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「愛してる」

 夕飯どき、何の前振りもなく幸村が呟く。彼の作った玉葱の焦げた焼き飯を咀嚼していた真田は小さく頷きはするが何も答えなかった。俺もだとも、やめろとも言えないが今更動揺もしない。
 幸村のそれは口癖の様なものだ。口癖だとは言っても軽い気持ちで使っているわけではない。幸村は本気だ。本気で真田を陥落させようとしている。日に何度も同じ台詞を吐くことによって、はっきりとした愛情表現に慣れない真田を腑抜けさせようとしているのだ。
 妻が家を出てからひと月が過ぎた。家族三人で暮らしていたこの家で、今は幸村と二人きで生活している。妻からは初め一週間程はせわしなく電話がかかってきていたが、現在はメールの一つも届かない。娘の様子は気になったが、こちらから連絡を入れることもない。罪悪感を抱いていないわけではないが、それも少しずつ薄れていっている。
 幸村との生活には安心感がある。セックスはあの晩以来していない。幸村の方から抱いてくれと要求されることもない。幸村は毎日決まりごとのように「愛してる」と囁いて、下手くそな料理をふるまってくれた。愛の言葉は重たいが、愛されていると知りながら知らないふりをしていたこの十数年間の妙な居心地の悪さを思い返せば、あからさまな言葉をかけられる方がいっそ清々しくも思える。
 それでも、妻と子供が帰ってくれば真田は幸村との関係を断ち切るだろう。妻との暮らしに比べれば幸村との生活は気楽だが、未来がない。娘は何にも変えられないほどに大切だ。
 とはいえ、妻はもう帰ってこないだろうとも思う。彼女はプライドが高く、強い芯を持っている。真田の裏切りを許すことはこの先一生ないだろう。許すことはなくとも、真田が相手の名前さえ伝えれば娘のために自分を殺して家族三人での生活を続けたに違いない。そういう妻の性格を理解していたにも関わらず、真田は幸村の名前を出さなかった。妻から電話がかかってきて、なじられるたび、すまなかったと言った。勢いよく電話を切られるたび、“離婚”の二文字が脳裏をちらつく。そんなものは今どき珍しくもなんともないのだと理解していても、自分がするとなったら話は別だった。
 不倫相手は幸村だと告げて、元の関係に戻れるのだとすれば真田はためらいもなく口を割るだろう。しかしプライドの高い妻は、自分の旦那が男と不倫をしたなどという事実を知れば怒り狂うに違いない。怒りに怒って、傷ついて、やりなおせるはずがないと言う。そんなことになるくらいなら今のまま彼女からの最終宣告を待つ方がずっとマシだ。
 奥さんをどうするのかと問うた幸村にそう答えたら「いつの間にかしょうもない男になったね」と笑われた。奥さんに出て行かれても仕方がないとも言われた。そうしてひとしきり笑ったすえ、真田を見つめた幸村が「愛してる」と場にそぐわないことを言うので参ってしまう。こんな自分を愛してくれる相手がすぐそばにいるのだと思うと心臓が固まる。幸村は真綿で首を絞めるようにじわじわと真田の心の逃げ道を塞いでいくのだ。



*

 月曜の仕事帰り、真田は自分の勤め先からほど近いところに建つ幸村のマンションを訪ねていた。オートロックのエントランスで、今朝方幸村から預かった部屋の鍵を使う。
 幸村のマンションは駅から徒歩十分ほどの場所に建つ、築十年ほどの建物だ。何度か訪れたことのある彼の部屋は中古らしいが小奇麗だった。まだローンも残っているらしいが、幸村は真田の家に泊まったきりでここひと月は最寄駅で降りたこともないという。
 エレベーターを降りた真田は、数歩歩いたところで幸村の部屋の前に人影があることに気づいた。若い女性が彼の部屋の前に座り込んでいる。更に近づいてみるとそれは幸村の妹で、彼女と顔見知りの真田は咄嗟にエレベーターの方へ引き返そうとしたが、後退するよりも先に存在に気づかれてしまう。

「真田さん」

 立ち上がった彼女が小さく手を上げた。シカトするわけにもいかないので小さく会釈をして歩み寄る。

「兄に会いにきたんですか」
「……そんなところだな」

 事実は違う。真田は幸村に携帯の充電器をとってくるよう頼まれたのだ。大荷物を抱えて真田の家にやって来た幸村は何故だか携帯の充電器を忘れてきていた。このひと月は真田のものを使っていたのだが、流石に不便なので彼におつかいを頼んだのだった。本来であれば自分で行けと言うところなのだが、毎晩早くに帰宅して自分のために一向に上達しない料理を作り続ける幸村の姿を見ていると、マンションに職場が近い自分が行ってやってもいいだろうと思えた。
 などという事情を彼女に話せるはずもないので、真田は幸村の不在を知らず訪ねてきた友人のふりをすることにした。案の定、苦笑して眉を下げた彼女は「兄は留守にしているんです」と頭を下げる。

「私も、今日行くからねって言ってたんですけど……」
「そうなのか」
「ええ、両親に兄の様子を見てくるよう頼まれていたので」

 彼女の言葉を聞いた真田は、心の中で「そういうことか」と呟いた。幸村は妹が家に訪ねてくることを知っていたからこそ真田に遣いを頼んだのだろう。自分は妹に会いたくないが、待ちぼうけさせるわけにもいかない、そんな風に思ったに違いない。それなら今日は都合が悪いのだとメールの一つもよこしてやればいいと思うのだが、どこか抜けたところのある幸村にそんな気遣いを求めるのは無理があるのかもしれない。

「……お兄ちゃん、お見合いをするかもしれないんです。それが嫌で最近お母さんたちを避けてるの」
「見合い?」
「お兄ちゃんて少し抜けてるでしょう? 気が利かないというか、なんというか……本人に悪気がないのはわかってるんですけど、両親からすると地に足が付いてないように見えるみたいで」
「心配してるんだな」
「そうなんです。お兄ちゃん昔真田さんが家に来てもお茶とか絶対出せなかったでしょ? お母さん、そんな昔のことを持ちだして早くしっかりしたお嫁さんを持った方がいいって」

 学生時代のことを思い起こす。彼女の言うとおり、幸村は気の利かない男だった。今でこそ毎日の夕飯を作るくらいに成長したが、昔は真田の両手が荷物で塞がっていても決して部屋のドアを開けようとしなかった。知らんぷりをしていたわけではないと思う。幸村は本当に気が付かない男だったのだ。

「だけど私、お兄ちゃんにお見合いなんてさせても意味ないと思います。だって、上手くいくはずないもの」
「やってみないと分からないだろう」
「本当に?」
「いや……」

 正直に言えば見合いは失敗するだろうと思っている。しかしそれは彼女が思っているのとは別の理由だろう。真田は幸村が自分に向ける重すぎる愛を知っているから彼に見合いをさせることは無意味だと考える。

「そうですよね。お兄ちゃん、結婚する気なんてないんですよ。結婚して家庭を作る気があったら1LDKのマンションなんて買わないはずだもの」

 確かにそうだ。幸村の部屋は1人で暮らすには余裕があり、広々としているが結婚して子供を作ることを考えれば少々狭い。家庭を持つ気があるのなら、独身の若いうちからこんな部屋を購入したりはしないだろう。

「それにお兄ちゃん、女の子に心を開けないんです」
「そうなのか」
「昔、私の友達とお兄ちゃんが付き合ってたことがあって、」

 そんな話は初耳だった。真田は幸村に交際している相手がいるという話を聞いたことがない。それはいつの話なのかと尋ねたかったが、ただの友人がそんなことを根掘り葉掘り聞くのもおかしな話なので堪える。

「最後には振られちゃったんですけど、その子言ってたんです。お兄ちゃんは優しすぎるって、優しすぎて何を考えてるのか分からないから怖いって……おかしいですよね」
「そうだな」

 幸村は確かに優しい人間だ。しかし優しすぎるという表現は似合わない。彼の優しさはベタベタとまとわりつくようなものではなく、もっとあっさりとしていてわかりにくいものだった。何を考えているのか分からないということもない。むしろ分かりやすすぎるのだ。そのせいで学生時代の真田は気苦労が絶えなかった。

「お兄ちゃんと付き合っていた女の人って皆同じことを言うんですよ。お兄ちゃんは、自分と付き合っている女の人に対して心を開くことが出来ないんだと思います」
「結婚してみれば変わるかもしれない」
「真田さんは結婚の先輩ですもんね」

 思わず言葉に心臓をえぐられる。邪気のない瞳で自分を見つめる若い彼女に、今は妻と別居しているのだなどとは言えなかった。幼いころから見てきた彼女に夫婦の絆なんてそんなものなのかとは思わせたくない。

「お兄ちゃん、恋人とかいるんでしょうか。もしもいるのなら、その人とどういうお付き合いをしていたとしてもうちの両親は見合いを強行するようなことはしないと思います」
「……恋人はいないようだ」
「そうですか……」

 昔から兄想いだった彼女は、幸村に無理な見合いをさせたくないのだろう。肩を落として廊下を見つめている。

「お兄ちゃん、昔から恋に興味がなさそうだったから。いつも流されるままに適当な女の子と付き合って……お見合いだってすごく嫌がってるけど無理にさせられたら案外するっと結婚しちゃうかも。私、お兄ちゃんにはそんな結婚してほしくないんです」
「幸村は恋をしている」
「えっ?」

 気がついたらそんな言葉が口をついて出ていた。彼女のために言ったのだ。幸村に見合いをさせたくないわけではない。幸村が見合いをして、結婚してしまえば気が楽だと思う。幸村が傍からいなくなれば、妻と別れることになっても一からやり直せる気がした。

「でも恋人はいないんですよね」
「ああ」
「片思いですか」
「……どうだろうな」
「恋人になる見込みは、お兄ちゃんが幸せになる見込みはあるんですか」
「分からない」

 本当に一からやり直したいと思うのなら、彼女に気を遣ったりせず、見込みがない恋だから見合いをさせた方がいいと言えばいいのだ。それなのに、真田にはそれが出来なかった。真田は幸村に対する自分の気持ちをはかりかねていた。

「……そうですか。それじゃあ私、両親にはお兄ちゃんには恋人がいたって伝えます」
「それは、」
「少しでも見込みがあるのなら、無理にお見合いなんてしない方がいいと思うんです」
「……そうだな」

 幸村の妹がエレベーターに向かって歩き始める。それに続こうと思ったが、スーツのポケットの中で存在を示す彼の自室の鍵の存在を思い出した真田はその場に立ち尽くした。彼女に怪しまれてしまうかもしれないと考える余裕は一切なかった。今回の件に関して、自分の対応は間違っていたのではないかと考える。
 七歩ほど歩いたところで彼女が振り返る。なんとも形容しがたい表情を浮かべた彼女は、小さく口を開いた。

「小さいころ私、真田さんに憧れてたんです」
「……そうか」
「ほら、子供って兄弟の物を欲しがるじゃないですか。その心理で。真田は俺のだって、お兄ちゃんいつも言ってたから。……あっ勿論変な意味じゃないですよ。それじゃあ、失礼します」


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