った私は幸村くんに言ったのよ、真田くんに未練があるんだって」
「……幸村は、」
「幸村くんは真田くんがいかに家族と仲良くやってるか話してくれたわ。酷いでしょ、私かなり傷ついたのよ」
「たしかに、酷いな」
幸村は彼女の何倍も傷付いたことだろう。真田から彼女を遠ざけるため、必死に自傷の様な話を続けた幸村を想像すると胸が痛んだ。
「それで極めつけには俺にしときなよって……今だから言うけど、私真田くんと別れたあと幸村くんと付き合ってたのよ。すぐに別れたんだけどね。それを今さら誘われてもね……そりゃあ幸村くんは今も昔も王子様みたいに綺麗な顔してるけど、だからって私は、」
「その話をするために呼び付けたのか」
随分ときつい口調になってしまった。真田を見つめる彼女の瞳が潤む。
「困ってるのよ、私。ついこの間も幸村くんから電話がかかってきたの」
「ついこの間?」
「先週くらいかな、一緒に夕ご飯でも食べないかって。私、真田くんに誘われたら、」
そこまで聞いて立ち上がった。料理はまだ届いていないが財布から二人分の勘定を取り出して机に置く。座ったままの彼女が戸惑った様な表情を浮かべて真田を見上げていた。
「ちょっと、嘘……帰るの?」
「急用が出来た」
「次いつ会える?」
「次はない」
つっぱねる様に言って店を出る。彼女には悪いが今は一刻も早く幸村の顔が見たかった。
*
二人掛けのソファに横たわっていた幸村が「おかえり」と言って笑う。幸村はよほど退屈なのか頼りない腕を意味もなく宙に向かって伸ばしている。宙を舞う手のひらを反射的に握ると、驚いた様な顔をされた。
「デートはどうだった?」
「デートじゃない。彼女と会ったことをどうして知っているんだ」
「携帯見てるから」
「そうか」
「驚かないの?」
不思議と驚いてはいなかった。この男ならそれくらいのことはやりかねたいと思ったし、携帯を見られて困るようなことはない。妻のことは裏切り続けている真田だが、幸村を裏切るような真似はしていなかった。
「俺の話だって聞いたから行ったんだろ」
「ああ」
頷きながら、幸村は氷解し始めた真田の気持ちに気づいているのだろうかと考えた。間もなく手に入るものだと分かっているからこうも落ち着いているのだろうか、と。しかしその読みは外れていた。数秒前までは落ち着きはらっていた幸村が今は酷く苦しげな表情を浮かべている。
「俺がこの家に入り浸ってること言いふらしたんじゃないかって不安になった?」
「そんなことは少しも考えなかった」
「それじゃあどうしてあの子に会いに行ったりしたんだよ」
どうしてと言われても困る。幸村のことが気になったからとしか言いようがない。しかしそんな理由ではどこまでも卑屈なこの男は納得しないだろう。
「同窓会があったんだな」
「……ああ、あったよ。俺も人並みに高校時代の思い出に浸ったりするからね、欠席する理由もなかった。それでお前の元カノに構って昔仲が良かった奴とロクに話しもせずに帰ってきたんだから笑えるけど。
あの子若いよね。まるで学生みたいだった。今でも真田に未練があるだなんて言うから驚いたよ。すごく不安になった」
「あの時は妻も子供もいた」
「だけど俺とヤっただろ。お前はそういう奴だったんだよ。誘惑されたら誰彼かまわず寝るんだ」
「……そんなわけないだろう」
「男の俺に誘われて寝たくせに、元カノに誘われても寝ませんなんてのは無理がある」
今にも泣き出しそうな顔をした幸村が握りっぱなしだった真田の手を払いのける。指先から体温が消えていくのが切ない。
幸村の言葉はある意味筋が通っている。妻も同じことを言うだろうと真田は思った。一般的に考えれば親しくしていたとはいえ男と不倫するということは普通ではない。女が相手なら普通ではないが理解の範疇内だ。ハードルの高さで言えば男とセックスするよりも元カノとセックスする方が随分と低いだろう。
それでも、真田は幸村以外の相手なら過ちを犯すことはなかっただろうと言い切れる。はじめから幸村は特別だった。学生時代の未練であり、今もなお完治しない熱病だ。十年以上も昔に数ヶ月付き合っていただけの女と比べることは出来ない。
「俺は彼女にお前のことをあきらめさせるために必死にお前と奥さんとお前の娘の話をしたよ。真田は理想的な家庭を築いてるんだって言った。喋ってる内に胃が痛くなってきて、料理に手をつけることも出来なくなった。それでも彼女は、あの女はお前に家庭があってもいいだなんて言うから俺は最後の手段を使うしかなかった」
「誘いにのってきたらどうするつもりだったんだ」
「寝るつもりだったよ」
暗い谷の底に突き落とされた様な気分だった。今の話が過去のことなら構わない。真田が妻と、子供と幸せに暮らしていたころの話なら許容出来る。しかし幸村はつい先日も彼女を誘っているのだ。真田の家庭を壊し、俺にはお前だけだと言いながら女と寝ようとしている。
「俺はお前に近づく女が怖くてたまらないんだよ。自分が女には勝てないことくらい分かってるんだ」
「どうしてそんなに卑屈になる」
「卑屈になるに決まってる。お前は俺を愛してない。愛せるはずがない。お前はいつか俺をこの家から追い出す。全部分かってる」
俺はお前を愛している、その言葉が喉まで出かかった。その瞬間は幸村が望むのなら今すぐにでも妻と離婚しても構わないと思った。幸村のためなら人間のクズになってもいい。しかし真田が思いの丈を口にするよりも先に、口を開いた幸村が笑う。
「俺はお前が奥さんと別れて、俺のことを愛してるって言ってくれても同じ事を繰り返すんだろうな。お前に近づく女が消えない限り俺は女と寝続けるんだ。さっさとヨボヨボの爺さんになってよ、真田」
高ぶっていた感情が一気に冷めていくのが分かった。幸村はおかしい。真田の理解の及ばないところに立っているのだ。この男をこんな風にしてしまったのは自分なのだということは理解している。責任も感じる。
しかしこんな男のために妻を、娘を捨てることは出来ない。家庭を捨ててでも、幸村を幸せにすることが出来れば真田はきっと満足することが出来る。つい先程までこの卑屈な男を幸せにしてやれるつもりでいた。しかし今の話を聞いてしまった真田は、彼を幸せにする自信がない。幸せにしてやることの叶わない男の手を取れば、後悔することは目に見えている。学生ではないのだ。失敗すると目に見えている恋愛を始める気力はない。
「出ていってくれ」
拒絶の言葉はすんなりと喉を通った。愛を囁くよりは随分と簡単だ。幸村がソファから身体を起こす。ごねられるかと思ったが意外にもあっさりと「分かった」と言った幸村はてきぱきと荷物をまとめはじめた。
「いつかこうなるって分かってた」
リビングのドアの前で捨て台詞の様な言葉を吐いた幸村の唇は震えていた。
玄関先まで彼を見送ることはしなかった。未練が残るのが怖かったのだ。
「お前は間違っている……」
届くはずもない言葉を呟いた。見送ろうが見送らまいが結局未練は残るのだ。今はまだ妻に電話をする気分にもなれない。
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